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リリスの涙~記憶の物語~


 今日も僕はいつものあの場所に向かうために長い坂道をゆっくりとした足取りで歩いていた。


 海の見える小高い丘にある小さな美術館。


 そこが僕が目指す場所だ。


 長かった坂道を上り終えて顔を上げると少し古びた白亜の建物が視界に飛び込んでくる。


 陽光に照らされた白亜の外壁が眩しく反射して僕は思わず瞳を細めながらロビーに向かった。


「少し早かったかな……」


 室内に掛けられた[closed]の看板を見ながら小さく呟くと僕は柱に身体を預けながら小高い丘から見える海に視線を向けた。


 まだ季節的には肌寒い四月の半ばで吐く息が白くなることはないはずなのに空気が冷たく感じて僕は思わず身震いしてしまう。


 けれど、寒いのは決して悪いことばかりじゃないと僕は思う。だって、空気が澄んでるっと事は景色も綺麗に見えるから。


 日の光に照らされた海がキラキラ輝いているし美術館の草木も朝露に濡れて生き生きとしている。


 それらを見てると僕の心も何だか気持ち良く感じるのはきっと気のせいではないと思う。


「あらっ、もう来たの?」


 館内から聞き慣れた声が聞こえて振り返ると顔馴染みの学芸員のお姉さんが少し驚いた表情を僕に向けていた。


「はは、いつもより早く目が覚めちゃって」


 頬をポリポリ掻きながら照れ隠しの言い訳をする僕にお姉さんはクスリと笑みを浮かべて美術館の扉を開いてくれた。


「さあ、どうぞ。彼女(・・)が待ってるわよ」


 彼女の言葉に思わず苦笑いを浮かべながら僕は開館と同時に足を踏み入れる。


 外の空気とは違う空調特有の規則正しいそよ風が僕の頬を撫でて、そのまま駆け抜けるようにすり抜けて自然の空気と混じり合っていく。


 僕は瞳を閉じて大きく深呼吸する。


 この瞬間が何となく好きなんだ。


 日常とは違う別世界に足を踏み入れたような、ワクワクとドキドキが混ざり合ったような、そんな感覚に陥ってしまう気がするから。


「うん、何時もと同じ匂いだ」


 美術館に匂いなんてないはずだけど、何となくガラスケースに収められている絵画の絵具の香りが鼻孔を擽るような気がして思わず微笑を浮かべる。


 声をかけてくれた顔馴染みの学芸員のお姉さんの微笑みに軽く会釈で返して真っ直ぐにいつもの場所へと歩みを進めていく。


 足早になるのは仕方ない。


 だって彼女が待ってるから。


 ここは僕がいつも通っている美術館。


 開館して直ぐなので僕以外の誰もいなくて何とも言えない気持ちの良い静寂に包まれていた。


 貸し切りみたいでなんだか、くすぐったい。


 けど、僕の心は躍ってる。


 だって今日、彼女と最初に出逢うのは必然的に僕になるってことだから。


 落ち着かない気持ちを抑えながら僕は幾つかの作品を横目に早足で駆け抜け目的の絵画の前で立ち止まる。


「おはよう、リリス」


 その絵に描かれた彼女に声をかけて近くにあるいつもの定位置、観賞用のソファにゆっくりと座る。


 絵画から少し斜めの位置にあるこのソファは僕のお気に入りの場所だ。


 だって、この位置が彼女(・・)の姿を最も美しく見ることの出来る僕にとっての一番の特等席だから。


 僕は画材が入った少し重い鞄を足下に置くと改めて彼女を見つめる……やっぱり、綺麗だ。


 彼女に出逢ってから僕は、この場所のこの位置で彼女を見つめて時間を過ごすようになっていた。


 絵を描くことしか取り柄のない僕はがむしゃらに勉強して現役で美大に合格した。


 新しい生活に希望に胸膨らませながら僕は好きな絵を描き続けたんだけど…。


 美大に通うようになって二年目、あれだけ好きだった絵を描くことに入学当初ほど意欲が湧かなくなってしまったんだ。


 授業や自主制作で色んな事に挑戦してみたんだけれど、どれも僕が求めているものと違うように感じてしまった。


 悩んで、模索して、何かを得ようと足掻いてみたけど、足掻けば足掻くほど自分が描きたいものが分からなくなっていく。


 何かが違う…。


 どれも、これも僕が求めているものじゃない。


 どうすれば良いのか分からず悶々とした日々を送っていた僕は気分転換に丘の上にあるこの美術館にやってきたんだ。


 長い長い坂道を黙々と歩いていく。


 時折、木々の隙間から見える澄みきった青い空と陽光に照らされ光り輝く海を見て丘の上から見る景色を想像しながら美術館を目指して僕は歩いた。


 初春にしては暖かいと言うより暑いといった方がしっくりくる気温に額から滲み出てくる汗を拭いながら、ようやく美術館に辿り着いた僕は目の前に映し出された光景に思わず感嘆の声を漏らした。


「…へぇ」


 青空と煌めく大海原の間で白亜に輝く美術館、それらがまるで絵画のようにしっくりと納まっていたからだ。


 しばらく、その景色を堪能した僕は白亜に輝く美術館の扉を開いて中に入ると微かに冷房の効いた館内にほっと息をついた。


 坂道を歩き続けて火照った身体が適度に冷房の効いた館内の空気に徐々に冷やされていく感触が心地良かったからだ。


「美術館へ、ようこそ」


 一息ついて気が緩んでいたところにふいに声をかけられて僕はビクッと身体を震わせて振り返った。


 その先には受付ロビーで僕の姿を楽しそうに見つめるお姉さんがいたんだ。


「…あっ、どうも」


 気恥ずかしくなって顔を伏せながら挨拶するとお姉さんが口元に手を添えながら笑った。


「ふふっ、暑かったでしょ?今日は気温が高いみたいだから少し冷房を強めにしたのですけど寒くないですか?」


「……最適です」


 実際、本当に絶妙な温度だった。


 あの長い坂道を登り切って館内に入れば心地良く涼むことの出来る温度にお姉さんのおもてなしの気持ちがヒシヒシと感じ取れた。


 僕は入場料を払いパンフレットを貰うと館内をあてもなくフラフラしながら観賞していく。


 展示されてる作品は肖像画が多くパンフレットに視線を落とすと案の定、肖像画がメインの展覧会みたいだった。


 あまり見覚えのない絵画が多かったけど年代ごとに振り分けられていて服装や技法の歴史が垣間見えて意外とおもしろい。


 人の表情もそれぞれ描き手の感性が見えて興味深いし、なにより絵画の並びがそれを意図しているようで美術館スタッフの感性が感じられる。


 「あの受付の人が並べたのかな……」


 何となくだけど館内の温度調整の気遣いさからそんな気がしたんだ。


 それからしばらく館内をふらついて展示物を見終えた僕は美術館を出るために受付ロビーへと向かって歩き始めた。


 受付ロビーにはあの人がいなかったのを少し残念に思いながら美術館を出ようとして僕はロビー近くの物陰にひっそりと佇む小部屋を見つけたんだ。


 まるで隔離されたかのように人目の付かない場所でメインのフロアから少し離れているせいで気付かずに誰もが通り過ぎていく……だけど。


 僕は何故か気になってしまった。


「…なんだろ?」


 誰かに呼ばれた気がして引き寄せられるように僕はその部屋へと足を踏み入れた。


 そして……僕は目の前に飾られた一枚の絵を見て茫然と立ち尽くしてしまったんだ。


 まるで、この部屋だけ時間が止まったかのような静寂さに僕の鼓動が早まっていく。


 それは運命だったんだと思う。


 一目惚れとも違うし感動でもない……運命、それが僕の今の心境を如実に物語ってるんだと思う。


 赤茶けたレンガ造りの欄干に座り、風で靡く腰まで伸びた金髪を軽く手で押さえながら遠くを見つめる眼差し、そんな肖像画に描かれた彼女の姿に僕は惹きつけられてしまったんだ。


 特に僕の意識を惹きつけて止まなかったのは彼女の頬を伝う一筋の涙……それが彼女の全てを物語っているように感じた。


 『リリスの涙』


 それが、その絵のタイトルだった。


 リリス…それが彼女の名前なんだ…。


 僕は改めて彼女の横顔を見つめる。


 微かに潤んだ瞳からうっすらと垣間見える一筋の涙のあと、どこか哀しげに見える彼女の瞳は何を見ているのだろうか……。


 茫然と立ち尽くしながら彼女を見つめていると学芸員のお姉さんが僕の傍らに来て同じように彼女を見つめた。


「…この絵はですね、倉庫の奥深くに埋もれたまま誰からも忘れられていた作品なんですよ。」


 どこか哀しそうに彼女を見つめながらお姉さんは僕にこの絵を見つけたときのことを話してくれた。


            *


 私が彼女を見つけたのは本当に偶然だった。


「悪いんだけど今度の展示に必要な絵の目録を倉庫に行って確認してきてくれないか?」


 館長が持ってきた資料の束に私は溜息をついた。


「…これ、全部ですか?」


 一目見ただけで大変なのが分かる。


「本当に申し訳ないんだけど…人手がね」


 申し訳なさそうな表情を浮かべる館長に深い溜息をつきながら資料の束を受け取る。


「じゅあ、お願いするね」


 そう言って立ち去っていく館長の後ろ姿を眺めながら書類の束をペラペラと捲って中身を確認する。


「今度の展示は肖像画がメインかぁ…」


 年代ごとに振り分けられたタイトルに私は頭の中で幾つかの絵を思い浮かべながらボソリと呟く。


 正直な話、私も暇じゃない。


 この小さな美術館、外見の雰囲気と景色に惹かれてここに就職したのだけれど……。


 就職して直ぐに後悔することになったの。


 だって、従業員が私を含めて三人しかいないんだもの。普通の美術館ならかなりの数の学芸員と専門スタッフがいて絵画の修復や管理なんかをしているんだけど……。


 ここの美術館には初老の館長と副館長(館長の奧さん)しかいなかったの。


 流石に美術品の管理なんかは専門の業者さんを雇っているみたいだけど、館内の管理は雇われた私の仕事になる。


 最初は色々と出来て楽しかったけれど、月日が過ぎるごとに私はあることに気付いてしまった。


「……お客さんが来ない」


 受付ロビーで私は頬杖を付きながら誰も来ない玄関を見つめて呟いた。


 確かに建物は素敵だけれど…立地が悪い。


 小高い丘の上にあるこの小さな美術館は貿易で一代で財を成した館長夫婦が私財を投げ売って始めた私的な美術館なの。


 景観が綺麗だからって理由でこの場所に建てたみたいだけど、街からここまで交通手段が徒歩しかない。私営の美術館だから勿論、バス停もない。


 長い坂道を歩かなきゃいけないから、よっぽどの物好きぐらいしか足を運ぶ人がいない。


 多くても二桁、酷いときは誰も来ないまま閉館なんて日もあったりするから……必然的に暇になる。


 だからと言って不用意に受付から離れるわけにも行かず、私は受付ロビーで項垂れるしかない。


 だから、館長からの仕事も日中は手を付けることが出来ずに閉館までグダグダと過ごすしかなかった。


 午後六時を過ぎて空が夕闇に暮れ始めた頃、私は一日中すわっていた椅子から立ち上がり玄関の鍵を閉めに行く。


 ようやく閉館の時間になった。


 喫茶店によくある[closed]と描かれた看板を外に向けると凝り固まった身体を解すように両手を組んで大きく伸ばしながら「う~ん」と声を出す。


 さてと……。


 私の仕事はこれからが本番だ。


 明日は休館日、その間に専門スタッフが館長の決めたレイアウト通りに作品を展示していく。


 私の仕事は館長の選んだ作品の状態確認と収納場所に違いがないかのチェックをすること。


 単純そうに見えるけど意外と大変なの。


 もし、作品に傷が付いてることが後で分かったら業者さんと揉めてしまうから。美術品には専用の高い保険が存在するわ。


 運搬時の破損の補償費用、物によっては億を超える事もあるから……恐い、恐い。


 ここは小さな美術館だけど作品の中には勿論、歴史的価値の高い作品もあるわ。


 それに傷が付いたら……考えただけでも身震いするぐらい恐ろしい。


 だから、館長代理として私が前回確認したチェック表を元に確認をしていくの。


 結構、責任重大なのよ。


 私はメインフロアの電源を落として[StaffOnly]のネームの入った扉からバックヤードへと向かった。


 幾つか照明が切れていて薄暗いけれど歩くには問題ない。しばらく歩いて行くと作品が保管されている部屋の扉に辿り着いた私は首から提げたIDPASSを扉の横の機械に通して扉のロックを解除する。


 ガチャリ。


 解除された音を確認して扉を開くと、空調の風と共に少しカビ臭い匂いが私の鼻孔を擽る。


「くしゅんっ…」


 鼻炎気味の私は小さなくしゃみをしながら室内の明かりを付けると幅の広い戸棚が幾つも視界に入ってくる。


「………う~ん、何時に終わるかしら?」


 ずっしりとした書類の束の感触に私は溜息をつきながら棚とチェック表の数字を見比べて一つずつ確認作業を始めていく。


 作業を始めると意外と時間が経つのが早くて気が付いたらあっと言う間に二時間が経過した。


「…ふぅ、あと少しね」


 私は残りの枚数を確認して見終えた作品を元の棚に戻すと、予め買って置いた缶珈琲に口を付ける。


「うん、美味しい」


 甘さ控え目のカフェラテだったけど疲れた身体にはちょうど良い甘さだった。


 確認作業用のパイプ椅子の背もたれに身体を預けながら私はぼんやりと天井を見つめたの。


 さっきまで確認していた油絵の残り香が微かに漂ってきて私は少し笑みを浮かべたわ。


 何だかんだで、やっぱり私はこの香りが好きなのだと実感したから。


 絵が好きでそれに関連した仕事に就くのが夢だったから今の私の職場は理想的なのかもしれない。


 そんなことを思いながら私は横目で残りの枚数を確認して一気に現実に引き戻されて思わず大きな溜息をついた。


 どう頑張ってもあと一時間は掛かるわね……。


 心の中で愚痴りながら珈琲に口を付ける。


 口一杯に広がる珈琲の香りを味わいながらなにげに周囲を見渡した私は部屋の隅に乱雑に置かれた一枚の絵画があるのに気付いたの。


 その絵画は白い布で覆われていて中身を見ることが出来なかった。


「…なんの絵かしら?」


 少し気になった私は残り少なくなった珈琲を一息に飲み干すと、その絵画に近付いて行き掛けられていた布を外した。


「………っ!?」


 その絵画が瞳に映し出された瞬間、私は言葉を失ってしまった。保管庫の殺風景な景色が一気に色づいてまるで絵画の世界に足を踏み入れたような錯覚を覚えたから。


 潮風が頬を撫で、陽光が私の身体を暖かく包み込んでいる感覚に私は大きく瞳を見開いた。


 けれど……次の瞬間、私は元いた保管室で茫然と立ち尽くしていたの。


「今のは何だったの…?」


 疲れて白昼夢でも見ていたのかしら?


 突然のことに混乱する思考を何とか宥めながら…私はもう一度、その絵画へと視線を向けたの。


 けれど、今度は何も起きなかった。


「…夢、だったのかしら」


 私の瞳には哀しげに遠くを見つめる女性の肖像画が映し出されていたの。


 特段、優れた画家が描いた風には見えなかったけれど…彼女の頬を伝う一筋の涙を見た瞬間、何故か私の中で強烈な印象が焼き付けられてしまったの。


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