リリスの涙~彼女だけの部屋~
「リリスの涙ですか…懐かしい絵ですね」
私はできたてほやほやの構成表や配置図などを持って館長室に来ていた。
その書類を手に取り吟味を始めた館長が飾る予定の絵のタイトルを見てふと懐かしげにさっきの言葉を口にしたの。
「駄目でしょうか…」
館長の口ぶりから大切な絵画のように思えて弱気になりながら聞いてみる。もし、駄目なら全てを作り直さなきゃならい。
あの絵のためだけの部屋を作るつもりだからだ。
ドキドキしながら館長の顔色を窺う。
しばらく懐かしげにタイトルを見つめていた館長は小さく溜息をつくと優しい瞳を私に向けてきた。
「そうですね…この絵にまつわる昔話をしても良いですか?あぁ、少しだけ長くなるかもしれませんので座ってください」
私は意味も分からず勧められるままに来客用のソファに座り館長の方へと視線を向けたの。
館長は書類をテーブルに置くと窓から見える景色に視線を向けて瞳を細めながら館長は遠い記憶を手繰り寄せるように静かに話し始めた。
「この絵と出逢ったのは……そう、私が妻と出逢う大分昔の話になりますーーー」
三十年前ーーー。
私はとある貿易会社を退職して自ら会社を立ち上げました。あの頃は景気も良く美術品が高値で売れる時代でした。
私も三十代半ばで野心に燃えていました。
世界中を飛び回り、多くの美術品と接して私は過信していたのでしょうね……それに、まだ若かった。
ただ、私は目利きには自信がありました。
寂れた教会などに赴き、不必要な美術品の中から価値のあるものを探し出す、まるで宝探しのようでワクワクしたものです。
そんな頃でしたか……彼女に出逢ったのは。
私はギリシャにあるシミ島に赴く機会がありまして……そうですねぇ、多分にこの場所に美術館を建てたのもあの街並みに似ていたからかもしれませんね。
エーゲ海に面した小さな島で驚かれるかもしれませんが夏の雨の降らない時期は飲み水は他の島から水を運んでいるんですよ。
あの時は大変でしたね
近くにあるロードス島などの島とは違い観光名所と呼べる場所のあまりない田舎の港町と言った静かな街でした。
港付近にはオレンジの屋根とベージュ色の壁をした小さな家々が所狭しと並んでいまして慣れないうちはよく迷子になったものです。
私はある富豪に頼まれ一枚の絵画を探していました。彼が人生で最初に恋をした女性の肖像画……だそうです。
それが『リリスの涙』なんです。
彼は富豪になる前までシミ島から船でロードス島に渡り、観光客向けの絵を描いていたそうです。
全く売れない日もあったようですが彼は描くことが好きで充実して日々を送っていました。
ただ、彼は一つだけ秘密を抱えていました。
ローレライはご存じですか?
そうですねぇ、セイレーンとも言われたりする海の魔物、船乗りをその歌声で惑わして海の底へと導く魔性の存在、未だにエーゲ海の船乗り達の間では歌を聴いたという話を聞くようですね。
彼も、その歌声を聞いた一人でした。
仲間内で話しても誰からも信じてもらえず、彼は人にその話をするのを止めたそうです。
彼が彼女と出逢ったのはその様な頃です。
その日は羽振りの良い観光客が多く自分の描いた絵が驚くほど売れたそうなんです。
彼はその日の夜、ロードス島で普段は飲むことのない少しだけ高いワインとつまみを買ってシミ島に戻りました。
酒場では彼が赴くと海の魔物に惑わされた哀れな絵描きと馬鹿にされるため彼は小高い丘の上にある白い教会で一人、ワインとつまみを広げて飲んでいたそうです。
その丘の上からは街が一望できて家々から漏れ光る明かりが点々と陸地を照らし闇夜で境界線の見えなくなったエーゲ海の波音が微かに耳を打ち、それりを届けるように優しい風が彼の身体を優しく包み込んでいました。
その日の彼は自分の描いた絵が観光客の手によって世界中に旅立つ姿を想像しながら我が子の旅立ちのように嬉しく思い、ついつい深酒をしてしまったようなんです。
そのまま地面に寝転がり闇夜に瞬く星空を見つめながら彼は眠りろうと瞳を閉じました。
夢と現実の狭間でまどろむ彼の意識は優しい風に運ばれて歌を聴いたそうです。
けれど、彼は皆から馬鹿にされていましたので酔いが回ったせいで幻聴を聞いているのだと自嘲してそのまま寝入ったそうです。
どれくらい時間が過ぎたのか分かりませんが彼は月明かりに意識を呼び起こされ朦朧とした意識の中で瞼を開きました。
そして彼は彼女に出逢ったそうです。
月明かりに照らされ反射する長い金髪をそっと手で押さえながら闇夜に沈むエーゲ海を哀しげな瞳で見つめる彼女の姿を彼は見たそうなんです。
微かに聞こえる彼女の歌声は彼が幻聴だと自嘲した歌声で……彼が遙か昔に聞いたローレライの歌声だったそうです。
彼は身体を起こそうとしましたが思うように動かず、彼女をただ見つめるだけしか出来ませんでした。
声をかけることすら出来ず彼女の姿と歌声を聞き続け気が付くと彼は意識を失っていたそうです。
エーゲ海から浮かぶ陽光が瞼に当たり、彼は意識を呼び覚まされ飛び起きました。
そして彼女が座っていた欄干へと駆け寄っていった彼は陽光に照らされてキラキラと光る一本の長い金髪を地面で見つけたそうです。
彼はその髪を握りしめ涙しました。
彼女がここにいたのだと確信できたのでしょうね。
そして、彼は彼女を待ち続けました。
毎日、毎日、丘の上の教会で彼女いた場所で、彼女を思い彼女の絵を描き続けながら……。
もちろん、その様なことを続けていれば生活は出来ません。彼は月に一度だけロードス島に渡り昔のように描いた絵を売り続けました。
けれど彼は決して彼女の絵だけは手放すことがなかったのですが当時、ヨーロッパは戦乱の序聴の鳴り響く時代であり避難する最中、彼が最も愛した彼女の絵を失ったそうです。
その後、彼は戦前に描いた絵画が高く評価され当時の富豪までなったそうです。
彼は探し続けました。
彼女の絵を全ての私財をなげうって何年もの月日を掛けて…ですが、彼の願いも叶わず見つけることは出来ませんでした。
そして、彼も年老い自ら探すことも出来なくなり私に依頼をしてきたのです。
彼はベッドの上で私に語ってくれました。
彼女に出逢わなければ今の自分はなかったと…自分の作品を最初に評価してくれたのは彼女に出逢ったあの日に買ってくれた観光客であったこと……だから最後に彼女に会いたいと。
私は彼の依頼を受けることにしました。
当時の状況を細かく調査して似た絵の噂を聞けば直ぐに現地に赴きましたが全てが違っていました。
私は一度、彼が彼女に出逢った場所に行ってみようと思いシミ島に向かいました。
500段近くある長い階段を上り丘の上の白い教会に辿り着いた私はその景色に言葉を失いました。
自然と人の営みがこれ程までに調和された景色を見たことがなかったからです……本当に素晴らしかったですね。
私がシミ島に行くと彼に話したとき彼は私にワインとおつまみを手渡してくれました。
そうです。
彼が彼女と始めて出逢ったときに飲んでいたあのワインを手渡されたのです。
彼はそのワインを私に手渡すときに言っていました。
「私はこのワインを二度と飲まないと決めている……勿論、彼女とで会うまでだがね」
そう、口にした彼の表情は本当に初恋を思い出した少年のようにキラキラとしていました。
私は彼と同じ時間に飲むことにしました。
日も陰り家々に明かりが灯り始め、彼の話してくれた通りの景色がまだ残っていたのには驚きましたね。
私はワインを開け三つのグラスに注ぎました。
彼と彼女の分です。
二つのグラスを欄干に置いて私は少し離れた場所でこの景色を楽しむことにしました。
二人の邪魔をしたくありませんでしたからね。
私は少し酔いが回ったので彼と同じように地面に寝転がり星空を見上げました。
街中とは違い本当に闇夜を覆い尽くすような星空が私の心を穏やかなものへと変えてくれました。
そして、私は気が付くと寝入っていました。
柔らかな風が優しく頬を撫でて私を深い眠りへと誘っていきます。残念ながら私は彼女とで会うことは出来ませんでした。
きっと彼との語らいが楽しかったのでしょうね。
翌日、私は丘の上の教会の神父さんと話を聞かせてもらいに赴いて、その壁に掛けられていた絵を見て驚きました。
彼が探し求めていたあの絵がこの教会にあったんです。あれは本当に驚きましたね…彼が長年、探し続けていた絵が最も大切な場所にあったのですから。
私は直ぐに交渉を始めました。
値はいくらでも良いから、この絵を求めている人がいるからとあれは今、考えても交渉と呼べるものではありませんでしたね。
若さ故の情熱だとおもいます。
結局、私は通常の三倍の値で買い取り、急ぎ彼の元へと向かいました。
彼の喜ぶ顔が見たい一心でしたね。
……ただ、私は彼と彼女は再会させるという願いを叶えてあげることが出来ませんでした。
私がシミ島に着いた晩、彼は無くなったそうです。あとで聞いた話ですが私が彼に出逢ったときは既に末期のガンで余命幾ばくも無かったそうです。
私は愕然としました。なんで、もっと早く教会を訪ねなかったのか、なぜシミ島にもっと早く行かなかったのか。
私の人生で一番の後悔でした。
ですが、私が彼の娘さんに絵を持って行ったとき彼の最後を聞かせてもらったとき私は涙を堪えることが出来ませんでした。
「貴方のお陰であのワインを飲みながら彼女と語らうことが出来た………本当にありがとう」
彼はあの場所にいたのだと私は思いました。
あの晩……。
あの瞬間……。
彼女と彼は出会うことが出来たのだと…。
私の行動は無駄ではなかったのだと……。
その後、私は彼の遺言に従って彼女を預かることになりました。いつか、あのシミ島にある丘の上の教会のような美術館を建て彼女と彼の作品を守りたいと思ったのです。
「これが、この絵にまつわるお話です……」
私は涙を堪えることが出来なかった。
号泣する私に館長はそっとハンカチを手渡してくれて、さらに涙が止まらなくなった。
「わ、わたし……」
言葉が出てこない。
そんな私に館長は優しく微笑んだ。
「この話は妻にもしてません。なにせ、私も彼女の虜になった一人ですから……ですから、彼女のための最高の部屋を用意してあげてください。あの場所で彼女が寂しくないように……」
私はただ頷くことしか出来なかったけど……この話を誰かに伝えたい。いいえ、伝えていきたいと思った。
だから、私は彼女のために…
彼と彼女のような悲恋がないように。
読んでいただきありがとうございます
もう、これでEndって書こうかと思いましたがもう少し続きます
では、失礼します