リリスの涙~スクーターの彼女~
僕は話を聞き終わったあと表現できない無力感に襲われて力無くソファに座り込んだ。
ただ、一つだけ疑問が残った。
「一つ聞きたいんですが……」
僕は立ったまま彼女を見つめるお姉さんに質問しようとしたのだけど……お姉さんは哀しげな表情で首を横に振った。
「1枚も…ないんです」
その一言だけで僕は気づいた。
少しおかしいと思っていたこと……。
観賞用に置かれたソファの位置と彼女の位置…話を聞くまでそれに違和感を感じていたけれど。
あぁ、そうか……。
ようやく分かった。
「色んな美術館にも連絡を取ってみたのですけれど彼は自分の姿を描くことも描かれることも頑なに拒んだらしいですね」
写真も嫌がったらしく彼の姿を知る人は本当に少ないらしい。
「ただ、彼女のために…と館長は言ってましたね」
そうかもしれないと僕も思った。
彼女は永遠に彼と出逢った姿のまま、でも彼は老いて無くなった。彼女と同じ時を過ごした時間を大切にしたかったんだ。
「彼女のお話はこれで終わりです…私はこの話を彼女が好きになってくれた方にだけ話したいと思っていました。けれど、この美術館に訪れる来場者は正直に言ってさほど多くはありません」
それは僕も感じたことだけど。
でも、彼女にまつわる話を聞いたらーー。
「僕はそれでいいと思います…あぁ、商売の面で見たらあまり良くはないですよね」
苦笑いを浮かべる僕にお姉さん話を続ける。
「そうですよね、でも貴方は気付いてくれた。この場所は通路からは影になって見えないんです。けれど、気付いていただけた…だから私は彼女の話をしたいと思いました。時間はまだたっぷりとありますので、彼女の話し相手になって頂けると嬉しく思います。では、ごゆっくり観賞を致してくださいね」
綺麗なお辞儀をしてお姉さんは受付ロビーへと戻っていくと僕は改めて彼女を見つめたんだ。
「貴方を愛した人はどんな人だったんですか?」
僕は彼女に語りかける。
彼女の思いを知るためにーー。
そして、僕は彼女に出逢うためにこの美術館に通うことにしたんだ。
*
月日が過ぎて初夏の日差しが強くなってくると茹だるような暑さに僕はこの長い坂道を恨めしく感じてしまう。
こんな場所に作らなくてもと思いはするけれど、あの話を聞いた僕は仕方ないと諦めざるおえない。
出来るだけ木陰を歩きはするものの暑いことには変わりなく肩に食い込む鞄の重みがさらに僕を辟易させる。
そんな中で一台の古いスクーターが僕の前を通り過ぎて美術館に軽やかに向かっていく。
「…う~ん、スクーター買おうかな…いや、その前に免許…の前にバイトしなくちゃなぁ」
美大生ってのは意外とお金が掛かる。
画材などの消耗品はどうしても必要だし細々としたものまで揃えようとしたら絵を描いてる時間よりバイトしている時間の方が長いって先輩もいる。
僕も夏休みになればバイトをする予定だ。
美大の先輩の伝手で近くの喫茶店でバイトをする事になっているんだけど僕に接客なんて出来るのか不安で一杯だった。
そんなことを考えながら坂道を上がっていくと、白亜の美術館が見えてくる。
あともう少しで……彼女に会える。
そう思うと元気になってくる。
けっこう僕も単純だなと思い苦笑する。
坂道を登り終えた僕は玄関の近くの駐輪場にあるスクーターに気が付いた。
さっき、坂道で僕を追い抜いていったやつだ。
確か、あれってーー。
僕の脳裏に小さい頃に見た白黒映画を思い出す。母さんが好きでよく見ていた映画…なんだっけ。
身分を隠したお姫様と記者のラブストーリー、確かその二人が乗ってたのがこれだったような……。
あぁ、やっぱり、そうだ。
この丸っこいフォルム、懐かしいなぁ。
このモデルは好きな映画で使われていたやつだ。
それだけで僕は嬉しくて思わず立ち止まってマジマジと眺めているとーー。
「…私のスクーターなんだけど?」
不機嫌そうな女性の声に僕は心臓が飛び出るんじゃないかと思うぐらいびっくりして振り返った。
不審者で見るように少し離れた位置から僕を見ている女性、僕と同い年ぐらいに見える彼女がこのスクーターの持ち主のようだった。
少し赤みがかった長い髪を無造作に後ろで縛り、一重の少し切れ長の瞳が僕を見つめている。
真っ赤なTシャツに所々破けたジーンズの服装が彼女に活発な印象を与えている姿に僕は彼女にぴったしの装いだと思った。
けれど、そんな僕の今は……。
「あっ、ごめんなさい。あ、あの珍しいなぁと思って、いや、あの……その」
意味の分からない言い訳をしている。
うん、完全に不審者だ……。
そんな僕を不審げに見ていた彼女は僕のある言葉にキョトンとした表情で自分のスクーターに視線を向けた。
「珍しい?この子が?」
そう聞き返してスクーターに近づくとポンポンとシートを叩きながら何が珍しいのか分からず不思議そうな表情で小首を傾げる。
先程までとは違って、だいぶ警戒心も薄れたようでクルリと僕の方に振り返るとーー。
「この子の何が珍しいの?」
ズイッと僕に顔を近づけてきたんだ。
僕は思わず両手を顔の前に出す。
仕方ないじゃないか。
殴られると思ったんだから……。
けど、彼女はそんなことをするはずもなく、ただ自分のスクーターの何が珍しいのか知りたいらしく興味津々の表情を浮かべていた。
「…えっとですねぇ…取りあえず近すぎません?もうちょっと離れてもらえると……」
グイグイと顔を近づけてくる彼女の顔を両手で制止しながら僕は苦笑いを浮かべて視線を逸らす。
僕はこんなに積極的な女の子とあまり面識がないから、ここまで至近距離に近づかれると照れくさくて仕方ない。
「だって、気になるじゃない。この子に乗ってると君みたいな人がけっこう寄ってくるのよ。ずーっと気になってたんだけど聞けなくて……君はいい人っぽいからさ」
彼女は一気に捲し立てるように喋るとニッと笑った。その笑顔に僕も釣られて笑ってしまう。
多分、引き攣ってたと思うけどね…。
「えっと、じゃあ、説明するんでちょっと離れてください。あんまり近いと緊張しちゃうんで…」
僕が手で制止しながらどぎまぎしていると
「うん、分かったわ」
意外と素直に離れてくれて正直ホッとした。
その時、僕は気付いた。
何かに似ているって思ってたんだけど…。
あぁ、そうだ……実家の犬に似てるんだ。
知らない人には警戒心を露わにするくせに興味があると直ぐに近寄ってくる…。
僕はマジマジと離れた彼女を見て
「……ぷっ」
思わず笑ってしまった。
いきなり笑い出した僕を、怪訝そうに見る目もそっくりだったからおかしくて仕方ない。
駄目だ……我慢できない
「あはははっ」
堪えきれずに笑う僕に怪訝そうな表情がさらに険しくなり、その距離も随分と開けられてしまう。
「な、なによ?突然、笑い出して」
不審げな表情を浮かべ始めた彼女に僕は笑いを堪えながら謝罪する。
「あは、えっと、あのごめんなさい、実家の犬と君の行動があまりに似てて思わず…ぷっ」
やっぱり我慢できない。
「……ねぇ」
彼女が不機嫌そうにこっちを見る。
「…はいっ、何でしょう?」
怒らせただろうかと焦ってしまい笑うのを止めて彼女の発言に僕は身体を強張らせる。
けれど……。
「その子、可愛いの?」
予想外の彼女の言葉に僕は
「…えっ?」
間の抜けた返事をしてしまう。
「…だから、可愛いの?って聞いてるの!」
何故か少し怒ったような表情に僕は意味が分からず、呆けながら実家の犬を思い出す。
まぁ、可愛いかな…雄だけど。
「えっと、飼い主ですから可愛いですね」
敬語だ。
僕は今の状況が全く理解できずに思わず同い年の子に完全に敬語を使ってる。
「…名前は?あと……犬種は?」
そっぽを向きながら矢継ぎ早に聞いてくる彼女の質問に僕は素直に答える。
「えっと、名前は『くぅ』で犬種はアメリカン・コッカー・スパニッシュですね」
僕は犬種を答えて次に来る言葉が大体、予想が付いた。近所で散歩しているときに犬種を教えると必ず返ってくる言葉…。
「アメリカンなのにスパニッシュ?変なの…」
やっぱり……ね。
ただ、そんなたわいもない会話のお蔭か彼女との距離はだいぶ近くなった気がする。
そして、僕は彼女と近くの木陰に座ってスクーターを眺めながら珍しい理由を説明したんだ。
昔の映画でデートに使われていたことや映画のあらすじ、勿論あのアドリブで生まれた名シーンもしっかりとね。
僕ぐらいの年代の子は知らない人も多いみたいで彼女も「ふぅ~ん」とか「へぇ~」とか楽しそうに聞いてくれた。
主演女優の名前は彼女も知っていた。
まぁ、かなり有名な女優さんだからね。
それはいいとして……。
映画の話なんてしたの何時ぶりだろ?
僕が好きな映画って母さんの影響が大きいから時代が古くて同年代の子からは良く首を傾げられた。
今時の映画みたいなCGや迫力ある映像とか無いけど、役者さんの表情一つで映像の雰囲気がガラリと変わったりするのが面白くてよく見ていたんだ。
絵を描き始めたのも映画の影響が大きいと思う。
人物画とか視線を少し変えるだけで雰囲気が変わるのが役者さんの演技を模倣しているみたいで楽しかったんだ。
「ふぅ~ん、この子の人生に歴史ありね」
しげしげと自分のスクーターを眺めながら彼女は表情をコロコロと変える。
何だか昔の映画の役者さんみたいだ。
「あ、あと日本のドラマにも出てたなぁ…黒のスーツ着て丸いサングラスをかけた探偵物の主人公…」
僕は好きな映画やドラマの話を楽しそうに聞いてくれる彼女に嬉しくてついつい饒舌になって話を続けたんだ。
だから……僕は気付かなかった。
彼女がスクーターを見つめながら一瞬だけ儚げな表情を浮かべたことに……そして、その横顔がある人に似ていることに。
どれくらいの時間、話していただろうか。
美術館に辿り着いたときはまだ陽射しが低い位置にあったのに気が付くと真上に近づき始めている。
木陰にいたけれど陽射しがジリジリと降り注ぎ、僕はなにげに腕時計に視線を向けて驚いた。
「えっ?もうこんな時間?」
二時間近く話していたことになる。
そんな僕の姿を見て彼女はクスリと笑った。
「あぁー、面白かった。私の知らない映画の話、スゴく面白かった。う~ん、もうちょっと話していたいんだけど…」
彼女はスッと立ち上がりズボンの汚れを叩きながら残念そうな表情を浮かべて僕を見下ろす。
「あっ、もしかして用事があった?」
僕の言葉に彼女は少し困ったような表情で苦笑する姿を見て何故だか分からないけど、僕は……嫌な予感がしたんだ。
「う~ん、そうね…用事…かな。あっ、そうだ」
微笑を浮かべながら彼女はハーフメットを被るとスクーターの足下に置いていた鞄から何もデザインの入っていないCDを取り出して僕に手渡した。
「…うん?なに、これ?」
手渡されたCDと彼女を交互に見る僕にスクーターのエンジンを掛けながら彼女は照れ臭そうにそっぽを向く。
「お礼…楽しい時間が過ごせたから。それね、私の唄が入ってるから聞いてくれる?私、歌手を目指してたの……君に聞いてほしいから……じゃあね」
よほど照れ臭かったのか彼女は僕を見ることなく軽く手を振って坂道を下っていった。
僕は遠のいていく彼女の後ろ姿を見送りながら今頃になってあることに気付いた。
「名前……聞き忘れてたな」
それが僕と彼女との出会いだった。
読んでいただきありがとうございます
(o_ _)o
取りあえずリリスの涙編は一端終了して次回から別のサブタイトルになります
『僕』と『スクーターの彼女』が織りなす【唄】が二人の話がメインとなります
今後とも宜しくお願いいたします
<(_ _)>
では、失礼いたします
(o_ _)o