空の旋律
「ん、ん──」
嫌な夢といい夢がまぜこぜになったような複雑な目覚めだった。まぶたを開くと微かな照明と、ふかふかの感触が襲ってきた。体を起こそうとしたが、鉛が体内に入っているように上手く動かない。どうにか上半氏だけ起こして状況を思い返す。
「……やっぱ倒れちゃった」
体が休んだからか、頭も冷静になっている。この一週間、如何に冷静を欠いたで普段の生活を過ごしていたのかを思い知る。どうにかお金を得る手段はないか考え、そうすると学業が疎かになり、疎かにすると就職先にも響く。このジレンマを考えたくなかったのだろう。ハルは普段以上の熱を使って勉強とアルバイトへのめり込んでいったのだ。
なにかに熱中すると考えたくないことを考えなくてすむ。そんな安易な逃避をしてしまったのだ。それは家族のためではなく、ジレンマに追い詰められたくない自己防衛本能が働いてしまった、自分の身の可愛さからだった。ハルはこんな自己嫌悪を知らなかった。自分のための欲求が働くなんて、二人のためにはならない。自分はナツとアキを幸せにするためのプログラムだ。自分のことなんて、どうでもいいはずではないか。
「二十四時間働けます……ねえ。私にくれないかなあ」
二十四時間働けるという才能があれば、あらゆる問題を解決できるというのに、何故か人間はそうプログラムされていない。これもジレンマの一種だ。いまこうしている間も、時給分の時間を無駄にしている。
さっさと仕事に戻ろうと体を動かしたところで扉が開いた。みると、お盆を手に先輩がやってきていた。立ち上がろうとしていたハルをみて、血相を変えていた。
「ハルちゃん、ちゃんと休まなきゃダメ。ほら、ベッドで寝てて。今日は帰り、私が送っていくから」
「で、でも仕事しているのに、こんなのって」
「馬鹿言わないで。倒れたのは貴女なのよ。そんな人、現場では使うと思う? 私なら絶対に使わない。だからほら、今日は諦めてこれ食べて」
そういってベッド横のテーブルに料理を置いた。卵粥にじゃがいもとにんじんの煮っころがしという消化に良さそうなものだった。
「じゃあ仕事に戻るから。体、悪くなったらいつでも呼んでね」
そういって先輩は部屋から出ていった。一人きりの部屋で、改めて周囲を眺める。おそらくは深夜勤務する人のために用意された仮眠室だろう。深夜三時まで営業というスタイルなので、ベッドは自分が眠っているのともう一つある。救急車で病院に運ばれなかっただけ良しとしよう。
ハルはお粥と煮っころがしをいただいた。体が求めていたのか、あっという間に食べ終えてしまった。体調も戻ったし、帰宅しようと考え壁の時計を見ると、九時半を回ったばかりだった。
「まだ、仕事できるかも」
ハルは部屋から出て、厨房のほうへ向かった。迷惑をかけたぶんの仕事はこなさなければ、と思ったところで先輩に見つかってしまい、彼女の退勤時間まで仮眠室で休むようにも強い口調で言われた。ならすぐに帰宅の準備をすると言ったが、彼女はそれすら許してくれなかった。
「……ああもう、頑固な娘なんだから。じゃあ、あそこの空いている席で待ってて。私も十時退勤だから、車でおうちまで送ってあげる」
それは悪いですよ、と言おうとする前に先輩は仕事へ戻ってしまった。仕事着のままで席に座るなんて、このレストランの品格を落とす行為なのではと思ったが、夜景席の端っこだと人目につくことはない。仕切板で視界の一部覆われていて、レストランの全容はみえない。右手には夜景、左手はピアノの演奏者の後ろ姿が見えた。そういえば、今日は金曜日だ。週に一度の演奏会がお披露目となる。時間的にも始まりの時間だ。
「……何歳なんだろ、あの子」
以前出くわした少女は、水色のドレスを当然のように着ている。黒髪は以前のように後ろでひとまとめにして、足元も衣装に合わせたパンプスを履いていた。彼女は演奏前に立ち上がり、客の多い方へと一礼をした。品のある拍手がこだましていく。すると黒髪の少女はハルの座っている席へと視線を送ってきた。
少女はハルに黙礼をしたあと、椅子へと座っていく。永遠にも思える静寂。誰もが音の入りを楽しみにしている。そして少女の旋律が静かに始まった。
彼女の指使いまでは見えないが、背後から動く肩と腕を見るだけで繊細な作業をこなしている。楽譜はない。頭の中で、全て記憶しているのか。小学校の頃に行った楽器の演奏とは比べ物にならない。たった二つの手で無駄のない世界が彩られていった。
近くにいるからこそ、音の強弱や抑揚一つとっても世界を構成する不可欠なものだとわかる。きっと他のピアニストが演奏すると、また違った世界が聞こえてくるのだろう。
気がつけば、ハルはピアニストの後ろ姿を眺めていた。鍵盤の上を指の一つが生き物のように蠢き、せわしなく次の鍵盤へと触れていく。あんな芸当、できたらきっと楽しいだろう。ハルは何となくそう思った。
曲は休み無く続いた。一曲弾いたら、また次の楽曲へ。少女の指は機械のように休むことなく。そんな少女の後ろ姿は冷えたものに映った。ピアノの旋律は美しく素晴らしい。だがこの素晴らしさを生むために、黒髪の少女は必死に鍵盤を叩いているのだろう。
「……すごい」
才能は時として残酷に人々の心を刻む。ハルがピアノをやる場合でも、幼い頃から研鑽があれば同じようにピアノの旋律を撫でることはできるだろう。だが黒髪の少女は別格だ。あのピアノには才能という生まれながらの素質が遺憾なく発揮されている。
以前聞いたときから、彼女のピアノを聞きたくて仕方がなかった。こうして真正面から音の息吹を浴びて、こんなにも心をときめかせるとは思いもしなかった。
そう、いるのだ。公園の隅で星のように輝く少女や、鍵盤一つで世界の息吹を描き出せる少女が。ハルができることは眺めることだけだ。力のないものは、彼女たちから放たれるエネルギーを浴びて、明日への糧にしていくしかない。何もない人間は、自らの力で明日へと動く原動力を持つことなんて出来やしないのだから。それは自分が一番良く分かっていた。
「あんなふうにはなれないな、私」
思わず本音が突き出てきた。彼女が生きていけるのは、ナツとアキを不自由にさせないためだ。ただそれだけのために、花園学園で特待生にまで上り詰める必要があったし、時給の高いバイトをこなすことだってできた。どこまでも他者に寄り添った生きたかしか出来ない。
もしも、のことばかりを考えてみて、自分は一体何をしていたのだろうと考えてしまう。だが答えはない。それを否定してしまった場合、きっとナツとアキはこの世に生まれていないはずだからだ。あの二人が笑っている限りは、ハルは惨めに生きていく。それでいい──そう思っていると、ピアノの演奏が終わっていた。
始まったとき以上の拍手が鳴り響く。ああして喝采を浴びる人間は、きっと生活には困らない。望むことができる資金を得て、自由に世界を旅することができるのだろう。……一体、いつから他人を羨むようになってしまったのだろう。
「……帰ろ」
演奏は終わった。あのピアノを聞いて仕事ができるだけで、過剰なくらい幸運のはずだ。ハルは立ち上がって着替えの準備へと向かう。ピアノの側を横切ろうとしたとき、「待って」という声で足が止まった。ピアノの方から声が聞こえてきた。
「……えっと、私?」
「そうです。まだ終わってないから座っててください」
黒髪の少女が座ったまま見上げてくる。間違いなくハルを名指ししており、真面目な目つきで訴えてきた。ハルは慌てて返す。
「でも私もそろそろ時間なので……」
「二分もかかりません。先程の素晴らしい楽曲と比べたら劣ると思いますが、是非あなたに聞いてほしいと思います。……それでも行ってしまうなら、私の前で倒れてしまったことだけは覚えておいてくださいね」
背筋が冷えるとはこのことだ。数時間前に倒れてしまったとき、何かにぶつかった感触があった。あれはこの少女だったのか。ハルはつい頭を下げてしまいそうになるが、そのまえに少女のピアノの鍵盤を思い切りよく叩いた。腹の底から不安にさせるような音を鳴り、思わず診がすくんでしまった。
それから少女は意味ありげに微笑んだ。これ以上なにか言うと、先程の音が襲いかかってくるぞと脅しつけているように。なんだかムカついたので、ピアノから一番近い空席へ腰を下ろした。
それから少女はピアノへ向き直した。整っている横顔を眺めてから数秒後、先程とは打って変わったピアノのメロディが奏で始めた。
まるで童話の歌謡曲みたいだった。いかにもクラシックな曲を奏でていたはずが、まるで小学生のピアノの演奏会のレベルにまで下がったように思える。いや、演奏のレベルは下がっていない。曲がポップで分かりやすいものだったから、そう感じているだけだ。
ハルに聞いてほしい曲というのはこれのことか。子供みたいで幼稚だと訴えているようで耳障り──ではなかった。
時折聞こえてくる大人びた音がある。低く、濁っている絶望の音。ただ低音を鳴らしているだけではない。弾むようなメロディラインが、徐々に近づいてきている。それは彼女の手の動きからでも明らかだった。
先程のピアノは世界を彩っていたが、いまのピアノはほんの小さな世界を描き出しているのだろう。ある日森の中で熊に出会った、というような日常のワンシーンを。低音が徐々に上っていくにつれて、春の胸には期待感が走り出していた。右の楽しい曲と、左のさみしげな曲はどうなるのだろうか。そうしてサビらしきものがやってきた。
「──ぁ」
戸惑いがちに俯いている何かが、綺羅びやかなものに出会ったことで緩やかに弾みだした。最初は小さなステップだったのが、走り出し、飛ぶようなイメージを刻み込んでくる。
ハルはこの歌を知っている気がした。初めて聞いた曲のはずなのに、まるで他人ではないようだった。そう感じているのは、少女が自分のために演奏をしているからだろうか。
たった二分の楽曲は終わった。数分前の拍手は鳴りを潜め、聞いている大半の人は戸惑いを浮かべていることだろう。
「……ふう、なるほどね、いい勉強になった。感性だけで曲を作ると届かない人も出てくるわけね」
少女はそんなつぶやきとともに、ピアノの後片付けを始めた。赤い布を鍵盤の上にかぶせカバーを閉じる。その一つ一つの動きから目が離せなかった。好き勝手に与えておいて、事情を離さぬまま出ていくなんて、身勝手すぎると思った。ハルは彼女が立ち去ろうとする前に、先程の曲について訊ねた。
「あれ、なんていう曲なの?」
黒髪の少女はそれを聞いてうなり始め、こう言った。
「それは感じたままつければいいわ。私はただ、貴女から得たものを勝手に咀嚼して吐き出しただけだもの」
それでは納得がいかない。なぜ他の聴衆には届かなかったのに、ハルだけにはこんなにも震え上がるほどに響いているのか。
「さっきの曲、吐き出したって……もしかしてオリジナルの曲?」
「そう言ってるでしょ。けど、始めたてで、聞かせられるようなものじゃなかったと思うけど──」
ハルは首を真横に振った。良い悪い以前の問題だ。彼女の曲は不思議な感覚を目覚めさせた。失くした物がポケットにあったようなほっと一息つく感覚だったかもしれない。だがこの言語化出来ないものが胸に芽生えただけで、十分価値に値するはずだ。
「私、いままで聞いた音楽のなかで、さっきの曲が一番良いと思えた。それって多分、私にしか通じないものだったからかも」
「そう。じゃあ、私の曲は間違えてはいないのね。……うん、ちょっと軌道修正すれば、いけるかも」
少女は納得を浮かべた後に、今度こそ立ち去ろうとした。ちょうど先輩が駆けつけ来て、ハルと黒髪の少女が向かい合っている場面を訊ねてきた。どうやら一触即発の空気を感じ取ったらしい。ハルは彼女の目の前で倒れてしまったことの謝罪を改めて行った。少女は涼やかな顔を浮かべ、「それじゃ、お仕事頑張ってくださいね」と言ってその場から消えていった。
「……ここで働いている人って、なんならかの形で大成するって言ってましたけど、それきっと本当ですよね」
先輩の車に乗り込んで、車を走らせている間にそうつぶやく。何故か、と問いかけられ、黒髪の少女のことを思い浮かべる。
「誰かの心を温める力を持つ人がそうだから──」
バイト先で彼女のピアノを聞く度に、明日への気力が湧いてくるのだろう。自分はただの演者にすぎないが、そんな人生が悪いわけではないと教えてくれた一日だった。




