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End Of Edo ~幕末~  作者: 吉藻
第一章 江戸時代
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  二人の改革者

 5代将軍・徳川綱吉の時代に元禄文化が花開き江戸時代の太平の世というものが出来上がった。

 しかし、この時代で徳川家の資産はほぼ使い果たしてしまうことになる。

 6代将軍徳川家宣(とくがわいえのぶ)、7代将軍徳川家継(とくがわいえつぐ)の時代には新井白石あらいはくせきが活躍して正徳の治と呼ばれる政治を行った。

 正徳の治では長崎での貿易を制限して金銀の流出を抑えたが、幕府財政の悪化は止められなかった。


 徳川家継は5歳で将軍となり8歳で没した。当然ながら跡継ぎはいない。

 兄弟もいないために徳川宗家の血は途絶えた。

 これにより御三家から将軍を出すことになる。

 この跡継ぎ争いに勝利したのが紀州徳川家の徳川吉宗とくがわよしむねだった。

 吉宗は8代将軍に就任して享保の改革を推進した。

 この幕府改革で破綻しかけていた財政の復興などをしたことから中興の祖と呼ばれている。


 徳川吉宗は本来ならば紀州藩主になることも出来なかった。

 それが都合よく兄らが死んで行き繰り上がるように紀州藩主となる。

 将軍についても本命は御三家の尾張であったが、巧みな政治工作で自らが将軍となった。

 吉宗が将軍の座につくまで亡くなった人物は多い。これら全てが謀殺とは考えられないが偶然にしては重なりすぎだ。吉宗は将軍となった時に紀州からお庭番と呼ばれる側近を江戸城に連れて行っている。

 お庭番とは忍者であり彼らが吉宗にとっての邪魔者を排除した――――というのはさすがに伝奇小説の類だろうか。


 なお、紀州から連れて来た家来の中に田沼意次たぬまおきつぐの父がいる。田沼意次たぬまおきつぐは吉宗の子の家重の小姓となっていた。紀伊の下級藩士の子がやがて大名となり幕府を思うが侭に動かすこととなる。



 吉宗は将軍となると様々な改革を行っている。

 それは主に米の生産量を増やすことであり幕府財政を再建させるものだ。

 大奥のリストラを敢行して質素倹約を徹底して支出を抑えたりもしている。

 目安箱を置いて江戸の庶民からの意見を吸い上げて小石川療養所を作るなどしたのも有名である。

 これらを享保の改革という。享保の改革の前半はとても成功して幕府財政は回復した。


 吉宗は将軍どころか紀州藩主にもなれないはずだった。そんな立場から成り上がり将軍となったのだ。

 その上昇志向は人一倍強い。名君であるのは間違いないが権力に固執していたのもまた間違いない。

 吉宗は紀州徳川家の血を残したいと考えて御三卿を作った。

 田安徳川家・一橋徳川家・清水徳川家の御三卿である。苦労して得た将軍の座を尾張や水戸に渡したくは無く自分の血筋で染めようと考えたのだ。

 御三卿は領地を持たずに10万石相当の収入を支給されることになった。本家の血が絶えた場合は御三卿から養子を取るということで将軍に一番近い家格となるが、大名である御三家や親藩・譜代の大名と比較すると10万石で領地もないので力はない。

 いわば部屋住みが仕事をせずに給料だけをもらうというものだ。大奥をリストラして支出削減を徹底した吉宗も自分の子には甘く無駄金を使ってしまったということだろう。


 吉宗は延享2年(1745年)に隠居して将軍職を譲るも大御所として政治にかかわり続けた。

 寛延4年(1751年)に死去。




 享保の改革にて幕府財政の復興がなされたもの一時的なものでしかなく、吉宗が将軍職を退いて大御所となった頃から次第に財政は苦しくなっていた。享保の大飢饉などもあり財政は悪化の一途を辿っていく。

 吉宗の死後には享保の改革で蓄えた幕府の資金は尽きて財政は火の車となった。


 10代将軍徳川家治(とくがわいえはる)田沼意次たぬまおきつぐを側用人として幕政を信任する。

 田沼は悪化する幕府の財政赤字を食い止めるべく、重商主義政策を採った。それまでの重農主義とは対照的な大幅な改革である。これにより商人を優遇して専売を任せたりする一方で開拓などの資金を出させたり税金を取るなどで幕府財政を改善させた。田沼は江戸時代に資本主義社会を作り出し経済を活発化させたものの、賄賂が横行するなどしたことから朱子学を学び金銭を蔑む価値観の武士からは嫌われた。


 田沼の政策は現代から見ても利にかなっていて先進的である。

 しかし、そんな田沼に大きな試練が訪れた。天明の大飢饉だ。

 田沼の政策は天災の前に効果を思うように発揮できなかった。そして後ろ盾だった徳川家治が亡くなると共に田沼意次は失脚してしまうのである。


 徳川吉宗、田沼意次。江戸中期の二人の改革者を経てなお幕府財政は悪化の一途を辿った。


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