偲び戀
「どうぞお上がりになって下さいな」
「いえ・・、遅くなると、家の者が心配をしますから」
傾けば、すとんと落ちる晩秋の日が、玄関の三和土に差し込んでいる。それが足元にまで伸び始めて来たのを気にしつつ、竹次郎は結城勘解由の妻女、美和の申し出を丁寧に断った。
――旗本結城家は、千代田の城の西に位置する、番町にある。代々勘定方に席を置く家だったが、主の勘解由は、先日、若年寄磯辺田島守じきじきの命により、二十八才と云う若さで目付に抜擢された。その祝いの品を、竹次郎は届けに来たのだった。
「もう少しすれば、旦那様も戻りますのよ。せっかく竹次郎さんがお越し下さったのに、そのままお帰ししてしまったと分かれば、後でわたくしが叱られます」
心底困ったように告げる美和の言葉は本当だろうと、その事は竹次郎にも分かる。だがそれが、自分にはどんなに残酷な申し出かを、幸せに包まれているこの人は知らない。繰り返し説得を試みる美和を見ながら、竹次郎はそう思う。しかしその心の葛藤を他所に、逃げ道は、突然、後ろから掛かった声に塞がれた。
「そのような所で、何を騒いでいる」
凛と張った声が、玄関の中ほどまで忍び込んでいた黄昏色の気を揺らした。
「旦那さまっ」
主の早い帰りに慌てながら、だが美和の声には、これで客を引き止められるとの、素直な安堵があった。
「竹次郎も、さっさと上がれ」
腰の二本を抜き美和に渡すと、立ち尽くしている竹次郎を叱り、結城勘解由は上がり框を踏んだ。
「勘解由兄上っ、私はこれで」
「莫迦を申すな。お前、この家に来たのはどれ程ぶりだ。あまりのご無沙汰に、近々此方から行ってやろうと思っていたところだ。今日はたっぷりと説教してやる」
確乎と云い終えて向けた背は、竹次郎がついて来るものと決め付け、どんどん先を行く。
「さぁ、さぁ、竹次郎さま」
そして美和の弾んだ声が、まだ躊躇いから抜け出せずにいる竹次郎を促した。
結城家の中庭は、小さいながらも手入れが行き届いており、房状に実った紅の南天が柔らかな陽を弾いている。勘解由はこの庭に面した、己が書斎として使っている部屋に竹次郎を通すと、暫し待つよう命じた。
端座した竹次郎の前には、茶と、花弁をかたどった薄紅の干菓子が置かれている。この菓子を運んできた時美和は、今日自分の実家から届いたものだと教えた。その慎ましやかな微笑を見つめながら、竹次郎は、自分の心のうちに沈む澱が重く揺らぐのを感ぜずにはいられなかった。
貴女よりもずっとずっと前から、勘解由兄上を好いていたと――。
もしもそう告げたら、この人はどんな顔をするのだろうか。幸いの中で輝いていた光は、瞬く間に闇色に変わり、優しく向けていた眼差しは、一瞬の内に険しく冷たい視線に豹変し、嫉妬の刃で自分を突き刺すのだろうか。
そんな事を思いながら、竹次郎は美和に邪気の無い笑い顔を向け、相槌を打った。だがそれは、竹次郎が最も忌み嫌う、醜いもうひとりの自分だった。そしてこの家に来れば、否応無しにその自分と向き合わねばならない。だから竹次郎は、今年の春、勘解由が美和を娶ってから、屋敷を訪れる事を避けて来たのだ。
その心うちを知らず、たまには顔を見せておあげと送り出した祖父母の心遣いが、今の竹次郎には恨めしい。
「・・嫌だと云ったのに」
遣る瀬無い溜息と共に、小さな干菓子を手の平の上で転がした時、遠く近づいて来る足音に、竹次郎の身に緊張が走った。
元々質素を重んじていた勘解由だったが、目付けと云う職についてもそれは変わらないようで、入ってきた時、長身に地味な木綿を着流していた。
白木屋の祖父母に、変わりはないか?」
「はい」
「竹次郎は、少し背が伸びたか?時折慶介に聞いても的を射ぬ返事ばかりを寄越し、些か不安になっていた」
座るや否や、性急に問う勘解由の声には、慕わしい者を案じていた響きがある。
「慶介兄上には、剣術を教えて頂いています」
「ほう、あの放蕩者でも、少しは竹次郎の役に立つか」
自分の弟を、そんな風に揶揄した勘解由だったが、その双眸が柔らかく細められた。慶介とは、十七の竹次郎よりも五つ年上の、結城家の次男の事だった。
旗本の師弟を集めた昌平坂の学問所で、開校以来と謳われた兄には及ばぬながらも、慶介自身もかなりの秀才で通った。が、本人は学問よりも剣術に興が向き、今は神田の和田道場で、師範代を務める腕だった。しかしその慶介は、堅苦しいのは性に合わないと、最近では月の大半を、竹次郎の家、上野の白木屋で過ごしている。勘解由の言葉は、そのあたりを云っていた。
同じ兄弟と云えど、勘解由の顔の造作は、整い過ぎるているがゆえに、見るものに冷たい感を与えるが、慶介のそれは、端整には違いないが、まず先に、男らしい精悍な印象を与える。そして竹次郎は、どちらかと云えば勘解由の方に似ていた。尤も、勘解由のように、あたかも切れ者と云う鋭さは薄く、目鼻を作るひとつひとつの線も細い。その細い輪郭の中に、黒目がちの涼しげな瞳と、綺麗に通った鼻梁と形の良い唇が、行儀良く並んでいる。一見人形のようなそれらは、亡き母八重から譲り受けたものだった。それでも三人が揃えばどこか相通じるものを感じさせるのは、この兄弟と竹次郎が、血の繋がった従兄弟同士のせいに他ならない。
――竹次郎の父政之助は、勘解由と慶介の父である、結城真之丞の弟だった。それがある日、上野不忍池端で茶屋を営む白木屋のひとり娘八重が暴漢に絡まれていたところを助けたのを切欠に、互いに恋に落ちた。が、政之助は次男と云えど、旗本の子息。町娘と結ばれる筈も無かった。だが二人の想いは強く、その様子から、このままでは駆け落ちもしかねないと、両家の親は頭を悩ませた。丁度そんな時だった。結城家の親戚筋から、普請方を勤める田坂家で養子を探しているとの話が持ち込まれたのは。それを受け、先に八重が田坂家の養女に入り、その後すぐに政之助を婿に迎えると云う複雑な経緯を経、二人は夫婦になった。そうして生まれたのが、竹次郎だった。
家が近くだった事もあり、竹次郎は物心つく頃から、この二人の従兄弟を兄のように慕っていた。そして又、勘解由も慶介も、竹次郎を実の弟のように可愛がった。しかも勘解由に至っては、歳が離れているだけに、それは父性に近いものだったらしく、竹次郎にとって勘解由は、誰よりも大きく頼もしい存在だった。そしてそんな勘解由に、竹次郎は成長と共に、憧れを強くして行った。
だが不幸はその頃に起きた。
父政之助に、ある日突然、大川の土手の普請に関わる不正の嫌疑がかかり、その日の内に切腹の沙汰が下された。そして政之助の亡骸が戻った夜、八重は竹次郎を結城家に預けると姿を消し、翌朝、家の裏の納屋で喉を突き息絶えていたのを、探していた勘解由と慶介が見つけた。
異様な状況の中での一夜が明け、母が見つかったとの知らせに、納屋に駆け寄ろうとした竹次郎の前に、突然、大きな影が立ちふさがった。影は慶介だった。慶介は、竹次郎を覆うように抱くと、見るなと、震える声で叫んだ。その時の痛いほどの腕の強さを、今も竹次郎は、現実ものとして思い起こす事ができる。
それから暫くし、お上は、竹次郎が元服した後、田坂家の再興を許すと云う通知を寄越した。その理由については、不正は政之助自身にあったのでは無く、咎は、それをした手下の者との連座による為と云う事だった。しかしその温情を、八重の両親である白木屋夫婦は跳ね除けた。
元々が、大事に育てたひとり娘。それが政之助と一緒になりたいと、昼に夜に泣かれ、身を切る思いで嫁に出した先の、あまりに悲惨な出来事。八重の母ふみは、娘夫婦の位牌の前で竹次郎を抱きしめ、孫は誰にもやらないと離さなかった。祖父である白木屋助左衛門も、それについては妻と同じ考えで、両親を亡くしたその日から、竹次郎は白木屋で暮らすようになった。時に竹次郎、十二歳。吹く風に、少しずつ冷たさが増すようになった、秋の事だった。
白木屋の者になっても、竹次郎と結城家との付き合いは変わらず、むしろ絆は強くなったと云って良かった。そしてそれと平行するように、竹次郎の、勘解由への憧憬も深くなって行った。だがそれが、いつの頃から恋心に変わったのかは、竹次郎自身にも分からない。気付いた時には、勘解由は、想うだけで竹次郎の胸の裡を、苦しさで恋焦がすような存在になっていた。
「それにしても竹次郎、お前はもう少し横に肉がつかんといかんぞ」
「今は上に伸びているせいだからだと、慶介兄上は仰いました」
知らず知らず、過去に引き摺られていた思考を慌てて戻した声が、羞恥で上ずった。
「あいつの云う事を間に受けていたら、いつまでも細いままだぞ」
「そうでしょうか?」
「そうだ。尤も慶介が剣術を教えているのならば、段々に体も出来てこようが」
そう云って笑う勘解由自身は、痩躯と云って良い体つきをしている。だが身に纏う物の下に隠された胸板も二の腕も、驚く程に厚く固い。それが学問だけでなく、今慶介が師範代を務める一刀流の免許皆伝者と云う、勘解由の剣の実力をも物語っていた。
「そうだ、今度非番の折に、私が稽古をつけてやろう」
「本当に?」
「本当だ」
それまでどこかぎこちなかった竹次郎が、そう云った途端に目を輝かせ頬を紅潮させたのを、勘解由は、剣術に惹かれている少年の喜びにしか受け取る事はなかった。そこに自分への激しい恋慕が隠されていようなどとは、知る由も無い。
「けれど勘解由兄上に、そのようなお暇があるのでしょうか?」
目付と云う職を預かってからこちら、勘解由には一日の休みも無く夜も遅いのだと、憂い顔で云った美和の言葉が脳裏をよぎり、膨らみすぎた昂揚を、瞬く間にしぼませる。
「今日はたまたまお帰りがお早いのだと、先程お聞きしました」
「仕事の内容が変われば、まして、それが今までよりも責任のあるお役目ならば、慣れぬ内は仕方が無い。が、年が明ければ一日位、休みもあろう」
「・・来年」
「待てぬか?」
「待ちますっ」
からかうように笑い、細めた双眸に映る華奢な首が、折れんばかりに振られた。
「ではその時まで、腕を磨いておけ。私の腕は鈍っておらんぞ」
「分かっております」
間髪を置かずに返った声が、朧な約束を、この手で確かなものにするように逸った。
上野不忍池沿い池之端仲町にある茶屋白木屋の店先は、其処だけが、まだ宵を迎えていないような、賑やかさに彩られていた。
「お帰りなさいまし」
姿を見ていたものか、客の邪魔にならないよう裏口から入るとすぐに掛かった声は、番頭の弥助のものだった。
「今旦那さまが、太一を番町のお屋敷まで使いに出すよう、仰られたところでした」
太一とは、今年の春に白木屋に奉公に来た丁稚だった。竹次郎の帰りが遅いことを案じた祖父の助左衛門が、迎えに出そうとしていたらしい。だが竹次郎にしてみれば、若い娘ならばともかく、もう十七の自分をいつまでも子供扱いする祖父には、少しばかり不満が募る。
「心配をかけて、悪かった。丁度勘解由兄上が戻られて、それで話し込んでいたら、すっかり遅くなってしまって」
「そうでしたか。それは良うございました。勘解由様とは、お久しぶりでございましょう?」
が、弥助は竹次郎のそんな感情の綾には気付かず、相好を崩した。
「偉くなったらとても忙しくなったそうで、毎日ご帰宅は深夜になると、美和様が云っていた。だから私は運が良かったのかもしれない」
勘解由と交わした約束が、竹次郎を多弁にしていた。そしてたったそれだけの事で、浮き立つ心を隠せない自分が、恥ずかしくもあった。
「そうそう、慶介さまもお待ちですよ」
「慶介兄さんが?」
「はい、一刻程前にお出でになられて、今夜は泊まるからと、ぼっちゃんのお部屋におられます」
来た時に眠そうにしていたから、今頃は鼾をかいているかもしれないと、喉下あたりで止めた笑いが、慶介への慕わしさを物語っていた。尤も、この家の者達は弥助に限らず、主の助左衛門、妻のふみ、そして丁稚小僧に至るまで慶介を好いている。そしてそう云う、人を惹き付ける人間の大らかさ、佳さが、慶介にはあった。
「さぁさ、旦那様と奥様にお顔を見せて、お部屋に行って差し上げて下さい。慶介様も、そろそろ目が覚められる頃でしょう」
じきに夕餉の支度もできますと促すや、弥助は、丁度呼びに来た店の者と、忙しげに表に通じる廊下を渡って行った。その後姿を見送りながら、竹次郎も、帰りの遅い自分を案じている祖父母の部屋へ足を急がせた。
「よぉ、帰ったか」
「慶介兄さんは、どちらが自分の家か、分からなくなっているのでは無いですか?」
同じ兄弟でも、勘解由と慶介とでは、竹次郎自身驚く程、接し方が変わる。勘解由に対しては、ひたすら自分を律するが、その反動のように、慶介には全てを曝け出し、時には癇癪さえもぶつけてしまう。それは昔から変わらない。
「つれない奴だねぇ。色男が、お前恋しさにこうして待っていたと云うに」
肘枕で横になっていた体を起こし、胡坐をかくと、慶介はまだ寝足り無いのか、ひとつ欠伸をした。
「勘解由兄上も、慶介兄さんがちっとも家にいつかないと、零しておられた」
戯言を、少々尖った声で交わすと、竹次郎は薄闇が敷かれた部屋の隅にある行灯に火を入れた。
「兄上、いたのかえ?」
「珍しく早いお帰りだったみたいです」
「さては、竹次郎の匂いを嗅ぎつけたか」
顎に手を当て、思案げに傾げた首が、冗談を大袈裟に見せる。
「慶介兄さんっ」
「怒るな、折角の別嬪が台無しだぞ」
「私は男です」
「知っているよ。そう云えば、お前に縁談があったそうだな。さっき爺様から聞いた。その話になったら、今度は婆様がえらく怒り出したが・・」
ふと思い出したように問うた声が、返る反応を楽しんで笑っていた。
「辰巳屋さんが持ってきた話なら、今年の春の事です。もう半年も前の事だ。それにその場で断ったし」
「白木屋の跡継ぎは、弁天様が男に姿を変えたと、巷じゃ評判の別嬪だからねぇ。相手の娘も他所に取られる前に、早々に唾をつけて置きたかったのだろうよ」
「勝手に云っていればいい」
仄かに灯った行灯の明かりが、真摯な怒りを湛えた横顔を照らし出す。からかいを真に受け、口を噤んでしまった竹次郎を、慶介は柔らかな眼差しで見詰めた。
遅くなったのは、兄、勘解由との話が弾んだからなのだろう。久しぶりの会話は、始めはぎこちなかったかもしれない。だが今、自分と言葉を交わす顔に翳りは無い。それは竹次郎の中で、満たされる何かがあったからに違い無い。
――自分は竹次郎を怒らせ、笑わせる事が出来る。頬を紅潮させぶつけて来る憤りを受けとめてやり、無邪気に笑う声を独り占めする事ができる。だが時折辛そうに、白い面輪に落とす翳りは、兄勘解由だけが作らせるものだった。この手で守ってきた愛しい者は、いつの間にか腕を滑り抜け、兄に恋慕の情を寄せてしまった。
膨らむ片恋の苦しさは、慶介を日々追い詰める。若い欲情の滾りは、兄への叶わぬ恋など捨てろと叫び、竹次郎の唇を奪い、猛る想いのままに身を裂いてしまいたいと、怒涛の如く荒れ狂う。その都度、足を踏ん張り堪える慶介を、竹次郎は知らない。
「そう云えば・・」
そんな想いを閉じ込めて呟いた声に、竹次郎が、視線だけを動かし慶介を見た。
「大晦日から元旦にかけての荒稽古だが、お前も出るかえ?」
「良いのですかっ?」
途端、膝を乗り出して問う瞳が、輝いた。
「出る気があるのなら、先生に云っておく。俺の指南の賜物で、お前も中々の腕になったからな。ここの爺様、婆様にも上手く云ってやるぞ」
「出ますっ、出ますっ」
それまでの不機嫌から一転、心底嬉しそうな笑い顔に、慶介の顔にもつい苦笑が浮かぶ。
慶介が師範代を務める、湯島天神裏手にある和田道場では、毎年、その年の大晦日から次の年の元旦にかけて、年を跨いでの荒稽古を行う。それは道場の門人達は無論の事、始めから願い出ていれば、武士町人を問わず、腕に自信のある者ならば誰でもが参加でき、道場からの掛け声と竹刀の打ち合う音とで、周囲の家では除夜の鐘も聞こえぬと云う、賑やかなものだった。そして明け方近くに、総当りの勝ち抜き戦があり、優勝者が決まる。尤もここ数年は、その栄誉を慶介が独占している。その荒稽古に出ることを、竹次郎は密かに憧れていた。しかし祖父の助左衛門も、祖母のふみも、竹次郎が剣術に興味を持つことを忌み嫌う風があった。それは娘八重に不幸をもたらせた武家と云うものへの嫌悪と、竹次郎がそう云うものに近づく事を恐れているせいだった。
祖父母のそんな気持ちを十分に知っているからこそ、竹次郎も、今まで自分から大晦日の荒稽古に出たいとは云い出せずにいた。だがその祖父母が信頼を寄せている慶介から説得してもらえば、案外事は上手く運ぶかもしれないと、逸る心は、早大舞台へと飛ぶ。
「では決まりだな」
大きく頷く竹次郎に、これが先程怒らせた機嫌取りだとは黙り、慶介は、己の卑怯を隠して再び苦笑した。
「そうだ・・」
喜びの名残を、紅潮した頬に残し、ふと竹次郎が呟いた。
「大晦日の稽古には、勘解由兄上も出るのかな?」
勘解由は、和田道場の免許皆伝者である。出るに何の不思議も無い。
「そりゃぁ無理だろうよ。えらい役目には、本来の仕事以上につまらん付き合いもついてくる。元旦には登城し、あちこちに顔を出さねばなるまい」
「そうか・・」
寂しげに漏れた声には、期待した、幾倍もの落胆があった。
「それにあの人は今、盆も暮れも無い忙しさだろう」
「そんなに?では今日の私は、本当に運が良かったのかな」
「だろうな。目付になってからこっち、俺とて顔を合わせたのは数える程だ」
「慶介兄さんのは、この家にいる方が多いからです」
「まぁ、そう云うな。冷や飯喰いの次男坊と云うのは、結構居づらいものなのだ」
「嘘ばかりを云う。慶介兄さんが遠慮などと云っても、誰も信じはしない」
「莫迦、これでも俺は気働きの人間だぞ」
明るい笑いが部屋に響いたその時だった。障子に、不意に差した人影に、慶介が先に顔を向けた。
「竹次郎」
声は、祖父、助左衛門のものだった。
「はい」
立ち上がり障子を開けると、鬢に白いもの混じる品の良い顔がのぞいた。
「辰巳屋さんが、お客様を連れて来てね、どうしてもお前に、話を聞いて欲しいと云うのだよ」
「辰巳屋さん・・?何だろう、春に断った話の事かな?」
「どうもそうらしい。あの時はっきり断ったと云うに、全くしつこい」
そう吐き捨てるように云いながらも、祖父の顔に隠せない困惑があるのを、竹次郎は見逃さなかった。
辰巳屋五平は、白木屋と同じように、茶屋を商売にしている。店は浅草観音の参道近くにあり、五平がやり手で繁盛している。何より、同業者で組織されている組を、長年束ねている実力者でもあった。白木屋の内証も、主の助左衛門の堅い商いで、辰巳屋に勝るとも劣らぬものだったが、やはり遠慮はあるのだろう。それが孫との板ばさみになって、助左衛門を困惑顔にさせていた。
「着替えたら、すぐに行きます」
「そうかい、帰ってきて夕餉もまだだと云うのに、堪忍しておくれ。慶介さんも、手短に終わらせますから、少し待ってやっていて下さい」
安堵の色を浮かべた祖父に笑って頷いたものの、竹次郎は、心の中で憂鬱な息をついた。
襖の向こうから、辰巳屋と、もうひとり、知らない人間の上機嫌な声が漏れ聞こえる。それが辰巳屋の連れてきた客のものであるとは、すぐに知れた。
襖の前で端座をすると、竹次郎は一度呼吸を整えるように背筋を伸ばした。それは十二歳まで父母から躾けられた、習い性だった。だがそう云う身に染み付いた仕草は、封じた過去を、否応無しに思い出させる。今もそうだった。しかし竹次郎は父母の面影を強引に打ち消すと、襖の向こうに目を遣った。
「竹次郎です」
凛と張った涼やかな声に、賑やいでいた室内が、ふと静まった。
「お入り」
続いてかかった助左衛門の声に、襖を滑らせると、紙の砦一枚で堰き止められていた淡い明かりがひそやかに流れ出、竹次郎を映し出した。
「これはこれは、竹次郎さん、無理を云ってすまなかったね」
僅かな沈黙のあと、声をかけたのは、上座にいる辰巳屋だった。元々が厳つい印象を与える男だったが、少々酒が入っているせいか、皮膚の黒さに赤みが混じっている。そしてその傍らで、にこやかな笑い顔を向けているのは、これは祖父や辰巳屋よりもずっと若い、まだ四十を少し過ぎたばかりと思える男だった。が、竹次郎が暫し目を奪われたのは、そう云う年の頃ながら、男の持つ貫禄が、辰巳屋などよりずっと上回っているせいだった。着ている物もさり気なく贅を尽くしている。辰巳屋は、隣の男にすっかり位負けをしていた。
「今日白木屋さんにお願いに上がったのは、この遠州屋さんが、・・ああ、遠州屋さんはね、今飛ぶ鳥を落とす勢いの、木場にある材木問屋さんなのですよ」
竹次郎の不審な視線を感じ取ったか、辰巳屋は、まるで自分の事のように、自慢げに隣の男を紹介した。
「遠州屋吉平衛と申します。今回竹次郎さんにお会いしたいと、辰巳屋さんにご無理をお願いしたのは、この私なのですよ」
男の物言いは丁寧で、目は柔らかに細められたが、しかしその中にある光は、絡め取るような執拗さで竹次郎を捉えた。嫌な視線だった。
「私に?」
だがそれと対峙するように、竹次郎は真正面から遠州屋を見た。
「はい、この春にも、一度お願いをした事なのですが・・。実は親戚筋に当たる娘が、竹次郎さんを一目見、恋焦がれてしまいましてね。断られた時には、本人も聞き分けたのですが、そこは若い娘の一途。やはりどうしても諦めきれないと、親に泣きつきまして、困りきった親が、何か良い方法は無いかと、私に相談を持ち掛けてきた訳です。それで今度は私が、辰巳屋さんの縁に縋り、こうして厚かましいお願いに参ったのです」
商人と云うよりも、侍のようにすっきりと背筋を伸ばした遠州屋は、恐縮そうに頭を下げた。
「ですが、そのお話は・・」
「まあまあ、竹次郎さん。確かに竹次郎さんもまだ十七。白木屋さんも、このような話は早いと仰いますが、何も今すぐにと云う訳じゃ無いんだ。それに一度は断られた話を、又持ちかけて来た娘さんの気持ちを、考えてあげてごらんなさい。いじらしいとは思いませんか?一度で良いのですよ、一度会って上げたら、それで向こうさんの気持ちも落ち着くんじゃないでしょうかね」
辰巳屋にそう云われてしまえば、竹次郎の口から、もうこれ以上断りを入れる事は出来ない。何より、ちらりと垣間見た祖父の困惑顔が、胸に刺さる。
「でしたら、一度だけ・・」
小さな声が、まだ揺れ動く心そのもののように、形の良い唇から零れ落ちた。
「会ってやって下さいますかっ?それは有難い。この遠州屋、やっと重い荷を降ろす事ができます」
それは、竹次郎の中で、何処か警戒感の拭えなかった遠州屋と云う人物が初めて見せた、衒いの無い、嬉しげな顔だった。
「いつにするのだって?その茶番」
障子を開けるや否や、女中頭のお久米がふたつ並べて敷いていった蒲団のひとつに潜り込んでいた慶介が、竹次郎を見上げた。
「分からない。遠州屋さんが使いを寄越すと云っていたけど、そう先じゃないと思う」
夜になり、急速に冷え込んだ気を封じるように、竹次郎は素早く桟を合わせた。
茶屋と云っても、白木屋は座敷もあり、夜は料理も出す。その後始末までしていると、店をしまうのは結構に遅くなる。それに住み込みの者も多く抱える大店だったから、この時代には珍しく内風呂が据えられていた。
湯の火照りが残っているのか、襟足の合間から垣間見える白いうなじが、僅かに蒸気している。それを慶介はちらりと見やったが、すぐにうつ伏せて枕を抱いた。が、そのまま伸ばしかけた手の動きが、ぎこちなく止まった。
「煙草盆はありません」
「可愛げの無い奴」
「吸いたかったら、白粉の匂いのするところに行けばいいんだ」
「ただですら肩身の狭い身。遊ぶ金など、夢の又夢」
「にしては、煙草盆を引き寄せようとする仕草が馴れています。慶介兄さんならば、馴染みの女の人も沢山いる筈です。隠れてそんな事をしていると勘解由兄上が知ったら、きっと怒る」
「妬いてくれるのかえ?嬉しいねぇ」
胸に宛がっていた枕をポンと放ると、今度は肘枕で横臥し、慶介は竹次郎に身を向けた。が、竹次郎は蒲団の上に端座し、無口になったきり振り向かない。
呆れているのだとは、行灯の仄かな明かりが浮き出す硬い横顔からも分かった。だがこうしてからかい、怒らせでもして、他所に視線を持って行かない事には、慶介の内に籠もる熱は鎮まりそうも無かった。
「ところで・・」
話題を変えたのは、そんな自分から目を背ける為でもあった。
「遠州屋だがな」
不意に変わった調子に、竹次郎が、訝しげに慶介を見た。
「どんな男だった?」
「どんな・・って?」
「竹次郎が見て感じたままを、云えばいい」
「慶介兄さんは、遠州屋さんと、何か関わりがあるのですか?」
「俺ではなく、兄上だ」
「勘解由兄上が?」
勘解由と、その名を告げた途端、身を乗り出す姿を目の当たりにすれば、兄とは云え、恋敵としての悋気が疼く。それを堪え、慶介は少々億劫そうに身を起こした。
「目付けになって、兄上の最初の仕事が、どうやら普請方に関する事らしい」
「普請?城の壁とか、橋を作るそれですか?父上のやっていた・・」
「そうだ。その事業が、今の普請奉行、内藤弾正殿になってから、幕府の財源を圧迫する程に膨らんで来ているそうだ。そしてその普請を大方請け負って来たのが遠州屋らしい。そうなれば、この二人の間に何らかの利害関係があると思うのが普通だが、どうしても証拠が掴めない」
「それで勘解由兄上が?」
「誰が見ても不正と思う事を、目の前で堂々と、してやられている。・・兄上も、悔しいところだろうな」
淡々と語る慶介の声を聞きながら、竹次郎の脳裏に、非番の日に稽古をつけてやると笑った端正な顔がよぎる。その時勘解由は、年が明けたらと云った。それはそのまま、少しも早くに不正を糾したいとの、切なる望みが込められていたのかもしれなかった。
「後でお爺さんに聞いたのだけれど、遠州屋と云う人は、一代で今の財を築いた人だそうです。年はまだ四十半ば位じゃないのかな?商売をしている人と云うよりは、武士のような、とても鋭い目をしていた」
どんな些細な事も漏らさぬよう、竹次郎は丁寧に記憶を手繰る。
「一代で、あれだけの財を築くとなれば、肝のひとつふたつ据わっているだろう。いや、むしろ腹の黒さにかけちゃ、普請奉行の上を行くかもしれない。若年寄の磯辺様と、あの勘解由兄上を、二人揃って往生させているところを見ても分かるさ」
「そんなに・・?」
呟いた声が、心許なく消えた。
竹次郎は、己の経た凄惨な過去が、年よりも少しばかり大人の目を、自分に備えさせたと思っている。その目から見ても、遠州屋は油断のならない人物に思えた。だが慶介の話を聞けば、遠州屋は自分の予想を遥かに上回る人間らしかった。遠州屋の、穏やかな笑い顔にあった眸の黒さが、今竹次郎には、淵より深い闇に続く筒穴のように思える。
「慶介兄さん・・」
暫らく沈黙していた竹次郎の、不意に思いつめたような声に、こちらも何事か考えている風情だった慶介が顔を上げた。
「さっきの話、遠州屋さんの家でやりたいと云ったらどうだろう」
「さっきの話?お前に岡惚れの娘と会うと云う、あの茶番の事か?」
聞き返す慶介に、竹次郎は膝の前に両手を付き、身を乗り出して頷く。
「つまらん事を考えるな」
「どうしてつまらない事なのです、中を探る事は出来なくても、不審な人が出入りするのに居合わせるとか・・。相手の懐に飛び込めば、もしかしたら何か掴めるかもしれない」
「それが、つまらん事だと云うのだ」
「だからどうしてなのですっ。確かに無駄な事かもしれない。でもやってみなければ分からない」
「では聞く」
体を起こして、竹次郎と向かい会った時、慶介の双眸には厳しさだけがあった。
「仮に、見合いの場を遠州屋にしたとする。そこでお前に一体何ができる?奉行との癒着を探る目的のお前の態度に、あの遠州屋が不審を抱かぬ筈が無い。遠州屋を甘く見るな。お前が下手な行動に出れば、勘解由兄上の邪魔になるだけだ」
お前を危険に晒す訳には行かないのだとは、慶介は云わない。云わずに、切ない胸のうちを辛辣な言葉に隠し、悔しそうに唇を噛む、白く端正な面差しを見詰めている。
「お前がそのような事をしても、勘解由兄上は少しも喜ばん。それにお前に何かあった時の、ここの爺様、婆様の気持ちを考えろ。八重叔母の時の哀しみは、もう二度とさせてやるな」
八重と、思いもかけず出た母の名に、竹次郎が顔を上げた時、慶介はもう蒲団に潜るところだった。だがその広い背を見た一瞬、竹次郎自身にも分からない、抉るような切なさが胸を突いた。
それは五年前、一度に両親を亡くした残酷な現実から庇うように、この背が砦となってくれた事を思い出したせいかもしれない。
あの時。何か冷たいものが、自分の瞳から零れ、頬を伝わり落ちるのも知らず、竹次郎は、慶介の腕を、指の先が白くなる程に強く掴んでいた。俺がいると、慶介は震える声で何度も繰り返した。そしてその都度、竹次郎を抱きしめる腕に力を込めた。
その感覚を思い起こすように、竹次郎は自分をいだくように、身体に腕を回してみた。だが慶介が包んでくれた時のような安堵とぬくもりは、どこにもなかった。
「・・慶介兄さん・・、眠ったのですか?」
躊躇いがちに掛けた声に、答えは戻らない。
その代わりのように、健やかな寝息が聞こえてきた。
それを耳にしながら、竹次郎は、不意に胸の深いところに忍び込んだ、この痛い程に切なく、それでいて温い感情を持て余し、振り向かない背を見詰めていた。
「私もついて行きますよ。どんな娘さんか知りませんが、男より女の方が、女子を見る目はありますからね。ねぇ、お久米や?」
茶を持ってきたお久米に視線をやると、ふみは、白木屋助左衛門の苦りきった顔など何処吹く風と云ったように、確固と云い切った。
祖母のふみは、自分の知らぬところで孫の見合い話が進んでしまった事に腹を立て、臍を曲げていた。
「だが見合いと云うような大それたものでは無いし、相手さんがどうしてもと云うので、では一回きりですよ、との約束だ。私とて、辰巳屋さんが下げて来る頭を、二度も断る訳には行かないだろう」
「いいえ、あなた。竹次郎はまだ十七ですよ、嫁を娶るなど早すぎます。辰巳屋さんも辰巳屋さんですよ。一体、何を考えているのか」
傍らの竹次郎の存在など無視して、ふみの怒りは収まらない。
「だがお前は今、どんな娘さんか見に、一緒について行くと云ったではないか」
「私がついて行くのは、もしや竹次郎を誘惑しようとしても、そうはさせない為ですよ」
「誘惑などと云う言葉を使うのは、おやめなさい」
苦々しげに顔を顰めた助左衛門だったが、ふみは負けない。
「あなたは女子と云うものを、ご存じないのです。それに若い娘が一目惚れの挙句、人を介してまで云い寄るなんて・・、ああ、はしたないっ。心根が知れて、身震いしますよ」
本当にそう思ったのだろう、ふみは大きく身震いした。
白木屋の女将として店を仕切るだけあり、ふみと云う女は万事にそつなく優れており、それでいてそんな素振りなど少しも表に出さない利口な女だと、自分の女房ながら、助左衛門は自慢に思ってきた。そしてそれは今も変わらない。が、こと竹次郎に関しては、孫可愛さに形振り構わなくなってしまう。そこら辺りの老女と変わらない。尤もそれは自分とて同じ事かもしれないが、今一歩も引かないとばかりにこちらを睨んでいる女房を見ると、助左衛門は深い溜息をつかざるを得ない。
――遠州屋から、くだんの見合いを明日にしたいと使いが来たのは、今朝方の事だった。用事があるのならば、日を変えると云う申し出に、竹次郎自身が明日で良いと応じた。が、見合いの場が遠州屋の持つ寮だと云う事が、竹次郎の心を逸らせたとまでは、祖父母は知らない。
「お婆さん・・」
「何だい?」
小く呼ぶ声に振り向いたふみの顔が、勇ましかった。
「お婆さんが一緒に行ったら、それこそ、本当のお見合いのようになってしまいます。先方だって堅く考えてしまう。だから明日は私一人で行きます。その方が、後からも断り易いし・・」
「いけませんよ。お前のような、まだ世間もろくに知らない者を惑わすなど、手練の女なら、赤子の手を捻るより簡単です」
「相手の娘さんは、私と同じ年だと聞きました」
「竹次郎・・」
亭主に向けていた体をくるりと孫に回すと、ふみは、これだからと云わんばかりに首を振った。
「女ってのはね、思い込んだら、そんじょそこらの男よりも、ずっと強いものなんだよ。そうなれば、お前など到底敵う相手じゃない」
だから案じても案じても、それが過ぎることは無いのだと、ふみは孫の手を取った。だが竹次郎にしても、今回ばかりは譲れない事情がある。
勘解由が難儀していると云う、普請奉行と遠州屋との癒着。それを探る絶好の機会が、思いもかけずあちらからやって来たのだ。遠州屋の寮に、その証があるとは思っていない。それでも竹次郎は、万が一に賭けてみたかった。
探るを目的にするのならば、当然、この身ひとつの方が動きやすい。だが祖母と云う壁は厚い。
――どうしよう。
思案の先が、小さな吐息になった。
が、その時だった。
脳裏に立ち込めた靄を払うように、突然浮かんだ顔に、竹次郎が驚いた。
「慶介兄さん・・・」
しかも唇は、その不思議を解き明かさぬまま、かの人の名を告ぐ。
何故ここで慶介の顔が浮かんだのか、名を紡いでしまったのか、竹次郎自身にも分からない。だが祖父母は、次の言葉を待って凝視している。
謎解きをしている間は無かった。
「慶介兄さんに、一緒に行って貰います」
慌てて繋げた声が、上ずった。
「あの・・、慶介兄さんならば、従兄弟だし、ついて来るにおかしなことも無いし、それに、ああ云う人柄だから、その場の堅苦しさも無くなると思う」
言い訳する言葉に、どこか変に思われるところは無いかと慎重になりながら、竹次郎の心の臓の音は、段々に高鳴る。
何故慶介なのか、どうして慶介だったのか・・・。
己のどこに問うても、答えは見つからない。
だが今竹次郎の伏せた瞳に映っているのは、危うい事をするなと叱った低い声と、掛けた声にいらえを寄こさず眠った、広い背だった。
結局、竹次郎に折れる形で、不満そうながらも、ふみは遠州屋への供を慶介に頼むことで承知した。では結城家に使いを出すと云う助左衛門を、竹次郎は、自ら頼みに行くと云って止めた。家に居るより神田の道場に居る方が多い人だから、自分の足で行った方が早いと云う孫の言い分を、助左衛門もふみも素直に受け入れた。
そしてやはり、慶介は留守だった。応対に出た美和は、多分道場だろうと、申し訳なさそうに顔を曇らせた。
番町の結城家から和田道場までは、そう遠い距離ではない。
明日の遠州屋の一件を早く知らせたいと焦る心が、竹次郎の足を急かせる。
やがて旗本屋敷が連なる静かな高台を抜けると、道は、次第に賑やかな市井の活気を見せ始める。その町のひとつ、神田猿楽町の一角に、目当てとする和田道場はあった。
だが道場に辿り着くまであと僅かと云うところで、突然、竹次郎の足が止まった。そのまま、目の前の小間物屋に飛び込むと、竹次郎は一度だけ、視線を後ろに向けた。
そこに、慶介と、それより少し下がって、何事か楽しげに語り、時には微笑みすら浮かべて付いて行く女性の姿がある。
慌てて又背を向けたが、心の臓は、耳を劈かんばかりに激しい音を立てている。
人の流れが邪魔をして、二人は竹次郎には気付かない。気付かずに、小間物屋の前を通り過ぎた。
その間、時に計れば如何ほどのものだったのか――。
しかし竹次郎は、鎮まるどころか、激しくなって行くばかりの胸の鼓動に狼狽しながら、向けた背を硬くし、息を詰めていた。
暫しの後、ようやく視線だけ振り返った時、二人の姿はもう見分けるに難しい程に、遠くなっていた。
女性の事は知っていた。和田道場のひとり娘で、名を花絵と云った。慶介に連れられ幾度か道場に足を運んだ折、竹次郎も言葉を交わした事がある。物静かで、芯のしっかりした人との印象だった。
道場まで、もうじきの距離。
偶然に会った二人が、連れ立って歩いていたと考えても、少しも不思議は無い。だが竹次郎の脳裏をよぎったのは、半年ほど前、道場の主で花絵の父である和田才蔵が、慶介を娘の婿に迎えたいと、結城家に打診して来たと云う経緯だった。
が、何故か慶介はこの話を断った。兄の勘解由も又、無理を強いる事はしなかった。そしてその時竹次郎は、美和を娶った勘解由への想いを断ち切る事で精一杯だった。
だが思い起こせば、慶介が頻繁に剣術の稽古をつけてくれるようになったのは、あの頃からだった。
もしや慶介は、勘解由への恋慕に破れ、悶々と明けぬ自分の心中を知っていて、全てを忘れさせてくれようとしていたのではと――。
ふと、そう思い兆した時、竹次郎は、道の真ん中に走りだしていた。
だが探す人の姿は、もうどこにも無い。
止まらぬ時の流れように、往来には、絶え間なく人が行き交う。
その賑やかな人混みの中に佇み、竹次郎は、慶介の消えた方角をぼんやりと見つめていた。
駆けるようにして来た道を、帰る足が重い。
いっそこのまま、辿り着く果てなど無ければ良いと思う。
慶介と花絵の中睦まじい姿は、それほどに、竹次郎に衝撃を与えていた。
そしてそれは同時に、あまりに近くにありすぎて気づかずにいた本当に大事なものを、気づいたその瞬間に失くしてしまった事をも、竹次郎に教えた。
もう二度と返って来ない、大切なもの。
――陽を弾いて笑う花絵の姿と、その花絵に、柔らかな眼差しを送る慶介の姿が、脳裏から離れない。
消そうとすればするほど、それはより鮮明な像となって蘇る。
思わず、竹次郎は強く目を瞑った。
その途端、何かが肩に当たり、よろめいた。
「気をつけやがれっ」
すれ違いざま、罵声が耳朶を打った。
のろのろと、道の端に寄りながら、丸めた手の中で、ちりんと鳴るものがあった。
小間物屋の主人に、長居を咎めるように胡乱な視線で見られ、つい買い求めてしまった小さな鈴だった。
今一度、鈴を指で弾いてみると、今度は音もさせず、手の平の上を転がっただけだった。
「甘えてばかりいたから、ばちが当たったんだ・・」
それが、慶介の存在が如何に大きかったか、今の今まで気づかずにいた愚かな自分への、天が寄越した戒めのように思えた。
木場の遠州屋に一度出向き、そこから駕籠で連れて来られた寮は、浅草観音の北側、大川寄りにあった。
流石材木を商うだけあり、建物は豪壮なものだった。が、竹次郎が目を瞠ったのは、下手な大名屋敷など顔負けの広大な庭と、そこに植えられた草木の多さだった。しかもそれらは良く手入れがなされ、遠州屋がこの寮にかけている金の膨大さ物語っている。
だが開け放たれた障子の向こうに広がる庭を眺めている竹次郎は、もうずいぶんと、一人にされたままだった。
ここに着いた時、遠州屋は駕籠のすぐ傍まで来て迎えてくれた。そして茶を運んできたのも、遠州屋自身だった。爾来、人の気配と云うものが、全く感じられない。それを訝しいと疑いながら、しかし竹次郎が動かないのは、ひとえに、どのような些細な事でも良いから、勘解由の力になりたいとの思いに他ならない。が、そう思えば思うほど、心に重く圧し掛かるのは、自分の浅慮を叱った慶介の案じ顔だった。
「ごめん・・」
ぽつりと漏れた呟きが、消え入るように小さい。
敷いた座布団の際まで伸びて来た秋の陽が、竹次郎には、帰って来いと呼ぶ慶介の手のように思えた。
暫し庭を眺めていた竹次郎だったが、あれから誰もこの部屋を覗かず、流石に腰を浮かしかけた、と、その時だった。
不意にやって来る人の気配に、視線が廊下に向けられた。
「お待たせをしてしまい、本当に申し訳ありません」
遠州屋吉平衛は、敷居を跨ぐなり、心底申し訳無さそうに頭を下げた。
「相手の娘なのですが、実は昨夜から熱を出しまして・・。始めは朝には引くだろうと、親も簡単に思っていたそうなのです。しかし熱は引くどころか、明け方から段々に高くなり、一度は、白木屋さんに断りの使いを出しかけたそうです。ところがその娘が、今日の機会を逃したら、きっと竹次郎さんはもう会ってはくれない、熱など平気だから行くと泣いて聞かず、それではと、ぎりぎりまで待ってみたらしいのです」
「具合が悪いのならば、そんなにしなくても良いのに」
「そこが、惚れてしまえば何も見えない、恋心と云うものでございますよ」
不思議そうにしている竹次郎に、遠州屋は相好を崩した。
「ですが私は、竹次郎さんに無駄足をさせてしまった事が、何とも申し訳無いのです」
「その事は、どうかお気になさらないで下さい。この庭を見せて頂いただけで十分です」
恐縮する相手を前に、上手い世辞ひとつ返せない己の不器用さが、竹次郎を慌てさせた。
「そう云って頂ければ、私も気が楽になります。ああ、そうだ、お詫びと云っては何ですが、少し庭をご案内しましょう。この庭には異国の珍しい花や、薬にするような草も植えてあります。この・・」
そう云って、遠州屋は竹次郎の前にある湯呑みを手で示した。
「茶ですが、普通のものと、微かに香りが違ったのが分かりましたか?」
「いえ・・」
五感は鋭敏な方だと、竹次郎は思っている。だから云われた事に、少々の衝撃があった。
「実はこれも、元は異国のものを植えたのです。尤も、分からなくて当然。日本の茶と、ほとんど違いはありませんからね」
「栽培もなさるのですか?」
驚きに目を瞠る竹次郎に、遠州屋は笑って頷いた。
「竹次郎さんの興が動いて下されば、嬉しい事です。さぁ、大したものはありませんが、庭をご案内いたしましょう」
逸った声で、急きたてるようにして竹次郎を促す遠州屋の顔には、先程よりも深い笑みがあった。
「木場の遠州屋さんの店は、陽の差し込む隙も無い程きっちり雨戸が閉められ、どんなに大きな声で呼んでも、何の返事もありません。むろん、中に人のいる気配もありませんでした」
白木屋の番頭弥助の顔は、夕間暮れの薄闇の中でも、蒼白なのが見て取れる。
「そんな莫迦な事があるわけありませんよっ。遠州屋さんは、確かに迎えの駕籠を寄越したのですよっ」
その弥助に、ともすれば崩れ落ちそうになる体を久米に支えられ詰め寄るふみの声は、早悲鳴に近い。
「およしなさい、まだ竹次郎が行方知れずと決まった訳じゃ無いんだ」
取り乱す妻を嗜めた助左衛門だったが、そう云いつつも、こちらも顔は硬く、焦燥は隠せない。そしてその傍らには、先程から、峻厳な面持ちで弥助の話をじっと聞き入っている慶介がいた。
「弥助、それで遠州屋さんはどうしてしまったのか、近所の人達にも分からないのかい?あれだけの大店が、たった一夜で人っ子一人いなくなるなど考えられない」
「旦那様・・」
弥助の顔に、沈痛な色が浮かんだ。
「遠州屋さんのある界隈は、今その噂でいっぱいです。昨日まであれ程活気があった店が、たった一夜で、化け物屋敷のように静まり返ってしまったと。みな、何が何だか分からず、まるで狐につままれたようだと云っています・・」
言葉を途切らせると、弥助は、いたたまれないように目を伏せた。
慶介がやって来た時、白木屋の中は、異様な緊張に包まれていた。その瞬間、胸を鋭くよぎった不吉な予感に、慶介は奥へ進む足を早めた。
果たして、待ち受けていたのは、慶介の姿を見るなり、竹次郎はと駆け寄って来たふみと、堅く口を結んだ助左衛門の厳しい顔だった。
やがて沈痛な面持ちで、口を開いた助左衛門によれば――。
竹次郎は、慶介とは、道場の稽古の都合で、直接遠州屋で会う事になったと二人に告げていた。
そして今日、遠州屋は昼前に迎えの駕籠を寄越した。その時一緒に来た使いの者の話では、八ツ(午後二時)頃にはお帰し出来るとの事だった。それが、七ツ(四時)の鐘を聞いても戻らず、帰りが遅いと案じたふみが、まず落ち着きを無くした。始め助左衛門は、そんな妻を嗜めていたが、陽に勢いが無くなり、風に寥々とした寂しさが忍び込んで来ると、流石に眉根を寄せるようになった。そして遂に、番頭の弥助を木場の遠州屋まで走らせたのだった。が、そこで弥助は信じられないものを見、聞いた。
それを語ったのが、今の話だった。
「弥助さん、竹次郎は遠州屋の寮で見合いをするのだと云っていたが、それじゃ、その寮の事も分からずじまいかえ?」
静かな調子で問いながら、慶介は、竹次郎を一人で遠州屋に行かせてしまった己の失態に打ちのめされていた。
そして何よりも、竹次郎が祖父母に嘘をつき、自分を避けた事に衝撃を受けていた。
「寮は、深川にありました。ですがそこもきっちりと閉じられ、店同様、人の気配はありませんでした」
弥助は、木場の遠州屋の近所で寮の在り処を聞き、その足で深川にまで回って来たのだろう。そう云う機転の速さ、仕事の確かさが、白木屋夫妻の、弥助を信頼する所以だった。
「あなた、自身番に届けを出しましょうっ」
ふみの声に頷いた助左衛門だったが、その視線が上を向いた。慶介が立ち上がったのだった。
「慶介さん・・」
「一度、家に戻ります。が、竹次郎は必ず見つけ出します。弥助さん、馬の用意をしてくれないか」
助左衛門には毅然と云い放ち、そして弥助に命じた時には、既に慶介は、座敷を出て行こうとしていた。
重く軋む音を立て戸が引かれると、辺りを敷き染めた宵色の中に、淵のような深い闇が、ぽっかりと口をあけた。
庭を案内して貰っている内に、天道が傾いたと思った途端、それは呆気無く姿を隠してしまった。
そうすれば、流石に過ぎた時の長さに、気も急き始める。その竹次郎を、あとひとつ、どうしても見せたい自慢の代物があるのだと、遠州屋は袖を引いて止めた。そして連れて来られたのが、この土蔵だった。
「どうぞ、お入り下さい」
先に足を踏み入れた遠州屋が振り向き、竹次郎を促した。そうしておいて、自分は石を叩いて火を熾し、それを柱の架け蝋燭に移した。
やがて仄かな明かりの輪が、中の様子を浮かび上がらせると、入口近くに立ち竦んでいた竹次郎の眸が、奥の一点に釘付けられた。
それは、小さな囲いの中に、盆栽のように植えられた八重桜だった。
しかもこの季節、競うかのように、花をつけている。
「狂い花、返り花、忘れ花・・、など、人は勝手を云いますが、美しいものでございましょう?」
遠州屋の陶酔したような声が、背後から聞こえて来た。
確かに、桜の姿は美しい。
だが大地に深く根を張り、太い幹から四方に枝を伸ばし、束の間、薄紅一色に世界を染めてしまう、豪奢だからこそ、そこに儚さを秘める桜を知る竹次郎には、囲いの中で綺麗に手入れされたこの桜は異端にしか映らない。
成長する事を、無理やり止められてしまった枝は細い。
だがそこに咲いた花は、その枝を折ってしまいそうに乱れ咲く。
――枝を喰って、艶やかに綻ぶ花。
竹次郎の背に、ひやりと冷たさが走った。
「丹精に、丹精を重ねたお陰か、こうして年に幾度か花を咲かせ、私を楽しませてくれます」
そんな竹次郎の様子など目に入らぬのか、遠州屋はゆったりと語りかける。
が、その声の鷹揚さとは裏腹に、遠州屋は素早く後ろへ回り込むと、引き戸を閉めた。
「遠州屋さんっ」
「ずっと・・、ずっと待っていたのですよ、この八重様を見ながら、竹次郎さん、貴方の事を。親戚筋の娘が、貴方に惚れたなどと、つまらん茶番劇まで仕立ててね」
背を戸に預け、己の体で逃げ口を塞ぐようにし、遠州屋は、硬く顔を強張らせた竹次郎に笑いかけた。
――その瞬間だった。
前に踏み出そうとした竹次郎の足が、突然、空を踏むかのように力を無くし、がくりと膝が折れ、その勢いのまま、体が床に倒れこんだ。
「なに・・を・・」
たったそれだけを声にするのに、恐ろしく力が要った。舌は痺れ、伏したままの体は、指一本動かす事が出来ない。ようよう瞳を上げた時、視線の先にある影が不意に大きく膨らんだ。それが近づいて来る遠州屋なのだと知るや、竹次郎は悔しさに唇を噛み、迫りくる相手を睨み付けた。が、遠州屋は、その抗いすら楽しそうに目を細めると、傍らに膝をついた。
「効きくまでの時は、計った通りでしたな。先程の茶、あの中に少々仕掛けをしました。堪忍して下さいよ」
穏やかな口調で語りかけながら、竹次郎の頤にかけた指が、滑るように頬の線を撫でた。その刹那、膚が嫌悪で泡立つ。だが体は重石で押さえつけられているように、どんなに力を入れようとしても動かない。
「茶に仕込んだ薬は、南蛮渡来のものでしてね。体の自由はことごとく奪いますが、その代わりに、閨での感覚は痛い程に研ぎ澄まされて行くと云う代物です。ただ阿片にも似て、多すぎれば人間を壊してしまうので、茶に入れる量には神経を使いました」
耳朶に触れるように囁きながら、遠州屋の指が袷から忍びこむと、竹次郎の瞳が、戦慄の色を湛えて見開かれた。
「今はそうして私を睨みつけている貴方だが、すぐに、私の声、触れる指、弄ぶ手が、その体に蜜のような快楽を覚えさせてくれますよ」
指のざらつきが、鎖骨の窪みを行き来するたび、着物が肌蹴け、ひんやりとした蔵の冷気に膚が晒される。だがその手から逃れんと、必死に身を捩っても、体は少しも云う事をきかない。そんな様子を楽しむかのように、遠州屋は、白い胸に浮き出た紅い突起の片方へ指を滑らせた。その寸座、竹次郎の身がびくりと跳ねる仕草を見せたが、それは大した動きにはならず、呻きにも似た小さな声が漏れたに過ぎなかった。
「人に、膚を触れられるのは初めてのようですな。ならば私も嬉しい。昔、お母上の八重様が、今の貴方と同じように、快楽に呑まれまいと必死に唇を噛み締めておられた、そのお姿を思い出します。だがその時の私は、闇の中で息を潜め、お奉行様に抱かれる八重様を見ている他無かった」
弄ぶ指は止まらない。
「・・なぜ・・はは・・を・・」
顔を背け、何とか出した声だが、それとて、途切れ途切れの喘ぎに変わる。
「お知りになりたいのですか?・・では、お聞かせしましょう。そう、愚かな男の、昔語りを・・」
突起に触れていた指が、不意に、その周りにゆるく円を描き始めたと思うや、今度は押し潰すように掌が擦り付けられた。
瞬間、竹次郎の眉が切なげに寄り、荒い息が肩を揺らした。
――それは、嘗て経験した事の無い、嵐のような激しい感覚だった。
これが快楽と云うのなら、既に悦びを通り越し、苦痛でしかない。しかも猛り狂うように籠った熱は、体の一箇所に集まり、執拗に渦を巻きながら竹次郎を攻め立てる。そこから、今にも熱い何かが迸り出そうな感覚に、竹次郎は歯を喰いしばり堪える。そんな竹次郎を、遠州屋は暫し冷ややかに見下ろしていたが、やがて荒々しく着物の裾を割り膝を立てさせると、その内側を、さわりと撫でた。その刹那、悲鳴にも似た声が、竹次郎の唇から突いて出た。しかし遠州屋は無言のまま、膝の裏側に当てた手を、今度はゆっくりと押し上げた。
「はな・・せっ・・」
下帯の中で、焦らされ尽くした欲情が遠州屋の目に晒されると、竹次郎は必死に身を捩りそれを隠そうともがく。
「母上様は、そのような駄々を、捏ねられはしませんでしたよ」
その抗いを静かな声で嗜めると、遠州屋は、持ち上げていた足を横に倒し、左右に下肢を割った。
「お父上の政之助様が、あのような形で亡くなられた日の晩、田坂の御家の存続を許すと云う条件で、八重様は一夜、普請奉行の内藤弾正様に抱かれる事を承諾された。その時、お奉行様の命で、私が八重様を説得したのです。話を終えると八重様は、青く硬いお顔で、一度だけ頷かれました。そうして、この屋敷で、お奉行様に抱かれたのです」
背けていた顔を上げ、呆然と見開いた眸に向け、遠州屋は頷いた。
「美しい方だとのお噂は、かねて存じ上げておりました。ですがあの夜、私の話を聞かれていた八重様の毅然としたお姿は、何ものをも寄せ付けない、犯し難い美しさでした。確かに、この方をを掌中にせんが為に、お奉行様が、政之助様を罠に嵌め腹を切らせただけの事はあると、感じ入ったものです。ですが誤算と云うものも、世の中にはたんとありましてね。私も、貴方の母上様に惚れて・・、いえ、あの瞳に見詰められた時から、邪恋の淵に溺れてしまったのですよ」
己の言葉の余韻に酔い浸るように、遠州屋は、竹次郎の中心に頬を寄せた。その途端、細く白い喉が、ひくりと上下した。
自由が利かないのは体だけでは無く、いつの間にか、舌を動かすことも、声を出すことも辛くなって来ていた。だがその代わりのように、欲情に繋がる感覚だけは、残酷に研ぎ澄まされて行く。
「しかし八重様は、あの後すぐに胸を突き、自害されてしまわれた。私に向かい頷いたその時、あの方は、既に我が身の行く末を決められておられたのです。お家を潰さぬ事で、母として貴方を守り、政之助様の妻として、操を全うする道を。・・・そしてあれから五年。私はずっと、八重様の忘れ形見である貴方の事を見守って来ました。本当に、貴方は一年ごとに、八重様に似て来られた」
下帯に伸びた指が、ゆっくりと紐を解いて行く。やがて露になった少年を、遠州屋は己の手の中に、愛しげに包み込んだ。
その刺激が快楽なのか、苦痛なのか、竹次郎にはもう分からない。ただ見開かれた瞳から、大きな滴が零れ落ちた。
「ああ、どこもかしこも、貴方は綺麗だ。八重様は、こんなにも、私を求めて下さっている」
この男は狂っている。
自分と母とを倒錯している。
そう分かっても、火玉のようになってしまった体には、何の役にも立たない。
過ぎた快楽は、ひたすら熱の開放を求め、竹次郎を苦しめる。
屈辱を快感が凌駕し、そんな己への嫌悪が又屈辱を呼ぶ。だがそれもすぐに悦楽の波に呑まれる。その繰り返しだった。
意識は次第に朦朧と霞み、いっそ何も分からなくなるまで狂わせて欲しいと、もうひとりの自分が焦れる。だがその暴走を、絹糸よりも細い糸で繋ぎとめているのは、硬く閉じた瞼に映るひとりの人の姿だった。
慶介兄さんっ――。
叫んでも、届くはずの無い事は知っている。だがその人の腕に縋りたかった。
そう願った瞬間だった。竹次郎を包み込んでいた指が、硬いその裏を、撫でるようにすり上げた。
「あっ」
悲鳴ともつかぬ声が、からからに渇いた喉を劈き、その刹那、動かぬ体が、四肢の先まで突っ張り、やがて小さな痙攣の後、力尽きるように沈んだ。
荒い息を繰り返すたび、薄い胸が上下する。
それに呼応して、張りを持った乳の尖りが、汗と残滓に光る平坦な腹が、艶かしい生き物のように、蝋燭の灯に照らし出される。
「なかなか、気持ちの良いものでございましょう?」
柔らかな声が、遠くで聞こえた。
自分の体が欲望を吐き出したのは分かった。だが思考はそこまでだった。闇に引き摺られるように、竹次郎は薄く開けていた瞼を閉じた。
しかし声は、その意識の逸脱を許さない。
「ずっと、夢でございましたよ、八重様。貴方様を抱く事が・・。その間、あの桜を八重様と思い、大事に大事に育て、この日を待ちました」
愛しげに語りかけながら、遠州屋は、竹次郎に絡ませていた指を後方へと滑らせた。その指の後を、放たれた精が這うように追う。そうして、指は菊座の窄まりで止まると、それまでの丹念な動きが嘘のような荒々しさで、奥を突き刺した。
甘美な時から一転、抉られるような痛みに、竹次郎の面輪が苦悶の色に染まった。だが深々と差し入れられた指は、竹次郎の内で、節を曲げたり、絡みつく肉を擦ったりを繰り返す。その都度、乱れ髪を張り付けた喉が、尖りを鋭くした二つの突起を乗せた胸が、痛みから逃れんと反り返ろうとする。
「息を吐いて、力を抜くのですよ。私を受け入れて、共にあの世に渡るのです」
薄れ行く意識の中、耳に素通りしていた言葉のひとつが、竹次郎を現に繋ぎとめた。
「そう、一緒に、冥土に渡るのですよ・・・」
苦痛に汗を滴らせながら、ようよう開いた眸に、翳りを帯びた遠州屋の顔が映った。
「・・私は、商いに失敗したのです。今年の始めに、大川に架ける橋の普請を請け負いましてね。それは遠州屋の命運を賭けた、云わば一世一代の大勝負でした。無論、自信はありました。でなければ、誰が手を出しますか?」
淡々と語る男の頬に、自嘲と云うには足らない、皮肉な笑みが浮かんだ。
「ところが、世の中と云うものは本当に分からない。この遠州屋の足元を攫ったのは、何と、一寸にも満たない虫でした。紀州から運んで来る材木の一本に、虫が付いていたのですよ。それが江戸に着くまでに、船の中で材木全てを喰い荒らし、橋の着工に間に合わなくなってしまった」
低く、くぐもった笑いが、もう若くはない横顔を揺らした。
「それを知った途端、普請奉行の内藤様は、手の平を返したように、その普請を三笠屋に変えられてしまわれた。この屋敷も元々は、内藤様が、大奥御年寄の藤木様との密会に使う為に私に造らせたものですが、最早要らんと一言。全く、金の切れ目が縁の切れ目とは、良く云ったもの。まぁ、私も人に恨まれながら、ここまでのし上がって来た男です。この世に未練はありません。ですが、無様な堕ち方はだけは、真っ平です」
そう云い切った時、遠州屋の双眸には、再び鋭い光が戻っていた。
この男は、まだ狂気と正気の狭間を彷徨っているのだと、微かに残っている思考の切れ端が、竹次郎に教える。だが内にうごめく指に少しずつ慣らされ、むしろその指に翻弄される今、そんな事はどうでも良い事だった。竹次郎の体は、いつの間にか、与えられる快楽を追うのに必死になっていた。
「無論、お奉行様とて、地獄への道連れにさせて頂きますよ。お奉行様と私を探っておられた、貴方のお従兄弟、結城勘解由様とその御舎弟の慶介様が、いずれ貴方を探し、この屋敷を見つけ出すでしょう。そして同時にお二人は、屋敷の中に隠した、普請事業に関わる不正の証をも、見つける事になる。その時が、内藤様の終と云う事です」
喉の奥を鳴らして笑いながら、竹次郎を見下ろす遠州屋の目は、常人のそれだった。
が、次に細められた時、そこに宿る鈍い光は、もう完全に狂人のそれだった。
「さぁ、八重様、・・どうか、私を受け入れて下さい」
今一度、硬く兆してきた昂ぶりを掌中にされ、ゆっくりと覆いかぶさってくる影に抗う術無く、竹次郎は、声にならぬ声で慶介の名を叫び続けた。
「兄上っ」
事の経緯を聞き終えても、堅く目を閉じ身じろぎしない勘解由に向かい、鋭い声が飛んだ。それは慶介の苛立ちと、焦燥そのもののように、烈しいものだった。が、勘解由は答えない。答えず、無言のままでいる。
暫しそうして重い沈黙にいたが、突然、閉じていた目を開けると、慶介を捉えた。
「浅草観音の裏手に、萩尾と云う旗本の別宅がある」
突然何を云いだしたのか、言葉の意図するところを判じかね、慶介が兄を凝視した。
「別宅と云っても、小さな大名屋敷など及ばぬ程の、大層な屋敷だ。しかし当の萩尾家は、そのような屋敷を持てる程、内証の良い家では無い。それどころか、せいぜい家の体面を保つのに精一杯だろう」
「兄上っ、今は他人の家の事情など話題にしている時ではありません。こうしている間にも竹次郎は・・」
「落ち着けっ。私達が方向を見失えば、竹次郎の身が危ういっ」
厳乎とした一喝に、慶介の面が引き締まった。それを見据えて、再び勘解由が口を開いた。
「その萩尾家の別邸に、頻繁に出入りしているのが、普請奉行の内藤弾正だ。内藤家と萩尾家は親戚筋に当たる。出入りを見られて何の不思議も無い。だが実のところ内藤は、大奥御年寄の藤木様との密会にそこを使っている。その事は、つい先ごろ得た情報だ」
告げられた事実の先あるものを読み取ろうと、慶介の双眸は瞬きもせず、兄を見据える。その弟に頷くだけで答えると、勘解由は急いだ口調で語りを続けた。
「しかもその屋敷の敷地は遠州屋のものであり、萩尾家は遠州屋から借り受けた形になっている」
「もしや、そこに竹次郎がっ・・?」
弟の性急な問いに、多分と、勘解由は唸るように呟いた。
「遠州屋は、今年の始めに、大川に架ける橋の普請を請け負った。が、それが十日ほど前、突然三笠屋に変更された。その理由を急ぎ調べた結果、船で運んでいた遠州屋の材木が、ことごとく害虫で駄目になったせいだと分かった。普請は二年の歳月を要する一大事業だ。遠州屋が店を閉じたのは、この失態により、己の商いが最早これまでと判断したからだろう。だが遠州屋は、自分を庇うどころか、手の平を返したように見切りをつけた内藤弾正への報復に必ず出る筈だ。きゃつは、そう云う男だ」
「それならば何故、遠州屋は竹次郎を攫ったのです。竹次郎には、何の関係も無い筈です」
「そこまでは分からんっ」
声にある苛立ちは、慶介が始めて目にする、焦燥に我を忘れた兄の姿だった。
「萩尾の別邸へ行くぞっ」
その焦りのまま、勘解由が違い棚の刀に手をかけた。
しかしその時既に廊下に踏み出した影があった。
兄の前を行く背は、慶介のものだった。
ついさっきまで、あざとい程に夜に潜む町を照らし出していた月が、風に流されて来た、筋のような雲に遮られ、不意に足元が闇に沈んだ。
昼のうちは、善男善女で賑わう浅草観音の裏手は、小さな寺院が立ち並び、あとは田圃と、古い裏店が幾つか点在するだけの寂しい場所だった。それだからこそ、夜目にも白い塀が延々と続く屋敷は、この辺りの風景の中で、ひどく異質なものに思える。手前の雑木林に乗ってきた馬を繋ぐと、勘解由と慶介は音を殺すようにして屋敷に近づいた。
しんと静まり返った内部からは、物音ひとつ聞こえてこない。
尤もこれだけ広大な敷地ならば、余程大きな音でも出さない限り、外まで響くことはまず無かろう。が、その広さこそが、二人の前に立ちはだかる、ひとつ目の難題だった。
「塀を、乗り越えるぞ」
「私一人で行きます。兄上はここで・・」
「莫迦を云うな」
待っていて欲しいと云う弟の言葉を、勘解由は鋭く遮った。
「しかし事情はどうであれ、この屋敷は萩尾家のもの。主の承諾なしで踏み入ったとなれば、兄上の立場が危うくなります」
「ならば、弟のお前なら良いのか?」
それまで厳しさを崩さなかった端整な顔が、再び射した月華を浴び笑った。
「私は白木屋の居候です。結城家とは、何ら関係がありません」
その兄につられるように笑った顔は、潔い程に衒いが無い。
「竹次郎の、婿になるか?」
「そのつもりです」
「白木屋の弁天様は手ごわいぞ。しかも幸せにせなんだら、白木屋も俺も、黙ってはいない。婿の座も、中々に厳しいぞ」
「覚悟は、できております」
「せいぜい、頑張る事だな」
呆れもせず、叱りもせず、勘解由は愉快そうな笑みを浮かべると、再び塀を見上げた。
「先に行く、肩を貸せ」
「兄上っ、ですからこの屋敷はっ・・」
伸ばした手を塀に掛けた勘解由を、慶介が止めた。
「腹ひとつで済む事だ。今は竹次郎が大事。四の五の云わずにさっさと肩を貸せいっ」
厳しい声が飛んだ時、勘解由の手は、塀の向こうに草履を投げ入れていた。
月明かりだけを頼りに進んでいた二人の足が、不意に止まった。
松の大木の陰から、漸く建物の一部が垣間見えたのだった。だが秋も終わりのこの時期、そこは雨戸の一枚も閉めておらず、外からの侵入者に対し、あまりに無防備に中を晒している。無論、人の気配は何処にも無い。その様が、吹く風の孕む冷たさと相俟って、酷く裏さびれた相を呈していた。
「兄上は屋敷の中を。私は外を探します。手向かう者あらば、斬ります。ご承知おき下さい」
毅然と云い放ちながら、慶介は襷で袖を括っている。
「手荒い真似は致すな、捕えれば証人になる」
弟に釘を刺しながら、勘解由も素早く羽織を脱ぎ捨てると、懐から出した襷を口に食んだ。
月が、天中高く遠のいたのか、闇が深くなった。
建物を兄に任せたのは、敵が中に潜んでいる場合、屋内ならば、柱や天井、建具が邪魔をし、一斉に掛かってくる事は出来ないと読んでの事だった。だが竹次郎はあの中には居ない。居れば例えどのように僅かな気配でも、自分はそれを察す事ができる。それは勘では無く、慶介の、揺るぎない信念だった。
手がかりを探りながら進む先には、百歳の樹齢を数えるような大木や、今は枯れた蔦だけが絡まる藤棚がある。その下を用心深く過ぎ行くと、それまで、天蓋のように重なり合う枝に遮られていた月明かりが、薄く足元を照らした。
と、その時だった。
闇に、白いものが朧に浮き上がった。
細めた眸が、それを土蔵の漆喰だと判じた刹那、心の臓が、どくりと鳴った。
一瞬、衝動のまま踏み出しそうになった足を、しかし慶介は、寸でのところで踏ん張り止めた。
息を詰め、五感を一点に集め、静かに刀の鯉口を切る。
――竹次郎は、あそこにいる。
その思いが、慶介の神経を、餓えた獣のように鋭敏にさせる。
待っていろと、そう叫ぶ声を喉で止め、土蔵ににじり寄る足に力が籠もった。
「八重様・・。貴方は、温かい・・」
己の全てを受け止めさせ、ぐったりと弛緩した竹次郎の体を、遠州屋は静かに抱きしめた。
「貴方だけだ・・、貴方だけが、私を温かく包んでくれる」
晒された膚を、冷気から守るように、剥いだ着物で体をくるんでやると、細い首が、がくりと後ろに垂れた。
それすらいとおしげに、遠州屋は暫し竹次郎の頤の縁に触れていたが、何かに気づいたように、つと視線を流した。
そこに、白い下肢の内側を、鮮やかな紅の色が伝っている。それは苦痛と快楽の狭間で翻弄され続け、やがて果てた竹次郎に残された、無残な傷痕だった。
「こんなにも、貴方を傷つけてしまいました。堪忍して下さい」
その紅い筋を震える指でなぞると、遠州屋は、深い眠りにある竹次郎の頬に己のそれを寄せた。
暫し。
狂気にいる男は、愛しい者を腕に抱き、そうして夢うつつをたゆとうていたが、不意に鳥が羽ばたくように、瞑っていた目を開けた。
――慶介の気の険しさが、獲物を追い詰める獣のそれならば、遠州屋の勘の鋭さは、崖っぷちに追い詰められた獣が、敵に牙剥くそれだった。
終焉を手繰り寄せ始めた男は、己の安寧を破る者が現れた事を、敏感に、そして正確に悟った。
「八重様、邪魔者が来たようです。そろそろ私たちも参りましょう。貴方さまと手を取り渡る浄土・・・。最早この世に、思い残すものなどございません」
いらえを返さぬ唇に指を触れ、ひとしきりなぞると、遠州屋はもう片方の手を、近くに置いてあった、ぎやまんの杯に伸ばした。
「これは遠い昔から、この国の帝が代わるたび、密かに使われたと云う毒薬です。苦しいのはほんの一時です、どうか辛抱をして下さい」
杯の中の琥珀の液体をちらりと見、すぐに竹次郎に戻した顔が、痛ましげに歪んだ。
「私も、すぐに参ります・・・」
遠州屋は己が口に液体を含むと、竹次郎の唇を割り、それを注ぎ込んだ。しかし意識の無い唇は抗うように、外に液を零し嚥下する事を拒む。それでも幾度かの後、白い喉が微かに上下したのを見届けると、遠州屋は、杯に残っていた液体を一気に飲み干した。
そうして、暫く腕に抱いている愛しい者を見詰めていたが、不意に、その穏やかな表情が一変した。そのまま、宙を睨むように目が剥かれ、間を置かずして大きく痙攣した体が、竹次郎を抱いたまま床に突っ伏した。
人の気配は、確かにある。
だが蔵は中から閉じられ、引き戸はびくともしない。他に出入り出来るところと云えば、高い位置にある明り取りの窓がひとつ。その窓を見上げた時だった。壁につけていた慶介の耳が、微かな音を捉えた。音は、一度きりだった。その後は再び、いやそれまでよりも、遥かに深い静謐が戻った。しかしその瞬間、慶介の頭の天辺から爪先までを、稲妻のような緊張が貫き、膚が粟立った。
――気配が、消えたのだ。
「竹次郎っ」
迸る声が、応えろと、悲愴な願いを込めた叫びに変わった。
「竹次郎っ、竹次郎っ」
何とか戸に隙を作れないかと、慶介は刀の鞘尻で、力の限り突き始めた。蟻の入る程の僅かな隙で良かった。隙さえできれば、そこから竹次郎の姿を目に映すことができる。その想いだけが、慶介を我武者羅にさせていた。
初め、戸はびくともしなかった。
が、その振動は確実に中に伝わる。
執念は、塊となり、天をも動かす。
やがて、掛けられていた木の錠が、少しずつ、横にずれて行く音がし始めた。
それを耳にすると、慶介は、今度は己の体を戸に打ち付けた。
体当たりの、その幾度目かに、錠は、かたんと音を立て床に転がり落ちた。
「竹次郎っ」
しかし額に浮かんだ汗が目に入るのも厭わず飛び込んだそこで、慶介の声は喉に張り付いた。
体を二つ折りにし、微動だにせず床に伏す男。
そしてその男がしかと腕に抱いている、華奢な体。
「竹次郎っっ」
獣の咆哮にも似た壮絶な叫びが、闇のしじまを劈いた。
駆け寄り、男を押し退け、剥き出しになった竹次郎の左の胸に耳を付けると、慶介は息を詰め、命脈の在り処を探る。そして微かなその兆しを見つけるや、全身の力が抜けたように竹次郎に覆いかぶさった。
「・・・竹次郎」
閉じた瞼から滲み出た熱いものが、抱きかかえる白い膚に落ちたのを、慶介は知らなかった。
目安箱に入れられていた書状から、旗本萩尾家の別邸に町奉行所の手が入ったのは、勘解由と慶介により、竹次郎が助け出された翌日。まだ鶏鳴も聞かぬ暁更の事だった。
書状には、普請奉行内藤弾正と、今は亡き遠州屋吉平衛との癒着、それに付随する、金にすれば膨大な額の不正、又弾正と、大奥御年寄藤木との密会の事実が、事細かく記されていた。
更に図面に描かれた、庭の八重桜の木の根元に埋められていた箱からは、それを裏付ける数々の証拠の品が押収された。しかもその中には、五年前切腹に追い込まれた結城政之助の罪は事実無根であり、全ては、その妻八重への、弾正の色欲がさせた姦計だったと、これだけは、田坂竹次郎様と相手を決めて封印されていた。
沙汰により、その日の内に弾正は切腹。内藤家は取り潰しとなった
霜月から、師走へ。
月が変わっただけで、世間はずいぶん忙しさを増す。
が、そこには、無事に一年を終え、新しい年を迎えようとする、人々の高揚と活気がある。
そんな賑わいを他所に竹次郎は、、茜色に染まりつつある日の中で、縁に腰掛けている己の影が、先に先に伸び行くのを、ぼんやりと見詰めていた。
どの位、そうした虚無の時が流れたか・・・
「竹次郎っ」
不意に呼ばれて振り向くと、視界の端を影が掠めた。
寸座、構えた手のひらに、ずしりと沈んだものがあった。
驚いて見てみれば、放り投げられたものは艶の良い密柑だった。
「道場の神棚に供える用だったのが、買いすぎたらしい。それで貰ってきた。ご利益があるぞ」
慌てて上げた眸の中で、慶介が笑いながら指さした。
「慶介兄さんの分は?」
傍らに腰を下ろした慶介に問う声は小さく、驚きの名残りが、まだ後を引いていた。
「俺はいらん」
それに、少々渋い顔を見せたのは、慶介には幼い頃ひどく酸っぱい密柑に当たり、爾来、密柑は食べないと云う経緯があるからだった。
その事を思い出した竹次郎が、可笑しげに笑いだした。
「何だ?」
「何でもない」
答えた顔には笑みが湛えられていたが、青味の増した肌の色と削げた頬が痛々しい。
その竹次郎からさり気なく視線を逸らすと、慶介は中庭に目を遣った。
――遠州屋に飲まされた毒は、量によっては、一瞬で人の命を絶つ程に強いものだった。
が、幸いな事に気を失っていた竹次郎は、そのほとんどを唇から溢れさせていた。
だが多少とは云え、嚥下した事に変わりはなく、助け出されてからも高熱が続き、意識が戻らなかった。それでも人々の願いが通じたか、三日目の朝、ようやくうっすらと瞼が開いた。
しかし回復を見せ始めた体とは相反し、遠州屋から受けた心の傷は、時が経つ程に生々しく抉られて行くようで、時折ふと浮かべる翳りが、その苦悶の深さを物語っていた。
そしてそんな竹次郎を守るかのように、あれから慶介は白木屋に居続けている。
「大晦日の荒稽古、今年は出られそうもないな・・」
手の平の蜜柑を見つめながら、ぽつりと漏れた声が寂しげだった。
床についていたのは十日余りだったが、今回の一件は、竹次郎を心身共に衰弱させていた。
「今年が駄目なら、又来年出ればいいさ」
「・・・来年」
沈み行く天道に視線を向け、眩しそうに眸を細めて呟いた声が、冷気を忍ばせて来た風に千切れた。
来年も、慶介はこうして傍らに居てくれるのだろうかと、竹次郎は思う。
もしかしたら、花絵を娶り、幸せに年を越す準備に追われているのかもしれない。
稔りの良い密柑は、受け取った時、人の手にあった温もりを残していた。
だがそれも、いずれ時の経過と共に失くなる。
いつか慶介が自分から離れて行くように――。
その寂寞感が、竹次郎の内を木枯らしのように吹き抜ける。
乾ききった胸が痛い。
痛くて、苦しくて、どうしようも無く切ない。
その辛さの堪えどころのように、竹次郎は、両の掌で蜜柑を包み込んだ。
「どうした?」
そんな心の動揺を機敏に感じ取ったらしく、慶介が案じ顔で竹次郎を見た。
「少し・・・、風が冷たくなったかなと思って」
言い訳する調子が、ぎこちない。
それでも無理やり作った笑い顔に何かを察したか、慶介もそれ以上は問わなかった。
「そう云えば、さっき婆様が、活きの良い鰡が手に入ったから、夕餉に塩焼きにしてお前に食わせるのだと、えらく勢い込んでいたな。そろそろ行かんと、大事な孫に風邪を引かせるつもりかと、又叱られそうだ」
それが満更冗談でも無いらしく、慶介は顔を顰めると、勢い良く立ち上がった。
薄い闇を敷き始めた夕暮れの中で、見上げていた顔にも、今度は衒いの無い笑みが広がった。
だがそれが、慶介の目に、一瞬ひどく儚げに映った。
「行くぞ」
その己の怯みを誤魔化すように、慶介は竹次郎の腕を取ると、荒っぽく引っ張り上げた。
闇を、闇で塗りつぶしたような漆黒の中に、竹次郎は佇んでいる。
辺りは静まり返り、物音ひとつしない。
気圧されるような静謐に耐えかね、一歩足を踏み出しても、床の軋む音すらどこかへ呑まれてしまう。
まるで何かが、息を殺し爪を研ぎ、細めた目に鋭い光を湛え、一瞬の隙を狙い澄ましている。
そんな恐ろしさが、この闇にはあった。
ここは一体何処なのか・・・。
そう思ってぐるりと視線を一巡させた刹那、正面に、何かぼんやりと白いものが現れた。
目を凝らして見ると、それは桜の花に似ていた。
だが桜と云うには、形がおかしい。
こんなに小さな桜の木など、見たことが無い。
形の不思議に囚われて、今少し近づけば、桜は囲いの中に行儀よく収まっている。
その時だった――。
突然、桜が、四方に張った枝を手妻のように伸ばし、竹次郎に絡みついた。
それは瞬く間に首筋から口元へ這い上がり、体の自由を奪う。
すると、今度は次の枝が胸元を割り、膚をまさぐり始める。
枝は、乱暴に花を舞い落としながら、次々と竹次郎に絡みつく。
寸座、見開かれた竹次郎の眸に、ひとりの男の姿が映った。
――八重さま。
静かな声が、闇を揺らした。
その男、遠州屋吉平衛は、まるで己の手指のように、竹次郎を絡め取っている桜の枝を自在に動かす。
――八重さま・・・。
低い吐息と共に死人の冷たい指が、鎖骨を滑り、乳首を撫で、絹糸で織ったような膚の感触を楽しみながら、ゆっくりと、焦らし追い詰める。
慶介兄さんっ――。
身を捩り、塞がれていた唇に何とか隙を開け、竹次郎は声の限りでその名を叫んだ。
その、何度目の叫びだったのか・・・
「竹次郎っ」
腕に走った痛みに、思わず大きく目を見開くと、そこに慶介が映った。
「大丈夫か?」
覗き込む顔に、荒い息を繰り返しながら、竹次郎は微かに頷いた。
又、いつもの夢を見たのだ。
「・・すみません」
「何がだ?」
「慶介兄さんを、起こしてしまった」
「莫迦、気にするな。そんな事よりも、早く着替えろ。それだけ汗をかいたら風邪を引く」
部屋の隅の、行灯に火を入れている広い背が笑った。
――悪夢は、毎夜のように竹次郎を襲っていた。
気がつくと、いつも同じように、闇の中に佇んでいる。
そしてあの桜に辿り着き、遠州屋が現れる。
その間、うなされ続ける竹次郎に、慶介は声をかけ、肩を揺すり起こそうとするが、結局先程のような場面にならないと、夢からの開放は無い。
そうして目覚めたあと、竹次郎の額には玉のような汗が浮かび、時には、恐怖の残骸が跡形も無く消え行くまで、慶介の腕を握り、じっと目を閉じ息を整えている。
そしてその様を見守りながら慶介は、夢と云う形を借り、未だ竹次郎への執着に彷徨う遠州屋と云う男を、天を焦がす炎より激しい憤怒と、淵よりも深い怨嗟を持って思い起こす。
もしもあの時遠州屋に息があったのならば、自分は躊躇い無くそれを絶っていたと、慶介は寸分の迷いも無く言い切る事ができる。
それも、もっとも残虐な方法で――。
そしてそれを思う時、己の心に棲む竹次郎への狂気と、慶介は常に直面する。
が、その己を良しとしている自分をも、同時に認めていた。
「慶介兄さん・・」
一瞬、うつつを離れた慶介の思考を、遠慮がちな声が戻した。
見れば、いつの間にか竹次郎は端座し、こちらを向いている。
「何だ?改まって」
からかうように問うても、見詰める顔は真剣だった。
「前に勘解由兄上から、慶介兄さんが、花絵さまとの縁談を断ったと聞いたけれど、それは本当でしょうか?」
「本当だよ」
「どうしてっ・・」
「婿に行く気など、無かったからだ」
いともあっさり返ったいらえだったが、その寸座、慶介を捉えていた眸が翳った。
「何故、そんな話を持ち出す?」
「なぜ・・って・・・」
「お前は俺が花絵殿と一緒になった方が良かったのか?」
かいた胡坐をくるりと回し、真正面に向き合った途端、心の起伏を隠すように、一瞬、竹次郎が眸を伏せた。
が、それも寸座の事で、すぐに上げられた面差しが、己を鼓舞するように硬かった。
「でも和田先生の後を継げるのは、慶介兄さんしかいないと皆が云っている。だから・・」
「だからその為に、花絵殿の婿になれと云うのか?俺の気持ちも、花絵殿の気持ちも考えずに?」
問う声は、責めてはいない。
だが竹次郎は、眸を伏せると固く唇を閉ざした。
――確かに、自分は、とんでもない事を云っているのだろう。
けれどこのまま慶介が傍らにいてくれれば、自分はどんどん弱い人間になり下がり、もう慶介なくしては片時もいられなくなるだろう。
それが怖い。
慶介の為に、何もできない自分なのだ。
そんな自分が唯一の人に足枷し、重荷になるのは堪えられなかった。
だがその想いを、言葉にしては伝えられない。
好いていると――。
その一言を、云える筈がなかった。
「答えられなければ、無理には聞かない。が、俺もお前に聞きたい事があった。いや、聞かなければならない事だ」
貝のようになった竹次郎を質す声音が、不意に低くなった。
「・・聞かなければ、ならないこと?」
それまでとは変わって厳しい調子に、伏せていた瞳が上げられた。
「そうだ、聞かなければならない。お前が遠州屋に行くのを、俺は止めた筈だ」
その事に関して、竹次郎に言い訳は出来ない。
「だがお前はその前日、ここの爺様、婆様に、見合いの席に俺に同道するよう頼みに行くと云って、家を出たそうだな。そして俺はその話を受けた事になっている。だがお前は結城の家には来たが、俺の元には来なかった」
俯いている肩が強張っているのが、慶介の目にも分かった。
だがここで言葉を止める訳には行かなかない。
「お前が、少しでも勘解由兄上の役に立ちたいと願っているのは良く分かる。その上で、俺はお前を止めた。それでもお前は、一人で危険に飛び込んだ。どうしてだ?どうして、俺を避けた?俺はお前にとって、それ程頼りにならない人間なのか?」
竹次郎を止められなかった事が、激しく慶介を責めていた。
今一度あの時に戻れたら、竹次郎を刺してでも、遠州屋の元へなど行かせはしなかったと、人が聞けば狂気だと恐れる事を、慶介は真剣に思う。
その想いが無念となり、激昂する心に拍車をかける。
「応えろ、竹次郎っ、俺では駄目だったのかっ」
「違うっ」
必死の声が、その先を遮った。
「・・・違う。あの時、神田の道場の近くまで行ったのです。でも道場に着く前に、慶介兄さんを見かけた」
「ならば何故っ・・」
初めて知らされる事実は、瞬時に、計り知れない痛恨になった。
「慶介兄さんは、花絵さまと一緒にいた」
先を紡ぐに躊躇う心が、声を儚くさせる。
――だから声をかけられず、それどころか、初めて、慶介の存在が自分の中で、どれ程大きなものだったかに気づいたのだと。
そして知らずに過ごした歳月は、もう取り返す事は出来無いのだと知り、空洞になったような心を抱え帰ってきたのだと。
そして何より、慶介の眼差しの先にいた美しい人に抱いたのは、目を背けたくなるような醜い妬心だったのだと。
そう、真実知って欲しい胸の裡を、しかし固く閉ざすように、竹次郎は唇を噛んだ。
「花絵殿が一緒にいたとて、関係は無いだろう。さっきも云ったとおり、縁談の話ならとっくに断っている」
が、花絵と、竹次郎の唇が震えた時、慶介の裡に、一瞬、閃光のような勘が兆した。
もしかしたら――。
「でも・・」
「でも何だ」
それを、すぐにも確かめたいと願う焦りが、竹次郎の沈黙を許さない。
「楽しそうだった。・・・、だから・・」
「だから?」
暫し、重いしじまが二人の間に流れた。
「・・邪魔だと、思った」
その張詰めた気に先に負けたのは、竹次郎だった。
小さな、消えるような声がぽつりと零れ落ちた寸座、悋気を自ら口にした頬に、微かな血の色が刷かれた。
だがそれは、慶介にとって、待ち望んでいたひと言だった。
そしてそのひと言は、悦びの階を一気に駆け上らせる。
狂おしいまでに、恋しさが迸り、愛しさが渦を巻く。
俯いたままの細い頤に指をかけ、強引に上を向かせると、慶介はその眸に自分を映し出させた。
「妬いて、くれたのか?」
確かめる声が少しばかり掠れ、竹次郎を見る眼差しが、包み込むような優しい光を湛えた。
「・・・慶介兄さんは、意地悪だ。・・いつも、いつも、意地悪ばかりを云うっ・・」
そうだと答えろと強いる相手に、それが精一杯の抗いだったのか、勝気な眸が必死に睨み付けた。
が、すぐにそれは薄い水の膜に覆われ、みるみる溢れ出て頬に伝わった。
「あんなに、あんなに、叫んだのに、助けに来てくれなかった・・」
そんな意気地の無い自分を隠したくて、厚い胸板を叩いても、拳にした手には少しも力が入らない。
「そうだな、いつも意地が悪いな。おまけに役立たずだ」
されるがままになりながら、慶介は竹次郎を胸のうちに引き寄せた。
「堪忍しろ」
しゃくりあげていた声は、くぐもった嗚咽になり、やがてそれも肩の震えだけになった。
その震えをいとおしむように、慶介の腕が更に強く、細い肩を攫った。
「嫌ならば云え」
口を吸いかけて、ふとそれを止めての囁きに、下に組伏されている竹次郎が、微かに首を振った。
――遠州屋に穢されたと云う事実は、竹次郎の心に深い傷を残し、まだそこからは夥しい血が流れている。
だから慶介は、竹次郎が拒むのならば、その傷が癒えるまで待つつもりだった。
だがお前が欲しいと告げた時、竹次郎は小さく頷いた。
それでも何処かに残る不安が、今の問いかけになった。
己の小心さに苦笑しつつ、今度こそ慶介は、静かに唇を重ねた。
始め竹次郎は、恐れるように固く目を瞑った。
だが忍びこんだ舌がゆっくりと口腔をまさぐると、切なげに眉根が寄り、うっすらと頬が上気した。
そうして夜着が肌蹴けられた、その時だった。
突然、竹次郎の身に強い緊張が走ったのが、膚に触れている慶介の指に、感触として伝わった。
四肢の先まで強張らせる竹次郎に、慶介は手の動きを止めた。
やはり、あの忌まわしい記憶は、未だ竹次郎を捉えて離さないのだ。
思えば、それが当然だった。
もう少しで自分は竹次郎の傷を抉るところだったと、慶介は己の堪え性のなさを自嘲した。
だが竹次郎は、突然動きを止めた慶介を、不安そうに見上げる。
「まだもう少し後でいい」
その眸に向けて笑った顔には、包み込むような優しさがあった。
「ゆっくりと、お前の心も体も、本当に治ってからでいい」
乱れた前髪をかき上げてやりながら、告げた声が柔らかい。
眠りにつくまでそうしているつもりなのか、慶介は飽きる事無く同じ仕草を繰り返す。
その慶介を、黙って見詰めていた竹次郎だったが、不意に眸が滲んだ。
「どうした?」
「何でもない」
「気になる」
真顔になって問う慶介に、竹次郎は眸を伏せた。
が、それも寸座の事で、やがて決心したかのように慶介を見上げた。
「・・・慶介兄さんに触れられて、私は嬉しかった。けれどあの時の事に縛られて、云う事を聞かない自分の体が悔しい。心も体も、みんな慶介兄さんにあげたい。慶介兄さんに、奪って欲しいのに・・」
そこまでが云うのが羞恥の限界だったのか、再び伏せられてしまった眸を隠す睫が震えた。
だがその姿は、言葉は、今一度、慶介の裡に狂気にも似た悦びを呼び起こす。
もう、堪える事は出来ない。
お前が悪いのだと、堰を切った愛しさが迸る。
「竹次郎・・」
耳朶近くの囁きに、眸を上げて見れば、触れてしまいそうに近く慶介の顔があった。
「お前を苦しめる夢、それはどんな夢だ?」
突然の言葉は、硬い沈黙を生んだが、見詰める目にある真摯な色は、その驚きも躊躇いも凌駕し、やがて竹次郎の唇を小さく動かした。
「闇の中に桜の木があって、その枝が、不意に、まるで人の手のように伸びて来るのです。それで私は、その枝に絡め取られてしまい、後は・・」
生々しい記憶が、続きを語る口を噤ませた。
「竹次郎」
だが慶介はその先を急かさず、前髪に絡ませていた指を頬に滑らせると、少し身を浮かせ、竹次郎の眸と己のそれを同じ位置にして見下ろした。
「桜は、俺だ」
そうして告げた強い調子の声に、上げた眸が瞠られた。
「お前の身も心も絡め取り、誰にも触れる事を許さず、俺だけのものにしたい。ずっとそう願い、そうなる事に焦がれてきた。だから桜は、この俺だ」
大きく見開かれた眸から溢れたものが、紡ぐ言葉の代わりのように、こめかみを滑り落ちた。
それが恥ずかしかったのか、竹次郎は慌てて瞬きを繰り返したが、その度に零れるものは止まらなくなる。
「嬉しいのに・・、どうして、私は泣いてしまうのだろう・・」
手の甲で目を擦り、泣き笑いになって見上げる竹次郎が、慶介にはただ愛しかった。
下帯を剥がされるや、下肢を割り、その間に体を入れられた時、それまで浅い喘ぎを繰り返していた竹次郎が、小さな声を上げた。
寸座、羞恥から逃れるように、顔が逸らされた。
慶介を求める欲は、もう隠しようが無い姿に形づくられている。
それを、その人の目に晒されれば、体の中心に籠もる熱は、煽られたように渦巻く。
「・・慶介兄さんっ・・」
耐えかね、見ないで欲しいと懇願しても、慶介は太股を離さない。
そうしておいて、顔を隠そうとした竹次郎の手を掴むと、己の体の一箇所に導いた。
そこは、今にも張り裂けそうに硬く誇張し、力強く打つ脈が竹次郎の手にじかに伝わる。
「お前を欲しくて欲しくて、もう辛抱が利かない」
目を瞠った竹次郎を、柔らかな眼差しが包み込んだ。
「浅ましいだろう?」
苦く笑った声が、己の堪え性の無さを自嘲していた。
だがその刹那、竹次郎のもう片方の手が、慶介の首筋に絡んだ。
「桜は、私だ。慶介兄さんを、誰にも渡したくない」
声は掠れたが、竹次郎は慶介を迎え入れるように、自ら足を開いた。
傷つけぬよう、十分な時をかけて強張りを解いたつもりでも、少年の体は、やはり外からの侵入を拒んだ。
上気していた頬は白く透け、切なげに寄せた眉が、竹次郎の苦痛を物語っている。
暫しの間、その様子を動かずに見守っていた慶介だったが、やがて少しだけ竹次郎から己を引いた。
そのまま、先程、さんざんに指で弄び、熱く吐息させ泣かせた小さなしこりを探り当てると、そこを擦るように突いた。
瞬間、組み伏していた体が、若鮎のように跳ね上がった。
「・・ひっ」
抉られる痛みと擦られる快楽が同時に竹次郎を襲い、そのどちらかを選べぬ声が唇を突いた。
が、慶介は執拗にそこを攻め続ける。
そうして、幾度目かに腰を動かした時、腹に触れる竹次郎自身が、ひそやかな変化見せ始めた。
そしてそれは慶介の動きに合わせ、次第に、欲情の塊りへと形を変えて行く。
「・・あの桜は、・・わたしだから・・」
喉を仰け反らせて訴える声が、喘ぎになって途切れる。
「慶介兄さんが・・欲しいっ・・、もっと、もっと、欲しいっ・・」
動きを荒々しくする慶介に、しがみつく竹次郎の爪が立てられる。
だが背に喰いこむその痛みなど感じていないように、慶介は竹次郎を貪る。
やがて限界を迎えた竹次郎が、四肢を強張らせた。
しかしその塊を咄嗟に手の平に収めて握り、慶介は耳朶を噛んだ。
「一緒だ・・」
あまりに激しい刺激は、竹次郎をひたすら翻弄し続け、眸は虚ろに、意識は半ば無いに等しいのかもしれない。
だからその声が届いたかどうかは分からない。
だが慶介は、更に奥深く己を突き入れると、掌につつんだ愛しい者を擦り上げた。
「あっ」
息を詰めた短い叫びが迸った瞬間、竹次郎の腹の深い所に、熱い何かが溢れ返った。
慶介に、満たされたのだと――。
そう思った途端、霞みかかっていた視界が、不意に一段暗さを増した。
慶介が、抱きしめてくれている・・・
愛しいと、囁いている・・・
それに応えなければと思いながら、置き忘れたように声が出ない。
眠っても良いかと聞きたいけれど、今はそれも叶わない。
ごめんと、形だけ唇が震えて、竹次郎の意識は、たゆたうように安寧の淵へ沈んで行った。
「奥が、やけに賑やかだな」
出迎えてくれたお久米に聞くと、勘解由が来ていて、皆さんで話が弾んでいるのだと、こちらも嬉しそうに教えてくれた。
「兄上が?」
が、にこやかなお久米とは反対に、慶介は怪訝に呟いた。
あの一件以来、忙しい間を縫い、竹次郎の見舞いと称し、勘解由は幾度か白木屋を訪れていた。
しかし幾らひとつ事件が解決したとは云え、それまでから思えば、勘解由の来訪は頻繁すぎた。
その疑問に答えるかのように、慶介の裡には、ひとつ引っ掛かるものがある。
それは萩尾家の別邸に乗り込む時、勘解由が向けた一言だった。
――竹次郎の婿になるかと、兄は問うた。
それに、臆面も無くそうだと云い切った自分だったが、考えてみれば、そう問われる事自体、既に己の心は、この兄には見透かされていたのだ。
いやもしかしたら、案外に、兄自身、竹次郎への想いを募らせていた時があったのかもしれない。
だから、殊、竹次郎に関しては敏感になれたのだろう。
大体が、竹次郎の母である八重に憧れていた兄である。
だとしたら、この推量は十分に成り立つ。
ただ兄は、家督と云うしがらみに縛られ、その想いを成就させる事を諦めた。
しかしそれが又、今回の一件で、むくりと頭をもたげて来たとしたら・・・。
「誰が渡すものかっ」
兄と云えど立派な恋敵への挑戦が、憮然と漏れた。
しかももうひとつ。
兄の勘解由には、昔から弟の自分だけに向ける悪い癖があった。
それは良く云えば茶目っ気であり、悪く言えば単なる天邪鬼だった。
兄は竹次郎と自分の事を喜んでくれながら、その実、どうにも面白く無い己を持て余し、
少しばかり意地をしてみたくなったに違いない。
足しげく竹次郎の顔を見に来始めたのは、その時々の自分の反応を見て楽しむ為だろう。
だが表情ひとつ変えず、次々と難題を片付けて行く怜悧な切れ者と評判の結城勘解由に、そのような一面があるのを誰が信じようか。
竹次郎とて騙されているのだ。
「狐め・・」
廊下を大股で行きながら、慶介は忌々しげに舌打ちをした。
そうして、この先兄の悪癖に付き合わされるだろう自分を思い、うんざりと眉を顰めた。
「慶介兄さんっ」
嬉しそうに迎えた竹次郎の向こうに、白木屋夫婦に囲まれた、勘解由の穏やかな笑い顔があった。
「兄上は、最近非番が多うございますな」
「仕事の帰りだ、そう目くじらを立てるな」
それが悋気交じりの皮肉だとすぐさま察したか、勘解由が面白げに笑った。
やはり、推量は当っていたようだった。
しかも兄は、向けられた皮肉を逆手に取り、早速楽しんでいる。
どうにも食えぬ相手に、慶介は物憂げな息をついた。
「慶介兄さん、大晦日の荒稽古には、勘解由兄上も出られるのです」
その慶介の憂鬱など知るはずも無く、竹次郎が逸った声で教えた。
「兄上が、荒稽古に?」
「今日、道場で和田殿に聞かなかったのか?お前とは別の組にして欲しいと云って来た」
笑って告げる勘解由の声には、からかいと、そして慶介だけに分かる挑戦が含まれていた。
「勘解由兄上も、慶介兄さんも、きっと勝ち残るから、最後は二人の勝負になる」
遠く投げた視線の先には、既に竹刀を構える二人が映し出されているのか、竹次郎の声が上ずった。
「だがそうしたら、お前はどちらを応援するのだ?」
意地の悪い問いに、竹次郎が勘解由を振り返った。
だがすぐに、形の良い唇を笑みの形に結んだ。
やがて一言、
「秘密です」
つれなく答えると、庭を見る振りをして、慶介に視線を移した。
――今なら分かる。
勘解由への思いは、憧れだったのだと。
憧れが、募って募って、いつの間にか恋慕と錯覚していたのだと。
だが慶介への想いは、常にそれと背中合わせにはぐくまれ、確かな恋へと実を結んだ。
慶介の視線が、竹次郎に絡まった。
それは、竹次郎の心の臓を貫くほどに、熱く、強く、激しい。
その眼差しに、今にも引き摺り込まれてしまいそうな自分を堪えるように、竹次郎は眸を逸らせた。
「では、その秘密、私が勝ったら教えて貰うと云うのはどうだ?」
が、束の間にも及ばぬ忍びやかな逢瀬を、意地の悪い声が邪魔をする。
「兄上」
その仕返しなのか、凛と張った声が、勘解由と竹次郎の間に割って入った。
「何だ」
穏やかな物言いに翳む煩わしさは、慶介だけにしか聞き分けられない。
「兄上には、尋常に勝負して頂きたく、先にお願いしておきます」
「はて、尋常とは?」
「兄上は、化かしますゆえ」
しらっと告げた声に、勘解由が一瞬、苦々しげに眉根を寄せた。
初めて見るそんな勘解由の顔に、竹次郎は不思議そうに目を瞠ったが、やがて二人を見比べると、声を立てて笑い始めた。
いつまでも終わることのない屈託の無い笑い顔に、溜まりを作っていた柔らかな冬の陽が戯れる。
それを眩しげに見る慶介の双眸の中で、弾けた陽が、金色の光華となり煌いた。
自分のHPに掲載してあるものです。
HPでは、時代ものの、やおい小説を展示しています。
主なカップリングは、新撰組の土方×沖田ですが、今後は広く、江戸もの創作小説を書きたいと思っています。
その最初の中編が、この話です。
お読み下さって、本当にありがとうございました。
(HP http://homepage2.nifty.com/momozukan/ )




