レッスン前夜
「……受けちゃった、私」
ハルが言った。勢いで言ってしまった手前、不安が募っている。最高でも四年で一千万を稼ぐことができる。就職するまでの二年半あまりを、小金稼ぎでつなぐこともなくなる。そんな事を考えたら、すぐに返事をするべきだとおもった。
「どうしよう、ソラさん。こんな、考えなしにモノ言ったの初めてなんだけど……」
「はあ、お金に釣られるなんてね。でも一千万なら一億ぐらいで良かったんじゃない。あの人の概算だと四〇年で億万長者になれるみたいよ」
「別に億万長者に興味はない。もちろん、あったら困らないだろうなって思う。──私の家ね、借金があって。それが一千万だったから、言ってみただけ」
「……バイトをしているのも、借金を返すため? けど、それは親の役目な気がするわ。貴女の働いたお金が借金返済にあてがわれるなんて理不尽すぎる」
彼女の言うことは最もだ。だが世の中にはままならないこともある。
「両親、いないの。私と下の娘たちを置いて、どっかいっちゃった」
「──」
精一杯似ほほ笑みを浮かべる。ソラに変な罪悪感を抱いてほしくない。彼女はそう、とだけ口にしてそのまま黙った。
「だからね、悪い提案じゃないんだ。これはチャンスだと思ってる。お金を稼いで、弟と妹を不自由なく過ごさせる。それが、私に残されている唯一の生きがいだから」
他人に自分の思いを吐露するのは初めてだった。ソラに夢があるように、ハルも自分の夢を話すのが筋だと考えたのだ。続いて、ハルも立ち上がる。話はそれで終わりだ。
「仕事戻るね。じゃあ、またピアノの演奏の日に」
扉の取っ手を掴んで休んでしまった分を取り返さなければ、と意気込んで横に開こうとした。だがもう片方の手が何かに掴まれる。ソラから伸びた手だった。彼女は俯いたままでどんな勘定を浮かべているのかわからなかった。
どうかした、と尋ねる前にソラが言った。
「……私も、ついていっていい?」
「ついていくって、何を?」
「見学、アイドルの。私も、将来の仕事場、知っておきたいし」
徐々にその顔が顕になっている。彼女が浮かべている戸惑いを、ハルは知っていた。つい数分前に浮かべていたからだ。
自分でもどうすればいいのかわからない。前へ進めばいいのか、やはり立ち止まるべきなのか。だがどうしても、前へ進む感触を選んでしまうのは、どうにかして自分を変えたいと願いっていることの証だ。それをどうして否定できるのだろうか。
「うん、心強いっ。連絡先交換しておこう。黎野さんからは、私から言っておくから」
「……ありがとう」
掴まれたもう片方の手で握手を交わす。ソラは安心しきったように息をついた。共に個室を出た後、ハルは気になっていたことを訊ねた。
「ねえ、本当の名前はなんていうの?」
「……言えない。言ったら驚いちゃうから、言わない」
言えないのか言わないのか、どっちなんだと突っ込みたくなるが、名前なんてどうでもいいとさえ今なら思える。連絡先を交換したときも、名前の欄は『???』となっていた。あまりの徹底ぶりに苦笑いがこみ上げるが、?の部分を『ソラ』に変えて登録する。そのあと、ソラはハルの持つスマホを見て眉をひそめた。
「その端末、何世代前のもの使ってるのよ?」
「さあ、2千円ぐらいで買ったやつだから。アプリは全然使えなくなったけど、電話とメールぐらいはできるから」
「なるほどね。……姉さんたちが聞いたら驚くかな。でも、使い方としては完璧。私も最新の機種より、そちらに変えてみようかしら」
「はは……」
端末一つで完結した世で、そんな面倒な真似をする物好きはいないだろう。正直に言うと、便利な機能を使えたとしても持て余しそうだと、スマートフォンを手にした時に感じた。ふと、ソラはハルが持つスマートフォンを眺めてこう言った。
「SOURENJI製品、使ってくれてるのね」
「そうよ。うちにある大体の家電も、SOURENJI縁のものがほとんど。安いし、使い勝手いいから」
「……そう。姉さんたちに伝えておくわ」
「?」
彼女の姉たちがSOURENJIの製品を作っているという意味合いに取ったが、なんだか会話が噛み合っていないように思えた。ともかく、ソラはそのまま店を後にし、ハルは仕事に戻った。先輩に「スカウトでもされた?」と尋ねられたときは驚いたが、この店ではああいったものが起こるらしいとのこと。先輩もモデルのスカウトが来たが、自分の夢のためにことわったとのこと。なんと、メイクアーティストになりたいらしい。
ハルは自分の夢のために、アイドルをやってお金を得ることを選んだ。ソラや先輩のように、行為そのものが目標という例をハルは抱けない。
だからせめて、仕事として頑張ってみようと、今のうちに覚悟を決めておいた。
事前にソラも見学に行きたいと黎野へ連絡を入れると了承の返事をもらったので、ソラにも連絡を入れる。その間、アイドルとは何かをネットや本で調べてった。その一週間後、連絡が届いた。場所は都内のレッスンスタジオで、電車を使って向かう必要が出てきた。
アイドル、それはハルにとって本当に新鮮な情報でしかなかった。その中でも現代のアイドルは興味深い。黎野が代表取締役を勤めるファンタズムは、様々なアイドルグループが所属している。なかでもLakersという三人組のアイドルグループは現世代の中でトップに位置している。3人とも可愛くしてパフォーマンスも胸を打たれるものがあった。
ソラにダンスの練習をしたほうがいいかと尋ねたが、自分で考えろという厳しい意見が返ってきた。だが人に意見を求めるほどハルはアイドルというものを分かっていない。とりあえず、Lakersの曲を完コピできるくらいに練習はしておいた。動画を見てイメージと体の映像を合わせていく。曲は聞いているうちに覚えてしまったので、早朝の公園で歌の練習をした。
時間が許す限り歌と踊りに使い、いつも異常に体力が疲弊した。もし本格的にアイドルをするならバイトを辞める必要が出てくる。だからせめて、やれることは出し切って、踏ん切りをつけたいと思った。
「お姉ちゃん、最近疲れ気味?」
「ん、まあね。ちょっと仕事増やしたから」
「……朝、仕事でも始めたの?」
「そんなところかな」
と、アキは早朝に出ていくハルを知っていたらしい。朝の五時に起きて、自転車で五分のところの公園で練習をしている日々が続いたが、二人にネタばらしするのは初任給をもらってからでいいだろう。
「……私、中学になったら新聞配達やるから」
「もう。ねぼすけなのに出来るわけ無いでしょ。あと、別にやる必要ない。そのときには、私働いているし。あ、それと明日少しだけでかけてくるから、お留守番頼んだ」
アキの肩を叩いて言うと、渋々と言った感じでうなずいた。




