紅(べに)
**ショートストーリー**
鏡台の前でたっぷりとした黒髪を梳り 、杏子は真正面に映る、己の顔を見返した。
見飽きた、それでいて全くの他人にも見える少女がこちらを覗いている。くっきりとした眉、つり目がちな瞳、こぢんまりとした鼻と、薄い唇。頬にちょこんと現れた忌々しいできものが、鏡に映る少女と自分が同じ人物なのだと主張していた。
レースの縁取りのついた襟のブラウスに、天鵞絨の細いリボンを合わせ首もとで結ぶ。
『洋装もお似合いになりますね』
先週、母とデパートに出掛け、女学校の松本先生に偶然会った時に掛けられた言葉を、杏子は無意識に何度も反芻していた。
先生にお会いすると分かっていたなら、あの深緑のワンピースでなく、もっと春らしい色合いのものを着ていったのに……。
国語を担当する松本スズ江先生は、杏子の密かな憧れの女性だった。
背筋のすうっと伸びた佇まいと、女性にしては幾分低い声。しかしその声は教室を涼やかな風のように駆け抜け、しばしば杏子の胸をも貫いた。松本先生のふっくらとした唇が杏子の目に焼き付く。点された紅は、落ち着いた深緋色で、けばけばしさなど微塵も感じず、先生の口元を引き立てるように彩っていた。
杏子は鏡台の引き出しをそっと開けると、胸が高鳴るがまま、ハンカチにくるんだ紅を取り出した。
装いに口煩い母の目を盗んで、同じ年頃の女中に頼み込み、件のデパートで買ってきてもらった品だ。娘に甘い父から貰った小遣いを、こんなものに使ったと知れたら母から大目玉を食うだろう。
装飾の施された円形の蓋を取ると、鮮やかな練り紅がつやつやと輝く。どこか淫靡な気持ちで、杏子は紅差し指でそれを唇にそっとつける。
この唇には血が走っている。かくも熱く、あの女性と同じ薔薇のように赤い血が──
鏡の中の少女がうっとりとした表情で、じっとこちらを見つめている。あたたかな指先をうすく開いた唇に押し付けると、花びらのような跡が、滲むように残った。