『狂い狂い』
『狂い狂い』
・・・狂いに対する狂い
㈠
人間は、複雑かつ単純なものだ。それがどうしたというのだ、しかし、自分は人間である。ニイチェは発狂したが、自分は発狂したくない。芥川は発狂を恐れたが、自分は発狂に恐れたくない。要は、人間として幸せに生きていたいのである。しかし、自分は、自分が人間だという概念に、狂っていることで、小説を書いているので、狂いに狂っているのかもしれない。
ただ、自分は狂ってはいない。矛盾するようだが、本当に狂っていたら、病院に入っているはずで、日常生活など送れないだろうと思う。幸か不幸か、人間には頭脳があり、それによって物事を多角的に判断している。そして、日常を、当たり前に送っているのである。日常を普通に送れる人間が狂っているはずがない。
㈡
つまり、自分は狂っていないが、狂いに対して狂っているのである。正確には、狂うとはどういうことか、を考えて、狂いを識別することに、狂っている、換言すれば、興味を持って、また、恐れながら、狂いたくないあまりに、狂いに狂っているのである。
狂いを識別することは、狂いではない。要は、人間が生きていれば、狂うとはどういうことか、くらいの関心は持つ訳で、そのレベルで、狂っているのだ。日常に狂いは持ち込まないし、狂う様なこともしない。ただ、ぼんやりと、狂うって何だろう、くらいに、狂っているのだ。
㈢
だから、この狂いに対する狂いとは、できれば、狂っている人を病理学的に救って、正常に戻せればいいな、と思っているということなのである。狂いの原因を突き詰めれば、何かしらの結果は生じるだろうと思うのだ。これは、狂い狂いである。
また、エッセイで狂いについて述べてきた自分が、今度は何に狂いだしたのかと思われるかもしれないが、今回は特別編の様なもので、狂いに対して興味を持っているという狂い、という結果論を出すためだけの文章になった。しかし、述べた様に、狂った人を救えればな、とは、常々思っていることなのである。