生きる意味ができたとき
金曜日のバイトの日、化粧室の前でメイクアップ中の自分の顔に浮かんだ憔悴を眺めている。
バイト先の給料が高いおかげで、なんとか生活が出来ていた。アキの修学旅行、ナツの修学旅行、高校の学費や大学の費用なども、ハル一人でどうにかできる計算だった。大学までは無理にしても、せめて高校生活ぐらいは不自由なく送ってほしい。そんな願いを胸に勉強と労働に勤しんでいたはずなのに、両親の残したものが二人を苦しめようとしている。
不安をかき消すように、バイトに勤しんだ。職場の同僚からは心配の声が上がっていた。気を張ってでもいないと気が途切れそうだった。
積立費を奪ったことに対して借金取りはこういった。”生活費ではないものは、全て奪ってもいい”と。もちろん立派な窃盗で警察に連絡すると告げた。だが彼は脅しをかけて言った。
”んなことになったら、お前の生活能力のなさを国が知っちまって、今の状況が終わっちまうかもな。お前がそれでいいなら構わんが”という決定的な事実を突きつける形で。
家族三人で暮らせる状況がなくなってしまう。そうなれば、あの二人は再び施設で孤独の生活を送るかもしれない。それだけはできない。たとえ、彼の許されざる行為を認めざるおえなくてもだ。
これからあの男が来たときは一層気を引き締める必要があるだろう。一千万の借金の一割も返済できていないからか、あちらはもうなりふり構っていられないようだ。あれから一週間、平穏な日常を送っているが、次になにか起きる時はハルは自分がどうなってしまうのかわからない。なにせ、家族の願いが一つ、奪われてしまった。
「……修学旅行費、どうしよう」
値段にすると三万から四万程度。一泊二日ではそんなものだろう。これが高校の修学旅行となると二倍以上に膨れ上がる。今のバイト先だとせいぜい八万が限界だ。積立費は念入りに隠すとして、この先も学業でお金が消えてしまう。ナツの修学旅行費、アキが中学に上がる時の諸々の費用、部活に入るときは道具や部費もかかるだろうし、中学での修学旅行費もある。ハルが就職するまで、果たしてどこまでお金を工面できるだろうか。
足りない。圧倒的にお金が足りない。時間が足りない。学校を休んでまでバイトをするか考えて、それだけはできないと否定する。なるべく良い就職先へと勤めるには無遅刻無欠席が一番のステータスだ。それに勉強の時間も確保して、特待生として示しをつけるのも大事だ。まだ一年目、二年目の学費免除は決まっていない。学期末テストの結果次第で、ハルは花園学園を出ていかなくてはならない。そうなると、たとえ公立の高校でも花園学園にいた時以上の学費を払わなければならなくなる。
「お金、足りない。なんで、足りないの……?」
もっと手早く、簡単に、時間を使ってできる仕事はないだろうか。だがそんなものはないと知っている。もしそんな方法があったら誰だって飛びついているはずだ。色々模索して見つけたのが、地道に働くしかなかった。
嵐の只中に放り込まれてしまったように先が見えない。道が見えないというのは、こんなにも恐ろしいことなのか。足元しか見えない状況で歩いている状態だ。だからこそ、周りのことに気付かないでしまう。
ハルの体が、一瞬だけ別の世界へ行こうとしていた。ダメだ、せめてお客様の前じゃなくて、厨房裏で。
お客に料理を運び終えた後、ハルは毅然とした足取りで裏へ戻っていく。視界がぼやけてくるが、奥歯を噛み締めて倒れまいと耐える。あと一歩のところで耳鳴りがしだし、感覚だけで戻っていく。ふと目の前で壁にぶつかったとき、ハルは一安心してしまった。それが途切れる合図になった。
「あ、すみません……って、ちょっと貴女、そのふらつき様大丈夫ですか? ……って、嘘、そんなところで倒れられたら──」
知らない声が聞こえてかすかに顔を上げる。覚えのある顔だった。週末にピアノの演奏をしに来ている少女だったような気がする。ただ認識をする前に、ハルの意識は現実から途絶したのだった。
自分が世間で一般で変わり者、疎まれる者と知ったのは小学校に上がってすぐのことだった。
ハルは毎日同じ服を来て登校をしていた。だいたい、三日ぐらいは同じものを着ていただろう。そのことをクラスメイトに指摘されて初めて、自分の世界が変なのかもしれないと思い始めた。
母にその事を言うと頬を叩かれた。よそはよそ、うちはうち、と言い続けた。頬が腫れたまま、また同じ服で学校へ行くと、今度は先生に呼び出された。家でなにかあったの、と訊ねてきたので、ハルは正直に話した。服は大きくなったときに買ってもらえる。同じ服でも生きていけるでしょ。周りのことを気にしてはダメ。よそはよそ、うちはうち。
このとき、母を糾弾しているみたいで心が痛かった。もちろん、大人たちは正しいことをしているし、それで助けられたことも少なくない。ただ当時のハルは、家でのやり取りが世界の全てだと思っていた。
家庭裁判所の介入で生活が少しだけ変わった。毎日、別々の服で学校に通えるようになった。ただそれだけのことが変わっただけでは、状況が生み出した負の連鎖は止まりはしなかった。
まるでいじめるのが正義だといわんばかりに、クラスメイト達はハルという異物を叩きのめした。ハルは感情が欠如していた。幼い頃から、感情というものを学ぶことがなく、言われたことを正確に行うプログラムを組み込まれていた。
父と一緒にスーパーへ行って人が誰もいない時にお酒をバッグに詰めて出ていくことや、母のために食べ物を持っていくだけが、ハルの幼少期に起きた全てだ。友達なんていう概念は小学校に上がるまで知らなかった。また世間一般では常識だといわれることが、ハルは出来ていないことが多く、それもいじめの原因になった。
そしてある日、父と母はいなくなった。小学二年の夏の日だ。ちょうどこのとき、世間はカルマウイルス騒動があって学校を休むことを義務付けられた。そんな折に、母から一万円を渡され「これで頑張っていきな」と初めてプレゼントをみたいなものをもらった。それから二人は大きなバッグを手に「じゃあね」と出ていった。
夜、帰ってこない二人を思い、一番最初の記憶ではこのときに初めて泣いた。自分の内から湧いた悲しみの抑え方を知らず、夜を越えて泣き続けた。そうして異常を感知した近所の人が尋ねてきてから、ハルは自分が捨てられたのだと知った。
それから施設に送られ、一人きりで過ごす日々。学校へ行っても、勉強以外にやることがなかった。施設の人に、友達を無理に作らなくていいから勉強はしておきなさいという言葉に従うプログラムになっていたのだろう。たとえいじめが続いても、勉強という目的があったから耐えられた。知識を頭の中に入れて、テストでそれを正確に打ち出す。なぜ皆が勉強が嫌だと言うのだろうと思ったくらいだ。こんなに簡単な作業、他にはないというのに。
小学六年生になった頃、ハルは施設の先生に連れられてある場所へ向かった。なんでも知ってほしい子どもたちがいるとのことだ。案内された場所は、ハルが住むところと似通っていた。施設の先生は遊ぶ広場の隅っこで雑草を引き抜いている二人の子供を見た。そして、とんでもないことを告げた。
「あの二人は、君の家族さ。君と同じく、あの両親に捨てられたんだよ」
見た目は小学一年から二年生で、当時のハルの姿を思い出す。父と母が大きな荷物を持って「じゃあね」と降っていく姿に、初めて悲しいと思ったあの夜。たとえまともな生活ではなくても、父と母の言うことを聞いていれば寂しくなかったあの日々。正確には、母親は違うらしいが、そんなことは多分、どうでもよかった。
君の家族、そう言われて不思議な情動が込み上がってきた。二人が何かをしているだけで、胸の奥が張り裂けそうだ。ちょっと表情を見せるだけで、死んでいた表情筋が自然に動いた。
「名前、なんていうんですか?」
施設の先生が驚きを見せ、穏やかな口調で言う。
「男の子のほうがナツ。女の子のほうがアキ。君はハルだから、本当に家族みたいな名前をしているね」
初めて脳細胞が産声を上げたみたいに、ハルのなかで確固たるものが出来上がっていた。
家族とは二度と離れない──『先導ハル』が抱いた初めての願いだった。




