3月の白い騎士
これは、ホワイトデーのプレゼントを買うためにアルバイトに勤しむ、
ある若い男の話。
血の気が引いて、目の前が真っ暗になっていく。
そこまでは、覚えていた。
その若い男は、アルバイト先の休憩室で目を覚ました。
寝かされていた粗末なベンチの横には、店長である中年の男がいた。
「・・・店長?
僕、どうしてここで寝てたんでしょう。まだバイト中ですよね。」
起き上がろうとするその若い男を、店長が制する。
「まだ寝ていたほうが良いよ。
君、バイト中に倒れたんだよ。
ここのところ顔色が悪かったし、今日はもう帰った方が良い。」
しかしその若い男は、店長が止めるのも聞かず、のろのろと起き上がった。
焦点の定まらない目で、頭を下げる。
「すいませんでした。
でも残りの時間だけでも、バイトさせてください。
どうしてもお金が必要なんです。」
「しかしね、体を壊したら何にもならないよ。
君はまだ学生だろう?
目の前のバイトに、あんまり根を詰めるものじゃないよ。
それとも、生活が苦しいのかい。」
その若い男は、少し言いにくそうに応えた。
「実は・・・彼女に、ホワイトデーのプレゼントを買う金が必要なんです。」
その若い男には、学校で知り合った同級生の恋人がいた。
先月である2月、その恋人から突然、ブランド物の小物をプレゼントされた。
驚いて理由を尋ねてみると、恋人は目を輝かせて言った。
「わたし、有名ブランド、ガッチのバッグが欲しいの!
このメモに書いてあるけど、その小物の3倍ちょっとの値段だから、
ホワイトデーのお返しに丁度いいでしょ?
バイトでもして、しっかりお金を用意しておいてね。」
何のことはない。
恋人には欲しい物があって、
その3分の1の値段の物をプレゼントされただけだった。
ホワイトデーの3倍返しのプレゼントをあてにした、先行投資のようなものだ。
しかし、そんな恋人の下心いっぱいの願いでも、
その若い男は、一生懸命に応えようとした。
初めて出来た恋人に、少しでも良いところを見せたかったのだ。
アルバイトをいくつも掛け持ちして、
ブランド物のバッグを買う金を稼ごうとした。
そして無理がたたって、倒れてしまったのだった。
「なるほど、理由はよくわかったよ。」
話を聞いた店長が、腕組みをしてうんうんと頷いた。
そして、ため息交じりに言葉を漏らす。
「今の若い子は大変だねぇ。
僕の若い頃は、ホワイトデーなんてものが、そもそも無かったからなぁ。
しかし、ホワイトデーの3倍返しなんて、誰が最初に言い出したんだろうね。」
困り顔で疑問を口にする店長を他所に、
その若い男は、アルバイトの作業に戻ろうとしている。
店長はそれを慌てて止める。
「君、今日はもう無理だよ。また倒れたらどうするんだ。」
「でも、今日中にお金を集めて、
明日、彼女と一緒にバッグを買いに行く予定なんです。」
それを聞いて店長は、少し思案してから応えた。
「やれやれ、仕方がないな。
それじゃ、こうしよう。
君のタイムカードは、後で僕が押しておいてあげるから、
今日はもう帰って休みなさい。
今日までの分の給料は、ちゃんと全額払ってあげるから。」
「でも、それじゃあまりに悪いです。
途中で抜けるのに、給料を全額貰うだなんて。」
そこで店長は、ニヤッと笑って応えた。
「うん、そうだね。
だから君には、これからも暇があったら、うちにバイトに来てもらいたいんだ。
何しろうちは人手が足りなくてね。
それで後日、今日の分を返してくれたらいい。」
そこまで言われては、これ以上断るのは返って失礼かもしれない。
その若い男は、店長の厚意に感謝して、給料を受け取ることにした。
昔ながらの茶封筒を受け取って、頭を下げる。
「ありがとうございます。このご恩は、きっとお返しします。」
そして、帰ろうとするその若い男に、店長が大きな袋を持たせた。
「ほら、余った商品だけど、よかったら持って帰りな。
ホワイトデー用のキャンディだ。
業者が置いていったんだけど、うちでは取り扱う予定が無くてね。
たくさんあるから、お土産に持って帰ると良い。
どうせ君、ブランド物のバッグのことばかり考えていて、
キャンディは用意してなかったんだろう?
その業者曰く、気持ちを伝える特別な飴なんだそうだよ。」
そうしてその若い男は、給料袋と両手いっぱいの飴を持って、家に帰った。
その若い男は、弱々しい足取りでアパートに帰ると、
ふらふらと玄関に倒れ込んでしまった。
「まずい、急に疲れが・・・」
その若い男は、アパートの玄関でそのまま意識を失ってしまった。
そして、沈んでいく意識の中で見たのは、恋人の夢だった。
夢の中の恋人が、大声で喚いている。
「わたしとって、有名ブランド品が全て!
有名ブランド品を手に入れるためだったら、何だって利用する。
そうだ、良いことを思いついた。
バレンタインに、有名ブランド品をこちらからプレゼントすれば、
ホワイトデーに3倍以上になって戻ってくるはず。
そうと決まれば、お返しを先に決めておかなくっちゃ。」
夢の中の恋人は、近くで倒れている自分の姿など気にもせず、
有名ブランドのカタログを嬉しそうに眺めていた。
その若い男は、夢の中の恋人の姿を見て、段々と腹が立ってきた。
自分と恋人は、相思相愛だと思っていたのに。
だが恋人は、ブランド物のバッグのために、
自分を利用しているだけではないのか。
そんなことを考えて、その若い男は頭を横に振る。
いやいや、これはただの夢だ。
夢の中で勝手に恋人を疑って、自分はなんと浅ましいのだろう。
いやしかし、これは本当に夢?
本当は現実の自分も、薄々気がついていた事ではないのか?
そんな疑問が、次々と浮かんできて止まらない。
もういっそ、ホワイトデーもブランド物に夢中な恋人も、
全て無くなってしまえばいいのに。
そんなことを考えた時、倒れているその男の傍らで動くものがあった。
アルバイト先で渡された、気持ちを伝えるという特別な飴。
紙袋の中に入れられた、たくさんのその飴が、
ひとりでに動き出して、梱包を破って這い出てきたのだ。
飴は半分溶けたスライムのような姿で、
小さな飴たちが合わさっていって、徐々に大きくなっていく。
そして、一塊のスライムのような姿になった飴が、
大きな口を開けて、気を失って倒れているその若い男を飲み込んでしまった。
飴はその男を飲み込むと、ぐにゃぐにゃと形を変えていく。
薄く引き伸ばされたり、尖って出てきたり、
その形はまるで、西洋の騎士がまとう鎧のようになった。
そうしてその若い男は、飴で出来た鎧をまとった騎士の姿になった。
その傍らでは、別の飴の塊が白馬のような形になっていた。
意識を失ったままのその若い男は、身につけた飴の鎧に動かされて、
飴の馬にまたがると、外へと駆け出して行った。
飴の騎士となったその若い男が、飴の馬に乗って向かった先、
それは、恋人が住むマンションだった。
飴の馬は空を翔ける様に飛ぶと、
マンションのオートロック式エントランスを軽々と飛び越えていった。
そして恋人の部屋の前に降り立つ。
その若い男は、意識を失ったまま飴の鎧に動かされて、
恋人の部屋の呼び鈴を鳴らした。
少し間があってから、若い女が玄関を開けて姿を現した。
その男の顔を見て、少し意外そうに口を開く。
「どうしたの、こんなに朝早くに。
それにその格好、もしかして白馬の王子様のコスプレ?
あっ!お願いしてたガッチのバッグ、持ってきてくれたんでしょ?
そんなコスプレして持ってきてくれるなんて、気が利くじゃない。」
恋人は、その若い男が意識を失っていることにも気がついていない。
飴の騎士になったその若い男は、黙って首を横に振る。
そして、意識を失ったまま寝言のように呟いた。
「バッグは無い。今日は、俺の気持ちを伝えに来た・・・。」
恋人は怪訝そうな顔になって尋ねる。
「ガッチのバッグを持ってきてくれたんじゃないの?
だったら何?わたし、まだ眠いんだけど。」
飴の騎士は、それには応えず、静かに佇んでいる。
そんなことは気にも止めず、
恋人は何かを思いついて、両手を合わせて打ち鳴らした。
「あ!そうだ。
実は、あのバッグよりも他にもっと良いバッグが見つかったの。
値段がちょっと高くなるんだけど、良いよね?
今、その写真を見せるから・・・」
そして、玄関先にあったカタログを手にとって、ページをめくり始めた。
だから、そこで起こっている変化にも、全く気がついていなかった。
恋人が見向きもしていないすぐ目の前では、
飴の騎士が、腰に挿していた飴の剣を引き抜き、
鈍く光るその剣を、今まさに振り下ろさんとしていたのだった。
終わり。
この話は、以前に書いた、
チョコレートが伝える想い、という話のホワイトデーバージョンです。
お返しを期待したプレゼントは、果たしてプレゼントと言えるのか、
というようなことをテーマに、この話を書きました。
お読み頂きありがとうございました。