僕は彼女を幸せにするために生きていたというのは違った。僕は彼女を幸せにすることで自分のそばから離さないために生きていたのだ
実話をもとにした話です。
僕自身が、または妻が不治の病に侵され、共に闘病生活を送るなんて小説の中だけの話だと思っていたし、僕には到底関係のないことだと思っていた。実際、僕は大きな病気になったことはないし、妻もいない。かつて恋人というものができた経験は二桁を超えない程度あるが、そういった病にかかった女性はいなかった。正しくはいないと思い込んでいた。僕は不治の病を抱えた恋人と闘病生活を送ったことはない。彼女は兄弟姉妹ではない。もちろん妻でもない。彼女の名前は柴田美咲。幼馴染であり、元恋人であり、世界で最も愛した女性だった。
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「俺が大学でできた一番の友達が言ってたんだよね。半年くらい前だったかな?こんな寒い日に海行こうとか俺の彼女バカだよね?って。」
「じゃあ全然大丈夫だよね?今日は暑いし、今いるのは山だし、私、あなたの彼女じゃないし。」
「命題が真なら対偶も真なんだよ?そんなことも知らないの?」
「そもそも命題が真なんて認めてないけど。寒い日に海?いいじゃない、斬新。暑い日に山ぐらい素敵。」
本当にこいつはああいえばこういう。
「だいたいサッカー部のくせに文句言い過ぎ。インドアすぎ。ニートかよ。いつもこれ以上に汗かいてんじゃん。」
「君は本当にアホゥですね。スポーツと修行を一緒にしないでもらえますか?」
そうこう言っている間に俺たちは山の頂上へと到着した。なんだかんだ言って彼女のしたいことには必ず俺は付き合っている。今回もそうだ。なぜなら……。
「……体、大丈夫か?」
「心配してくれるの?超うれしー!」
「チッ、大丈夫なのかよ。」
「どう意味だコラ?」
…彼女の余命は残り2年だから。
こういう言い方をすると彼女が病気にかこつけて嫌なことを〝無理やり付き合わせている〟ように聞こえるかもしれないが、そうではない。
十中八九ないと言い切れるが、仮に彼女が、「余命2年の幼馴染のお願い事を聞けないわけがないでしょう?」と思っているとしよう。そうだとしても、彼女がやりたいと言った時点でそれは、俺にとってどれだけめんどくさく、他の誰に誘われても絶対しないようなことも、やりたいことになってしまう。
「あ、お得意の愛情表現でましたかぁ?本当に私が大好きなんだねえ!!」
「……。」
用は、彼女の言う通り、俺は彼女にベタ惚れなのだ。
「……美咲。」
「んー?」
「大好き!!!」
俺はそう言って、付き合っていた2年半前より少しだけ細くなった彼女を抱きしめた。
少し前まで彼女はこういうことをしたり言ったりすると、少しだけ困ったような顔をしていた。
「私もだよ!」
だが、今では付き合っていた頃と変わらない反応をする。「ツンデレキャラはもう卒業。」らしい。
言い換えれば、素直になるキッカケがあった、と言うことだ。俺は聞くことはしない。彼女を全面的に信頼している。突然明日、俺のことを置いて他界したりしないはずだ。
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僕は信頼という言葉を聞くたびに、その言葉の意味に疑問を抱く。初めて会う人間を信頼できるのか、という問いに対しておそらく全員がノーと答えるだろう。だが100パーセント知っている人間だからと言って100パーセント信頼できるだろうか?もちろんこれもノーであろう。つまり「知る」というのは「信頼する」ための必要条件なのであり、十分条件ではないのだ。ならばもちろん100パーセント信頼するためには100パーセント知らなければならない。そんなことが可能なのだろうか?無論不可能だ。長々と話したが、言いたいことは1つだ。
結論、僕は誰も信頼できない。
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僕が彼女に初めて会ったのは、春風が気持ちのいい4月のことだった。
当時小学3年生だった僕は、近所に住む4つ上のお姉ちゃん、柊結衣に連れられ、彼女が小学生だった去年まで所属していたバスケットボールチームの練習に連れて行ってもらった。
体育館が近づくにつれ、バスケットボールをつく音が大きくなってくる。結衣お姉ちゃんが扉を開くと同時に目に飛び込んできたのは、僕と同じぐらいの身長の『彼女』が、シュートを打つ瞬間だった。
当時の僕は、隣にいたお姉ちゃんにも聞こえない声で、カッコいいとそう呟いていた。
その感情を、初恋、そして一目惚れと呼ぶことを、僕はまだ知らなかった。
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僕がバスケットボールを始めたのは小学校1年生の頃だった。僕の家の目の前の坂道を、まっすぐ登っていった先にある公園、そこは大きな公園だったが野球やサッカーをやるようなグラウンドがあるだけで遊具というのはほとんどなく、あるのはブランコとバスケットゴールだけの公園で僕は1人ひたすらシュートを撃つゆいお姉ちゃんに出会った。
神奈川県から引っ越してきたばかりの僕に、結衣お姉ちゃんが「一緒にやる?」と声をかけてくれたのがキッカケだった。
2人しかいなかったため、できることは限られていた。ドリブルとシュート。
そもそもバスケットゴールはグラウンドの端に隣り合わせで2つあるだけだったので、人数がいても試合なんてできなかったのだけれど。
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彼女のチームは人数が少なく、僕を入れてもちょうど5人しかいなかった。実際はその日人数がいなかったというだけであって、本来はもう少しいるのだが。
「え、今日試合なんですか?」
「ちゃんとそういっただろう。だから彼を連れてきてもらったんだ。」
結衣お姉ちゃんが、この場に1人しかいない大人とそんな会話をしている。どうやら試合に出ることになりそうだ。
「君が結衣ねーちゃんの一番弟子だね?」
いつの間にかシュート練習を止めて、目の前に来ていた彼女が僕にそういった。
弟子入りした覚えなどなかったし、1番かどうかもよく分からなかったが、確信を持ったその聞き方からして結衣ねーちゃんがそう僕を紹介したのだと推測し、僕は肯定の意味を含めて軽く頷いた。
そこからのことはあまり覚えていない。
試合に出たことは確かだ。勝ったことも覚えている。楽しくて、美しくて、ただただ夢中になっていた。初めてやるバスケットの試合と、その日の帰路、張り裂けんばかりの笑顔で語りかけてくるミサと呼ばれていた彼女に。
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愛知県ミニバスケットボール大会と呼ばれる大会の初戦を突破した僕たちは、翌週、そして翌々週に行われた2.3回戦も難なく突破した。どうやら、このチームは強いらしい。
僕はチームの誰よりも点を取った。僕はチームを勝たせたかった。でもそれはチームのためじゃない。彼女のためでもない。チームが勝った時に見せる彼女の最高の笑顔、それを見るためだった。この時は僕は、ちゃんと、僕のために生きていた。
ただこの日は、ゆい姉ちゃんと2人で帰った。僕がこのチームにきて、初めてだった。彼女のいない帰路というのは存外退屈なものだった。
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翌週、彼女は練習を休んだ。彼女の〝らしさ〟を語れるほど、当時の僕は彼女のことを知らなかった。だが、僕の知る彼女はバスケのことが大好きだったから、彼女らしくないと僕は思った。
僕の周りにも、そして僕自身も、あれだけ1つのものに一生懸命になる人が存在しなかったため、よほど意外に感じたようである。そして僕自身これほど楽しいと思ったこともなかった。退屈な人生であった。水泳、公文、そろばん。その場にいる誰よりも、できてしまうのである。自分より優れている人間に魅力を感じた。もちろん彼女の魅力は〝僕より優れていること〟だけではないのだけれど。
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彼女が練習に来なくなって2週間が過ぎた。と、同時に真実を告げられた。監督とゆい姉ちゃんとの間で情報伝達の行き違いがあったらしい。ゆい姉ちゃんはあれでいて、少し抜けているところがあったので、無理もない。
その日の練習を最後に、僕はチームを去った。その時僕は初めて気づいた。本当に僕が好きなのは、〝バスケではなかった〟ということに。
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「もうすぐだねぇ、結婚式。」
「そうだなぁ。」
6日後に迫った8月29日は、美咲の兄、柴田達也と、俺と美咲の〝師匠〟柊結衣の結婚式である。2人はまだ30歳にも満たない。こんなに早く式を挙げるのはひとえに美咲のためである。美咲も俺もそれに気づいてはいたが、触れることはしなかった。
「2人、仲良くやっていけるのかな。」
「知らん。」
「人ごとだなぁ。」
「人ごとだもん。」
美咲は、俺のそっけない言葉に少し不満そうにそっぽを向く。
「まあ、やっていけんだろ。結衣姉ちゃんは達也さんのこと大好きだからさ。」
「お兄ちゃんも結衣お姉ちゃんのこと大好きだよ。絶対別れないと思う。」
「そう思ってんならなぜ聞いた。」
俺はこの話は好きではなかった。達也さんのことは大好きだ。勉強を教えてもらったこともある。サッカーもバスケも。もちろん、結衣姉ちゃんのことも大好きだ。でもどうしても〝幸せな話〟は耳がいたい。
「………ごめんね。」
「………なにが。」
「…なんでもない。」
彼女は悪くない。わかっていた。だがなにに謝ったのか、それは分からなかった。また、困った顔をさせてしまった。
俺は明後日から関東甲信越大会という部活の大会があるため、勝ち進めば結婚式には出席できないことになっていた。俺は合宿ではなかなか調子が良かったが、合宿明けの練習試合ではスタメンではなかったのでおそらく出ることはないだろう。
だが、先輩たちは就活で練習に来ていなかったためベストコンディションとは言い難い。29日に行われるのは決勝と三位決定戦なため、そこまで勝ち残るのは難しいと考えていた。
案の定、同期の副キャプテンの退場などもあり、その大会は2回戦敗退で幕を閉じた。俺は出席すら怪しかったため、スピーチなどの大役を任されていたわけではなかったが、2人の恩人の結婚式である。どうしても出席したかった。なので敗退したことに素直に悔しがることはなかった。
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俺は入学式以来となるスーツを纏い、柴田家のある平塚市へと訪れていた。結婚式は柊家の実家がある名古屋で行われるらしい。新幹線代もバカにならないので、面識ある美咲の母親が車に乗せてくれると申し出てくれたのだ。
「こんにちは、よろしくお願いします。」
「明くん、久しぶりね。遠慮せずにどうぞ。」
美咲の家の前に行くと、玄関で美咲のお母さんが出迎えてくれた。当然新郎の達也さんはいない。お父さんは三重の大学病院に勤務しているため、現地集合らしい。
美咲のお母さんは、美咲によく似ていた。特に目元と、俺に会った時に必ず見せるこの悲しそうな笑顔が。
「美咲のお母さん。俺は選んでここにいますよ。」
うまく伝わったか分からないが、美咲のお母さんは聡明な方だ。うんと軽く頷くと、美咲によく似た満面の笑みの見せてくれた。
そう、俺は選んで美咲のそばにいる。義務感でも、同情心でもない。俺は分かっている。どれだけ彼女に依存した人生だったのか。どれだけ彼女を中心に生きて来たか。そしてその彼女を失った時、俺はどうなってしまうのか。それを分かった上で、俺は彼女のそばにいることを選んだ。
後悔するかもしれない。でも、してもいいと思っている。
「お待たせ!!」
二階の自室で着替え中の美咲を、通してもらったリビングで待っていると、女の子らしくない、果ては病人らしくもないドタドタという足音を響かせ、美咲がリビングに現れた。
驚きはしない。これが美咲らしさなのだから。
「よくそんなドレス着て走れるな。」
彼女と再会した時に見た、自転車から飛び降り、ロンダートしながら着地した瞬間を思い出す。こいつは天才だったな。
「その通り、私は天才なのだ。」
「テレパシーか!そして自分で言うな、嫌味か!」
「……ふふふ、あきら、貴方誰に口を聞いているのかしら?」
…しまった!?
「…申し訳御座いません、美咲お嬢様。」
古い仲になると2人にしか通用しないルールというものがあると思う。これは俺たちのルール?の1つ、主従逆転ゲームである。
俺たちの場合、実際に逆転はほぼ起きない。なぜなら逆転する唯一の方法が主人側の主人としてのミスであるからだ。美咲は祖父は社長、父母は医者と本物のお嬢様である。主人慣れしているのだ。ちなみに主人としてのミスとは〝自分でドアを開けてしまう〟や、〝言葉遣いを間違える〟などである。つまり俺には圧倒的不利のゲームなのだが、俺も5年以上このゲームに付き合わされ、(皮肉なことに)従者慣れしてしまったので、ちょっとエスコートするだけで済む。従者がミスを犯すと、一回だけなんでも言うことを聞かなければならない。ちなみに例の山登りもその罰ゲームだったりする。
「お嬢様、お車の準備ができたようです。」
どちらにせよ、俺はこのゲームを始めるつもりであった。従者ならば、主人を気遣うのは当たり前だからである。
そういう建前がないのに気遣ってしまうと、逆に気を遣わせてしまう。このゲームは従者側から始めるのは明らか不自然だし、主人で始めたとしてもそんなに簡単に逆転を許すほど普通の俺はバカではない。そこはどうしようか悩んでいたところだった。美咲はそれを見越して気遣ってこのゲームを初めてくれたのだ。
これをどう思うかは人それぞれだろうが、俺は本当に良い女だと思っている。さぞかし良き妻、良き母になっただろう。
玄関のドアを開き、彼女に靴を履かせ、慣れないヒールであるため、転ばないようにリードする。そして車に乗せた。
ちなみに美咲のお母さんは俺たちのこのゲームを何度も見ているため、特に何も口を挟まなかった。第三者の前でこれをやるのは、死ぬほど恥ずかしいのだが。
「従者ならば何も言わなくても私のしてほしいことを考えなさい、といつも言っているわよね?」
車に揺られ始め10分もしないうちに、美咲は口を開いた。
「失礼しました、お嬢様。では失礼します。」
俺はそう言って右手で美咲の左手を握った。
「……褒めてつかわす。」
「ありがたきお言葉。」
さらに10分もしないうちに彼女は寝息を立てていた。どれだけ試合(の移動)で疲れていたとしても、従者が主人より先に寝て良いわけがない。
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「主従逆転ゲーム?」
「そう。面白そうでしょ?」
確かに面白そうだと俺は思った。彼女のバカみたいにでかい屋敷を初めて見たときは、何人の執事とメイドがいるのかと思ったがそうではなかったため、俺が特別不利ということもないだろう。
……と思った俺が愚かだった。
あれよあれよという間に俺は彼女と一線超えてしまったのだ。主人からの命令と従者からのご奉仕という形で。
後から知った話だが、こういうことを女性から迫ることは珍しいようだ。
「まじかよまじかよまじかよ!!全人類これを経て子孫残してんのかよ!!ドエムかよ!!!」
絶対に最後までやめないでくださいねご主人様ぁと言ったと思った数分後にはこれである。
一体何をしたいのか分からない。この時の俺は、快感よりも困惑に支配されていた。あとすこしの羞恥。
「ああ、既成事実を作ってしまえば、真面目な彼は、美咲を捨てることなんてできない、なんてお爺様の口車に乗った私がバカだったぁ!!レベルが足らない!防御力!圧倒的防御力不足!!」
自分の孫になんてことを言うんだ!
「というか、国公立高校と大学出ないと孫と結婚させないって言ってなかったけ。」
「だから既成事実を作っとけば、真面目に勉強するでしょ?」
ん?なんか矛盾しているような気もするが……まあいいか。
「もう傷物よ!誰ももらってくれない!死んでも私と結婚しなさい!」
……まあ最初からそのつもりだからいいか。とりあえず春からは県立高校への進学が決まっていた。これから俺はここ名古屋を発ち、神奈川へと行くことになる。不安はない。俺には何を犠牲にしても、守りたい恋人がいるからだ。
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高速で名古屋の結婚式場へ向かう途中、2度パーキングエリアへ寄ったが、美咲が強く手を握って眠っていて、起こすのも気が引けたので、俺は車を降りることはできなかった。
美咲は一度寝たら全く目を覚まさない。エンジン音が切れただけで目が覚めてしまう俺とは対照である。