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scissors cut

作者: 竜月

残酷な描写がございます。

お気を付けくださいますよう。




  《 scissors cut 》






     0


 死ぬかとおもった。

 だけど、生きていた。


     1


 ちょきん。


 ぼくの幼い頃の話をしよう。

 昔から、ぼくはいつも(はさみ)を持ち歩いている子どもだった。

 右手に鋏を持ち、左手であたりを探り、手当たり次第に、触れたものすべてをざくざくと――幾百(いくびゃく)もの部分に解体し、それを類似したパーツごとに整頓して、部屋の床に並べて眺めていた。

 しばらく目で愛でて、撫で回して、その行為に一通り満足したら、今度は両腕にどっさりと抱え込んで、押入れの中に置いてあった大きな大きな透明の(はこ)に、適当にぎゅうぎゅうと押し込めて、奇妙なオブジェをカタチ創った。

 ベッドのスプリングや、羊の縫いぐるみの角、プラモデルの頭や、ラジオのアンテナ、床板の破片や、雑誌の切れ端が、べったりと張り付いた匣。


 それは、混沌の色合を成していた。

 どの面も、同じように混沌。

 上から見ても、下から見ても、同じように混沌と混沌。


 混沌が詰まった混沌ケース。


 あれが、鋏と並んで、ぼくの、宝物だった。




 解体することは、とても楽しかった。

 すごく面白かった。

 楽しくて、面白くて、我を忘れて――、ふと……、気づけば。

 ぼくの部屋には、なんにもものがなくなってしまっていた。

 なにひとつものの置かれていない、がらんどうな空虚になっていたのだ。


 そんな部屋を見て、ぼくはまず驚いた。いつの間にこんなことになったのか、と。

 そしてつぎに、(からだ)が震えるほどに恐怖した。――こんなところをママに見られたら怒られる! そんな子どもっぽい理由で。


 ぼくは、時間も忘れ、ずうっと部屋に籠もって、どうすればいいかと考え続けた。頭を抱えた。皮膚を切り裂いた。血からは鋼の味がした。だけど、それがより一層よくない結果を招くことになってしまうとは、幼いぼくは思ってもみなかった。

 普段は部屋の中にまで入ってこないママが、いつまで経っても外に出てこないぼくのことを心配して、中に入ってきてしまったのだ。

 思考の海に沈んでいたぼくは、ママのノックの音にも、呼びかけにも、どちらにも気づけなかった。


 ママはなんにもない部屋を見回して、開いた押入れの中の混沌ケースを見て、右手に鋏、左手に本棚の板を持ったまま立ち尽くすぼくを見て、まるで餌を欲しがる金魚みたいに、口をぱくぱくとさせて絶句した。

 ぬらりと緩やかに腕が上がり、震える指先が、す、とぼくを指差した。



 コウちゃんが、やったの――? 



 ママは、そう言ったと思う。

 ぼくは、ごめんなさい! と、泣きながら頭を下げた。

 なんども、なんども、頭を下げた。なんども、なんども、謝った。なんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんども。

 ……ママはそんなぼくの手をとって、まるで忌まわしいものから逃げるように、足早に部屋を飛び出した。


 もちろん、決して振り返ろうとはしなかった。




 あの日。

 あの時。

 あの瞬間。



 ぼくはママに掴まれる寸前に、右手の鋏を床に投げ捨てていた。


 今おもいだしてもおもう。

 あれは、ぼくの憂鬱と惨憺(さんたん)に満ちた人生において、唯一の、そして最大のファインプレーであったと。


 もしも鋏を持ったままだったなら、ぼくは、ママを、解体してしまっていただろうから。


 きっと。

 きっと。




      2


 病院には行かなくて済んだ。


 火急的に行われた、ぼく、ママ、パパの三人の家族会議では、ママは強く精神科医にかかることを主張したのだけれど、パパはそれに頑なに反対した。立場、とか、世間体、とか言っていたけれど、当時のぼくにはよく解からなかった。

 ともかく、ぼくは病院に連れて行かれることはなくて、鋏を取り上げられ、何回か殴られ蹴られ、部屋に外から鍵を掛けられ、終日幽閉(ゆうへい)される罰だけで済んだ。


 布団と毛布以外はなんにも置かれていない部屋の隅っこで、ぼくは膝を抱えて、目を閉じて、今回の一件の反省を繰り返した。



 ・無作為に、なんでもかんでも解体しては、ならない。

 ・解体したものは、気づかれないうちに、直さなければならない。



 大事なことだ。

 これさえ、僕が自分に課していれば、今回もこんな大変な事態にはならなかった。


 その日の夜。

 どうしても解体出来なくて、押入れの奥に眼に留まらないようにして放り込んであった硬貨数十枚をポッケに詰め、ずっと前に床板の一部を解体して穴が開いていたフローリングの床から床下に潜り込み、狭い隙間を通り抜けて、ぼくは、家を抜け出した。



 雨がざーざーと降り(しき)る夜だった。

 鋏と針と糸を、買ってきた。


      3


 それからと言うもの、ぼくはママの目を盗んでは部屋を抜け出して、解体するものと、それを収納するための、透明なケースを買ってきた。

 第二の混沌ケースだ。

 時にはママのお風呂タイムを狙って、床下を這い家から抜け出して、再び玄関から家に入り、ママの財布からお金を盗んだ。バレてはいけないので硬貨だけにした。お札を持つと、どうしても解体したくなる、と言う別の理由もあったのだけれど。


 ざくざくざく。

 ざくざくざく。

 ちょきんちょきん。

 ちょきんちょきん。


 それから、然程(さほど)の時間もかからずにぼくの宝――第二の混沌ケースが完成した。

 相変わらず、身震いするほどに、ぐちゃぐちゃで、めちゃめちゃで、完全無欠の箱だった。

 なんてったって、この箱には、すべてがあるのだ。


 喜悦、凋落、功績、耽美、悦楽、激昂、落胆、死別、本能、運命、利潤、画策、被害、逡巡、本懐、心身、娯楽、寂寞、睡眠、凱歌、虚無、衝動、未来、惨劇、感動、安堵、雲散、常闇、笑顔、惜別、贖罪、煉獄、月影、哀惜、夢想、虐殺、無常、友人、黄泉、自我、天国、屠殺、艶美、悪辣、烙印、公然、社会、奇妙、滔々、枯渇、感情、白夜、流星、白雪、火炎、悔恨、肉薄、射殺、霧消、音楽、喜色、悲哀、高尚、短剣、殺戮、支配、睥睨、裂帛、虚空、隔絶、団欒、冥土、愕然、些事、錠前、悪魔、感覚、女性、絶無、堕天、久遠、無事、慨嘆、魅了、軋轢、憤死、赤銅、適当、群青、装飾、解脱、融解、泡沫、彼岸、生命、謳歌、約束、画龍、時代、因果、栄華、聖上、髑髏、轟々、疾風、漆黒、太陽、明星、人間。


 なんでもいい。

 探してみれば、すべてある。

 それが、ぼくの混沌ケース。


 さて。

 新しいのを、買いに行かなきゃ。


      4


 ぼくは、少し大人になった。


 解体癖は治っていなかったが、上手に立ち振舞う術を覚えて、適宜(てきぎ)その性質を隠して、無事、社会生活を送れるようになっていた。

 高校に進学し、その折家から追い出されてしまったぼくは、学校の近くに安いアパートを借りて、ひとり暮らしを始めた。ひどく狭くて、窓がひとつだけの(すす)けた部屋だったが、誰にも(はばか)ることなくありとあらゆるものを解体できるので、ぼくには何の文句もなかった。

 家具だけは解体してしまうと困るので、街の外れのインテリアショップで見つけた、酷く不恰好なベッドを置いた。これは解体しようと思わなかった。

 その他には、押入れに大小様々な混沌ケースが、五個。まとめ買いした服。最低限の家電。

 他には、なにもなかった。


 お金はパパママがこれでもか、ってぐらいに送ってくれていたので、心配はいらなかった。ぼくが絶対に家に帰ってこないように、との意味だったのかもしれない。勿論、あの不自由な家に帰るつもりは欠片もなかったし、パパママが死んだ今となっては、定かではないのが。


 ぼくは食費などの費用をできる限り節約して、解体用のものを気の(おもむ)くままに買い漁った。


 この頃。

 成長につれてなのか、解体の食指が向くものに偏った嗜好(しこう)が顕れ始めた。


 ――好んで解体するのは、模型や傘、或いは犬と言った、完成された形を持つもの。

 ――嫌うのはその逆、つまり、未完成で、未熟な形しか持たないもの。


 後者の代表的な事物は――人間だ。

 あれは、未完成過ぎる。

 未熟に過ぎる。

 不気味に、奇妙に、まるで別の生物のように動く四肢。気持ちの悪い色をした眼球。不自然でしかない二足歩行。こんなの、怪物じゃないか、と、思っていた。

 そして、自分も同じ怪物の姿をしていることに気付いて、堪え切れない吐き気を催した。

 洗面所に走って、胃の中のものを、ぜんぶ、吐いた。

 胃がひっくり返って、咽喉(のど)が焼け付いた。


 顔を上げて、目の前には鏡があった。

 握り拳で、叩き割った。


 鮮血が、舞った。


      5


 季節は春。

 芽吹きの春。


 また少し大人になったぼくは、ホームヘルパーの職業に就いていた。別になりたかったわけではない。高校を卒業する折、進学校だったのでどこかの大学に進学するように、と、先生に強く言われ、大学案内をばらばらに解体して、風に舞う紙片の中から、適当に目についたところに進学したのだ。

 それが、介護の専門学校だった。


 そして三年後、今日がぼくの初仕事の日だった。

「ここか」

 地図片手にひとり歩いてきたぼくは、街の郊外で足を止めて、前を見た。その家は、広い庭と高い塀を持つ、西洋風の大きなお屋敷だった。周囲に他の民家はなくて、このお屋敷はひっそりと、深い森に包まれるようにして建っていた。

 まるで人目を避けているかのようで、ぼくは内心で少し首を傾げた。

 門柱の表札を確認した。矢張り、ここで間違いないようだ。

 

 初仕事とは言ったものの、実は前もって予定が入っていたわけではない。本当の初仕事は一週間後になるはずだった。それが今日、突然仕事の依頼が入って、そして唯一空いていた研修終わりの僕が、いきなり派遣されることになったのだ。

 心の準備の(いとま)もない、唐突な初仕事。

 不安はないと言えば嘘になるが、あると言っても、矢張り嘘になる気がした。

 ぼくにそんな繊細な心があるのか。ぼくにも解からないから。


 ぼくはポケットから鋏を取り出すと、ここまで案内してくれた地図のメモを、ざくざくざくと、切って、捨てた。

 春風が、遠く彼方へ、紙片を運び去る。

 朗らかな日差しを浴びたそれは、桜の花弁のようだった。


 門の外のチャイムを押した。

 しばらく待った後、どちら様ですかとの問いかけがあったので、ホームヘルパーの者ですと伝えると、お待ちください、とだけ告げられてインターホンの音声が切れた。

 それからまたしばらく待った。

 お屋敷の玄関が開いて、ひとりの女性がこちらにやってきた。

 門を開けた女性は、どうもこの度はありがとうございます、と頭を下げた。

 女性は、お洒落な細身のドレスに、小さな宝石のついた慎ましやかなネックレスを着けていた。かなり若く見えるが、彼女には子どもがいるはずなので、きっと化粧の力なのだろう。


 彼女に先導されて、お屋敷の中に入っていった。お屋敷は、外からの見た目通り非常に豪奢(ごうしゃ)な内装だった。天井は高く、壁には金の装飾が満ち、電燈はシャンデリア。床には、赤を基調としたふわふわのカーペットが敷かれていた。靴は脱がなくていいようだった。ぼくはそんな家は初めてだったので、なんだか慣れなくて戸惑ってしまった。

 長い廊下を歩き、幾度も幾度も角を曲がり、吹き抜けた階段を三階まで上って、半歩前を歩いていた彼女はようやく立ち止まった。


 そこには、ひとつのドアがあった。


 そのドアは、豪華にも関わらず、不思議と、幼少時代のぼくの排除されていた部屋の扉を、ありありと思い出させた。

 どうしてだろうか。

 この部屋が、屋敷の中で、唯一隔離されている――そんな風に見えたからかもしれない。


 彼女が、ドアを開けた。


 部屋は広く、そして矢張り殺風景だった。


 爽やかな太陽光が白いレースのカーテン越しに燦燦(さんさん)と差し込んで、部屋を煌煌と照らしていた。壁紙が全て真っ白だ。部屋のすべてが白すぎて、光が当たると輪郭が掴めない。純白以外は存在しない、存在し得ない――そんなミルクの底みたいな部屋だった。

 その部屋にあるのは、天蓋付きの、矢張り白いベッドだけだった。

 彼女は、ゆっくりとそのベッドへ歩み寄っていった。ぼくも後に続いた。

 天蓋をくぐって、ヘルパーさんが来てくれましたよ、とベッドに声を掛けた。ぼくは顔が見える位置に立ち、軽く会釈をして、白いシーツと白い布団に、埋もれるようにして眠る女の子を見た。


「ごきげんよう、ヘルパーさん」


 そう言って微笑む彼女は、ぼくをここまで案内してきた女性の、生き写しのような顔だった。彼女をあと十年若くしたような、そんな顔。とても綺麗だ。娘さんで間違いないだろう。


「どうも」

 

 ぼくも、挨拶を返した。


「それでは依頼通り、私が出張に行ってる間の二週間、娘をよろしくお願いします」彼女の母親が、言う。「それで、ですね……。あの」


 なぜか、彼女はとても歯切れ悪く、その先の言葉を、なかなか発しようとしなかった。言いにくいことなのだろうか? ぼくは気の長い方なので、じっくりと、彼女と娘さんを見つめながら、その先の言葉を待った。


「お母様」


 だけど、先に言葉を発したのは母親ではなくて、ベッドに眠る彼女の方だった。


「わたしのことならば、大丈夫です。いまさら、どんな反応をされても気になりませんし、どちらにせよ見せなければ始まらないのですから。さあ、はやくシーツを捲くってください」

「でも……」

「お母様」

「……わかったわ」


 母親は彼女の枕元に跪くと、躊躇いながら、まるで(おそ)(おのの)いているかのような覚束(おぼつか)ない手つきで、かかっていた白いシーツを、捲り上げた――。


 


 ――そのとき、ぼくの受けた衝撃を。

 一体、どんな言葉を遣って表現すればよいだろう。

 どんな言葉で飾って、伝達すればいいだろう。




 ぼくの脳内語彙のすべてを尽くして、脳そのものをすべて絞って、それでも足りていない、届いていないことを前提で、言わせてもらうとするならば、まるで雷に打たれたような、背筋が凍ったような――いいや、否、否、否! 陳腐だ、卑小だ、脆弱だ。こんな使い古された言葉ではとてもだめだ。……もっともっと強烈で、愛惜と妄想に満ちていて、朽ちて殺伐とした言葉。

 そう――まるで、殺されてしまったような――心臓に、(とろ)けたナイフを、すう、と差し込まれたような――ああ、これならいいだろう。今の鮮烈な感覚に、僅かだけ近い。




 ――シーツの下の、彼女の躯には、両腕、そして両足がなかった。




 薄緑色に、ペンギンのプリントが無数施されたパジャマ、それは長袖に長ズボンの造りなのだろうが、足は本来の太腿の辺りでぐるりと丸められ、腕は二の腕の辺りで同じくぐるりと丸められていた。

 通常より遥かに小さい躯が、柔らかいベッドに沈み込んでいた。


「御覧の通り……娘は幼い頃に事故で手足を失いまして、躯が酷く不自由なんです。普段は前もってお願いしておくんですが、急に仕事が入りまして……」


 母親の女性がなにか言っていたが、そんなものぼくの耳には全く入っていなかった。所詮、彼女は美しいとは言え不気味な形をした人間でしかないのだ。見るたびに、いつだって吐き気を(こら)えなくっちゃあならない。

 

 それに対して、彼女は――只只、美しかった。

 感動するほど、美しかった。

 感涙するほど、美しかった。 


 ああ――成程。成程、成程。

 やっと。二十年以上生きてきて、やっと。ぼくは、すべてを理解した。


 不気味に過ぎる人間は。

 禍禍(まがまが)し過ぎる人間は。


 こうすることで、初めて、神域に踏み入れることができるのか、と。


 神神(こうごう)しく、まるで後光を放つほどに、人間離れができるのか、と。

 いや、もしかしたら――これこそが人間なのか?

 神が創った、人類の、真実の――姿なのか?


「そういうわけでして、お願いできますでしょうか?」


 母親が、呆然としているぼくに、心配そうに尋ねた。


「ええ。勿論です」


 はた、と気がついたぼくは、心に(たぎ)る興奮を覆い隠して、冷静に頷いた。この場面では、そんな表情が必要だ。

 母親はぼくの笑顔に安心したのか、はたまた単純に仕事が待っていたからなのか、彼女に布団を掛け直し、「お願いしますね」と早口で言い残して、すぐに部屋を出て行ってしまった。ばたばたと遠ざかっていく足音が聞こえた。


 そして、ぼくと、彼女の、ふたりだけが残された。


「驚きましたか?」彼女は、顔の筋肉だけを動かして、笑った。「こんな姿の人間なんて、初めて見たでしょう。どうです、怖いですか? それとも、恐ろしいですか?」

「いいえ――いいえ。怖くも恐ろしくもありませんよ、お嬢さん」


 ぼくも笑った。

 怖いだなんて、そんなはずがあるものか。


「それではお嬢さん、少々お待ちください」


 ぼくは一度部屋を出ると、階段を降りたり、角を曲がったり、ドアを開けたりして、この家のキッチンを探した。

 途中、廊下の窓から一台の車が発進していくのが見えた。きっと、彼女の母親が出かけたのだろう。どうやら本当に忙しかったようだ。

 八つ目に開けたドアで、ようやくキッチンを発見した。やはり部屋の位置くらいは聞いておくべきだったかもしれないと、軽く後悔。棚と言う棚を開け(これも数が多かった)、大変な苦労をして目当てのものを見つけると、駆け足で彼女の部屋へと引き返した。


 彼女は当然動けないので、そのままの体勢でベッドに横たわっていた。ぼくが部屋に戻ると、彼女は首だけを回してこちらを見た。


「どうしたのですか?」

「ああ、すみません。すこし探し物があったんです。でも、見つかりましたから」


 彼女の枕元まで歩み寄った。


「そうですか。でもこの家は部屋数が多くて大変だったでしょう。お母様ったら、なんの説明もなしに、行ってしまうんですもの。慌てん坊で困ったものですわ。わたしもなにぶんこんな躯ですし、家の中のことは詳しくないものですから」

「ええ。確かに大変でした。もう少しで家の中で迷子になるところでしたよ」

「ふふっ、そうですか。何事もなくてよかったです。ところで、なにを探していらっしゃったんですか?」

「ああ、これです」


 ぼくは、背中に隠して持っていたものを、彼女に見えるように掲げて見せた。


「それは――?」彼女は、不思議そうな顔をしていた。「包丁・・・・・・ですか?」

「そうですよ、包丁です」


 ぼくが持っていたのは、キッチンに有った中で、最も大きな柳葉包丁だった。銀色の刃が、レース越しの白い光をその腹に受けて、きらりと目映(まば)ゆく輝いた。


「そんなもの、どうして持ってきたのですか?」

「手持ちの刃物じゃ小さ過ぎて、到底力不足のようでしたのでね」

「なにに、使うんです?」

「すぐに、解かりますよ」


 包丁を、逆手に持ち直した。



 その日。

 初めて人を解体した。



      6



 さて。

 処理に困った。


 愛しい愛しい、愛しさしか感じ得ない彼女だからこそ、できるだけ痛がらないように、まず頚動脈を切って息の根を止め、それから丸一日かけて、躯を十幾つに解体した。

 だがそのせいで、白い部屋は一面血液の赤と黒に染まってしまった。

 まるで、夕闇のような模様だ。

 どうするべきか……――いや待て。別にどうもしなくていいのか。部屋のことなど、今のぼくには全く関係がない。


 ぼくは、ポケットから愛用の針と糸を取り出して、彼女の躯をせっせと縫い始めた。

 彼女には純白が似合うとおもったので、とびきり白い絹糸で縫い合わせた。


 二日後、彼女の躯が再生した。

 不器用な継ぎ接ぎで、肉の組織が崩れたり、硬直した筋肉に針が通らなかったり、と問題続きだったが、野良犬で何度か経験していたお陰で、思っていたよりも早く復元することができた。何事も経験である。

 いつも通り、目線で愛でて、やわやわと撫で回して、一通り満足したら、左手の薬指だけを再び解体して、小さな透明ケースにぎゅうぎゅうと詰めた。

 ミニ混沌ケースだ。

 赤くて黒くて、ぐちゃぐちゃ。

 そのあまりの可憐さに惚れ惚れした。

 ストラップにしたら、駄目だろうか。


 次の日、もう一度彼女を解体した。

 そしてまた次の日、もう一度再生した。

 解体した。再生した。解体した。再生した。解体。再生。解体。再生。解体。再生。解体、再生、解体、再生、解体、再生、解体、再生、解体、再生、解体、再生、解体、再生、解体再生解体再生解体再生解体――。


―――――――

―――――

―――

 

 何度目だったか、何日目だったか。

「あ……あれ? あれ?」

 少なくとも、彼女の母親がまだ帰ってきていないと言うことは、二週間以内の出来事なのだろう。

 僕はまた今まで通り縫い合わせて再生しようとしたのだが、彼女の躯は数えきれない解体で――眼球が、唇が、小指が、乳房が、肋骨が、太腿が、心臓が、すべてが――ゼリーのように、液状にまでなって仕舞い、包丁を入れても、針を刺しても、ずぶりずぶりと液体に埋もれるだけになり……彼女の解体も、再生も、永久に不可能になってしまった。

 永久に、不可能に。


「あ・・・・・・ぁ、ぁあ――――ああああぁぁぁぁっっ!」


 ぼくは、包丁を取り落とし、その場に崩れ落ちて、泣き叫んだ。

 なんてことだ!

 ぼくは、唯一無二の宝物を、壊してしまった。他ならぬ、自分の手で。

 泣いた。

 泣いて泣いて、泣き叫んだ。

 全身全霊、精一杯の想いを込めて。

 天界に届いて、彼女の魂と体が、ひょいと戻ってくるように、と。


「ぅ、ぁあ・・・・・・・・・・・・」


 陽が沈み、陽が昇り、そしてまた沈み。

 叫びが届かないことを知ったとき――ぼくは、世界に絶望した。


「――――――」


 初めて出逢った、美しい人だったのに。


 この世界に、ひとりだけ、取り残されたようだった。

 涙は涸れて、喉は潰れて、心は凍りついた。

 ぼくは血と肉のプールになっているベッドにうつ伏せで寝転んで、ずぷりずぷりと、赤色の中に沈んでいった。鼻に触れた。口に触れた。彼女の匂いがした。彼女の味がした。

 ……このまま、死にたいと思った。いや、溶け合いたいと思った。

 交ぐわうように掻き混ぜて、愛するように掬い取った。


 ―――――――――ッ。


「・・・・・・・・・・・・?」


 そのとき――かちゃりと、柔らかな血肉を掬った右手に、なにか硬質なものが、触れた。

 右手に溜まった肉を、左手の指でそっとどけて、手の中の物体を見る。


 それは――鋏。


 ぼくが、幼い頃から大事にしてきた、一振りの親友。


 ちょきん。

 ちょきん。

 ちょきん――。


 それを、見たとき。



「――は、は。・・・・・・ははははははっ!」


 

 ぼくは、大声で哄笑(こうしょう)した。


「ははは、ふは、はははっ!」


 血肉の海を、ばちゃばちゃと音を立てて、転げ回った。


 なんだ、なんなんだ、ぼくは! こんな簡単なことに気がつかなかっただなんて。莫迦過ぎるぞ! ぼくは!


 ――ありがとう。

 君はいつだって、ぼくに新しい発想と、新しい生き方を与えてくれる。

 いつまでも、君はぼくの親友だ。


 ぼくは、鋏とミニ混沌ケースだけを握りしめて、血と肉を全身から滴らせながら、屋敷を走り回り、見つけたバスルームに飛び込んだ。

 流れる水が冷たかろうと熱かろうと、最早、皮膚感覚などなかった。こびり付いた血肉を洗い流して、赤く染まった服を軽く(すす)いで、濡れたままの服にもう一度袖を通した。まだ赤黒く染まっていたが、衣服など些細な問題でしかない。

 屋敷を飛び出して、ぼくは、自宅へとひた走った。


 空は薄曇で、小雨がしとしとと降っていた。

 息が切れて、心臓が軋んだ。

 脳から躯に、止まるように指令が飛んだ。


 −――そんなもの、知ったことか!


「はあっ、は、ぁ、はあ――」


 後ろの方から、衣を裂くような悲鳴が、聞こえた――そんな気がしたが、きっと、気のせいだ。どうでもいい。


 今は、一刻でもはやく、大振りな刃物を、手に入れなければ。


 はやく、

 はやく。

 はやく!


 走れ!



      0



 ひとりの、夢と希望に満ち溢れた、若きホームヘルパーがいた。


 彼女は昨年、専門学校を卒業したばかり。

 緊張と、不安と、期待と、希望を、混沌に胸に綯い交ぜにして、初仕事の家に向かっていた。



  ■□■



 手に持っていた地図から、あたしは眼を上げる。


「ここ、よね」


 桜の木が生える、古いアパートだった。春の爽やかな太陽の光も、高い塀と隣の民家に遮られて一階には届かない。二階には辛うじて陽は当たっているけれど、(ひび)割れだらけで今にも崩れ落ちそうだった。

 確か二階の一番奥だったはず。かんかんかんと鉄の階段を踏み鳴らして二階に上り、一度大きく深呼吸をしてから、通路の一番奥の扉のチャイムを鳴らした。


ぴんぽーん。ぴんぽーん。


「すいません、ホームヘルパーのものですが」


 少し小さい声だったけど、


「ああ。どうぞ」


 どうやらちゃんと聞こえたみたい。


 中から聞こえたのは、思っていたより若い男の人の声だった。

 あたしは、胸を高鳴らせて、がんばらなきゃ! がんばらなきゃ! と言い聞かせながら、扉を開ける。鍵を掛けないのはちょっと不用心じゃないかな、と思ったけれど、もしかしたらあたしが来るから開けておいてくれたのかもしれないので、言うのは止めた。


 部屋はアパートの外見通り確かに狭い1ルームだったけれど、家具が(ほとん)ど置かれていないせいか、広々とした――いや、と言うよりも閑散とした印象を受けた。

 その部屋の春の光が燦々(さんさん)と差し込む窓際、まるで蛸がのたうっているような酷く不恰好なベッドに、ひとりの男性が蛸足に抱かれるようにして横たわっていた。


「ようこそ、ヘルパーさん」


 年はまだ二十代そこそこだろうか。肌は真っ白で端整な顔立ちで、美しいお人形さんのように見える。白い布団に埋もれたまま顔だけ動かして、お花のように華やかに笑った。


「この度は、ありがとうございます」

「い、いえ」


 あたしは丁寧な挨拶にどもりながら、彼の枕元へと歩み寄った。踏み出した足の下で、畳がぎしりと古い音を立てる。意図せず見下ろすような感じになってしまったので、慌ててそこへ跪いた。


「ホームヘルパーの槍村です」

「どうも。よろしく槍村さん」


 やはり彼は顔の筋肉だけを動かして笑った。この様子だとやっぱり躯のどこかが悪いみたい、とそこまで考えて、ヘルパーを頼んでいるんだから当たり前じゃないかと、自分のお馬鹿な思考にちょっと恥ずかしくなった。


「それで……あの……」

「どこが悪いのか、ですよね?」


 彼はあたしの言葉を先読みして言った。

 あたしはただ頷くだけで良くって、それも何だか間抜けな気がして、益々恐縮してしまう。


「それでは、ぼくの布団を、捲くってもらえますか?」

「布団・・・・・・ですか」

「ええ。構いませんから」


 あたしはよく意味も分からないまま、その笑顔に説得されるように白い布団を捲くり上げた。

 

 ――息を、呑んだ。


「驚いたでしょう? それとも、怖かったですか?」


 彼が、やはり笑いながら問うた。

 しかし、あたしは返事を返せなかった。

 


 彼の躯には――両腕と両足がなかったから。



「一年ほど前のことです。ちょっとした事故で、手足を失いましてね。しばらくは病院暮らしだったのでよかったのですが、退院してからは大変困ってしまいまして。そこで、ヘルパーさんをお願いしたと言うわけです」

「――――――」

「ヘルパーさん?」

「えっ、あ、すみません!」


 じろじろと見つめてしまった失礼な自分を恥じて顔を伏せる。


「大丈夫ですよ。気にしてませんから」


 俯くあたしを見て、彼はまたあたしの思考を読んだように笑った。その人の感情を読み取る鋭さに驚いてしまう。


「それで、お願いできますか?」

「は、はい! 任せてください」


 胸を叩いて頷いた。

 そんなあたしを満足げに眺めて、彼は今までで、一番の笑顔を浮かべる。


「それでは、しばらくの間、宜しくお願いしますね」

「は、はい、こちらこそ、宜しくお願いしますっ!」


 あたしは、何度も何度も、機械のようにお辞儀をした。

 何だか色々な感情が許容量をすっかり超えていて、上手く笑えたかどうかも分からなかったけれど。


 そして、一瞬無言の間が出来る。

 見つめ合うのも気まずくて、ついと目線を逸らすと、


「……ん?」


 目線の先。押入れの戸が開いていて、そこには暗幕が掛けられた『なにか』が置いてあった。シルエットから見るに、積み上げられた箱、だろうか? 規則的に角ばっていて、不思議な雰囲気を(かも)し出す『なにか』だ。

 彼はそんなあたしに気付いていたはずなのに、笑顔のまま、今度は何も言ってはくれなかった。


 このままぼうっとしていてもしょうがない。


「それじゃあ、ちょうど昼なのでまずはお食事をお作りしますね」

「ええ、お願いします。食材は好きに使ってもらって構いません。これからはお買いものもお願いすることになりますが、よろしくお願いします」

「任せてください!」


 あたしは立ち上がって、キッチンへと向かう。


 その途中、もう一度――ちらりと、彼の躯を見た。

 



 ――どうしてだろう?

 怖いはずなのに。

 驚いたはずなのに。

 あたしは、

 あたしは。




 ――なんだか心躍(こころおど)っていた。



 手足のない男が。

 そんな彼女を見て、くす、と嗤う。




 部屋の隅で。


 大振りな鉈と、小さな鋏が、春光に鈍く―――煌いた。




 ちょきん。

 じゃきん。






《Scissors human’s story》 - Endless Repeat -





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