勝手に決めたいつか必ず
*
終わりが近い。
最近ぼやけてきた視界はますますその霞みを強め、いよいよもって色彩すら失い始めていた。
もう私は終わるのだ。どれだけの時間を生きてきたのか分からないが、振り返ればほとんどは長く退屈な日々だった。
「今まで、本当にありがとう」
あの人の声がした。その瞬間に思い直す。
そんな日々を唯一変えてくれた存在。
あなたとずっと一緒にいたかった。何もない日々で心の片隅でずっと願い続けた。叶う事のない願いだと、自らを嘲りながら。
しかし、最後の最後で奇跡は起きた。
薄らぐ視界の中で、初めてあなたの言葉を理解出来た。
“ありがとう”
それは、私のセリフだ。
◆
初めてあなたが来てくれた日の事を、私は昨日事のように思い出す事が出来る。ただ茫然と生きているだけの毎日に、あなたは急に現れた。
「********」
あなたは何かを言いながら、私に優しく微笑みかけた。残念ながら何を言っているのかは、振り返っても私には理解出来なかったが。
しかし、その笑顔とそっと差し出された掌の温もりは私の心にじんわりとしみ込んだ。
不思議な感覚だった。
未だかつて味わった事のない感情に私は初め戸惑った。
今感じている感情は一体何なのだろう。触れたことのない温かさが心地よいものだったと感じたのは、彼がその場を離れてしばらくしてからの事だった。
時間の周期が自分の中で正確に把握出来なかったが、あなたはおおよそいつも寒さが強くなってきだした季節に現れた。
私は自然と寒さが好きになっていった。今まではそんな事思いもしなかった。むしろ嫌いだった。身を切られるような寒さに晒される事が苦痛で仕方がなかった。
でも今は違う。肌が寒さに震えると、あの人と会えるという期待に心が弾んだ。
「********」
そしてまた、あなたは良く分からない言葉と笑顔で、私に優しく触れた。
この一瞬があれば、私は生きていける。
本気で心底、私はそう思って生きていた。
しかし、それ以外は苦痛なものだった。
最低限の生活。それ以外には何もない。娯楽など持ってのほか。自由などありもしない。
毎日毎日、同じリズムで過ぎていくただ生きているだけの日々。
――あの人と一緒にいられたらいいのに。
その淡い希望が叶う事などないだろう。抱くだけ自分を傷つける刃にしかならない。
捨ててしまえ。そう思うのに、捨てきれない。それどころか気付けばあなたの事を考えてしまう始末だ。
苦しい。
でも、あなたを想えば想うほど、そこにある幸せな空想の生活が私の心を傷つけながらも癒していった。
――想うだけなら、罪にはならない。
誰にも迷惑をかけない。
あの人のもとに行きたい。しかしあの人と一緒にいたいと叫んだところで、誰にも理解などされない。
だったらせめて、これぐらいはいいだろう。
そうやって、果てしない時間を過ごしてきた。何もしていないのに着実に身体は老い、そして崩れていった。
もう長くはない。終わりが始まっている。死というものを現実に感じ始めていた。淡い夢は、やはり叶いそうにない。
それでもあなたは必ず同じ季節に会いに来てくれた。
あなただけが持っている、至福の愛情を持って。
良かった。私は幸せだった。
あなたがいてくれた事で、私の命は僅かながら輝く事が出来た。
十分だ。これで。
「*********」
でもその日、あなたの笑顔はいつもと違った。
触れる手は優しかったが、どこか硬さを帯びていた。
何より気がかりだったのは、あなたの目元から涙が零れていた事だ。
――どうしたの?
あなたの表情をじっと見つめた。
何を思ってるの? 何を考えているの?
不安で心がいっぱいになる。
「*********」
何かを言いながら、あなたは初めて私を抱きしめた。
その瞬間に、私は悟った。
――ありがとう。
全身を包む優しさに、私はそのまま溶けていきそうだった。
□
「遅くなって、ごめんな」
やっと迎えに来れた。
お前がそれを望んでいたかは分からない。でも、心は通じ合っていると俺は信じている。
お前と一緒にいれたら。ずっとそう思ってきた。でもそれを実行する事が、ずっと出来なかった。
――いつか、いつか必ず。
だが、その状況がいつ訪れるか、その機会がいつ訪れるかは自分でも分からなかった。
ようやく、その時が来た。
「行こう」
小さな身体を抱き上げ、ようやく俺は勝手に決めた約束を果たすことが出来た。
「あけましておめでとう」
毎年新年の挨拶で訪れる親戚の家の庭で初めてその姿を見た時、俺は言いようのない憤りを感じた。
小汚い小屋と雑に鎖で繋がれたその姿は、一目見ただけでも本来与えられるべき愛情がまるで注がれていない事がうかがえた。
“ちゃんと世話をしているんですか?”
毎年訪れる度に口にしてやろうと思った言葉は、いつも喉の奥で引っかかってそれ以上外には出てくれなかった。
親戚のおばは普通に接している限りは問題ない。だが、地雷を踏んでしまった時のややこしさは母親からよく聞いていた。もし自分がそんな事を口にしようものなら激昂される事は目に見えている。
別に自分だけなら構わない。だが、それをすることで我が家と親戚の関係にひびを入れてしまう事は、これまで良好な関係を築いてきてくれた母親に申し訳がない。それに、決して虐待されているわけではない。確かにろくに散歩も連れて行かず、身体も洗われてはいないようだったが、ちゃんと食事は与えられている。それを世話や飼育というのであれば、残念ながら最低限の事は行われている。本当に最低限ではあるが。
俺はそうして毎年いつも無念を抱えながら、彼女の頭を撫でた。
「いつかきっと、迎えに来るからな」
そう呟きながら。
「すごいね。ウチのもんにすら懐かないのに、あんたには懐くんだから」
そんな言葉が言えてしまうおばに殺意すら覚えながら、俺は当然だろうと思った。
愛情を示さない相手に、愛情を返すわけなどない。それは人間も犬も同じだろう。
いつか。それはいつになるのだろう。
自分が彼女にかけた言葉は、ひどく無責任なものだった。だがもしだ。おばが死んで、この子を世話するものがいなくなれば。おばの息子や娘達もおばと同じでろくに彼女の世話をしていない。だからその時が来れば、そのいつかを果たす事が出来る。
そしてその時は来た。
おばが死に、俺はついに口にした。
「この子、俺が引き取ってもいいですか?」
おばの息子達に尋ねながらも、俺の言葉は有無を言わせない語気をはらんだものだった。
それに気圧されたのと、毎日顔を合わせながらも飯だけを与え愛情を注がなかった者と、年に一度だが愛情だけを注ぎに来た者、どちらが彼女に適任かという判断は、向こうも同じだった。
「遅くなって、ごめんな」
俺はその日初めて、彼女を抱きしめた。
あまりにも遅すぎた。本当はもっと早くに、決断し行動すべきだった。彼女の白く濁った目には、もうほとんど何も映っていないだろう。
もう余命いくばくもない、弱りきった命だ。
だがせめて、残り僅かな時間だけでも、ちゃんとした愛情を注いでやりたい。
「行こう」
人間の勝手に振り回して、ごめんな。
でも、せめて俺なりに、お前を幸せにしてやるから。
最後は俺に任せてくれ。