幕藩政治の完成
3代将軍徳川家光までの政治を武断政治、4代将軍徳川家綱からの政治を文治政治という。
秀忠・家光の強硬な武断政治により取り潰された家も多いが、2人の尽力により徳川政権は磐石となった。
家光の時代には幕藩体制がほぼ固まることになる。
親藩・譜代・外様の各大名を江戸に呼んで登城させる参勤交代の仕組みが出来上がっている。
親藩とは家康の血を引く徳川一門の大名のことだ。
家康の子を藩祖とする尾張徳川家・紀州徳川家・水戸徳川家の御三家は親藩となる。御三家は将軍家に跡継ぎがない場合は将軍を出すことのできる家柄だ。
8代将軍徳川吉宗の時代に出来た御三卿も親藩である。
吉宗の血を引く田安徳川家・一橋徳川家・清水徳川家がある。
他に家光の異母弟の保科正之を藩祖とする会津藩、家康の次男である結城秀康を祖とする越前松平家がある。
幕末には会津藩から松平容保、越前福井藩から松平春嶽が排出されている。
譜代とは家康の古参の家臣の大名のことだ。代表的な家とはしては徳川四天王の酒井忠次を藩祖とする庄内藩、本多忠勝を藩祖とする桑名藩、井伊直政を藩祖とする彦根藩などがある。
例外として真田信行を藩祖とする信州松代藩は本来ならば外様であるはずだが、信行の功績により譜代格を与えられていて老中を輩出さえてしている。
外様大名は関ヶ原の戦いの前後で家康の配下となった大名である。
加賀前田家、薩摩島津家、長州島津家、土佐山内家などがある。
元は大大名であった家柄が多いので石高が大きい家がいくつかある。それゆえに幕府に危険視されていた。
基本的に幕府の要職には譜代大名しかつけない。親藩が幕府の要職について力を持つとお家騒動に発展する恐れがあると考えたのだろう。
では、幕府の要職について語ろう。
譜代大名がつける幕府の要職というのは大老・老中・若年寄・寺社奉行・京都所司代・大阪城代などである。幕政は基本的に老中による合議制となっている。大老は臨時職であり名誉職であり通常は置かれない。
老中となって幕政を動かすのが5万石~20万石程度の譜代大名であり、任期は長くても一代で交代するために特定の一族が権力を握り続けることは難しい。将軍以外に権力が移らないように考えられたシステムである。
江戸城には参勤交代で参府してきた大名が控える間があり席順が決まっている。
この中で譜代大名の席が溜詰、帝鑑間となる。幕政に参加して老中となることが出来るのは譜代大名のみであることから溜詰、帝鑑間の大名が政治的意見を求められることは少なくない。
特に溜詰は譜代の中でも家格の高い家であるために江戸城での権威は高かった。
この溜詰筆頭が彦根藩の井伊家。幕末に大老井伊直弼を輩出する家である。
将軍に近い家柄の親藩、輪番制であるが政治権力を持つ譜代、石高が高い外様、このように権威と権力と実力が分離されているというのが江戸時代の幕藩体制の奇妙なところだろう。
4代将軍徳川家綱の後見人となった保科正之は武断政治を改めて文治政治を行った。
明暦の大火で江戸城の天守閣が燃えた時も江戸の復興を優先して天守閣の再建をしなかった。
江戸城は家康・秀忠・家光とそれぞれが自らの威光を示すために建て直されている。
徳川幕府にはそれだけの資金力と実力があった。また、それを諸大名に見せ付けなければならなかった。力で諸大名を抑えていたからである。
しかし、家綱の時代となると武力で諸大名を押さえつける時代から脱却をしなければならなくなっていた。
保科正之は天守閣を再建しないことで戦のない時代へなったことをアピールしたのだ。
そして5代将軍徳川綱吉の時代には元禄文化として民衆文化が花開くこととなった。
悪名高い生類哀れみの令も弱者保護や不逞浪人の追放、野犬を隔離しての衛生状態の改善などの目的もあった。
この法により戦国の荒々しい気風を無くし江戸の庶民は洗練されて田舎者から江戸っ子へと変化していく。
時代劇でイメージする平和な江戸時代はこの元禄時代以降といえるだろう。17世紀前半までは戦国の気風が残り不貞浪人が闊歩して辻斬りがあり町奴と旗本奴が殺し合いのケンカをしたりと殺伐としていた。
それを改めたのが文治政治でり生類哀れみの令だったといえる。
過ぎたるは及ばざるが如し。
犬を切り殺して死罪、馬を捨てた者を遠島、蚊を潰して解雇。
そしてお犬様を保護する巨大な施設を莫大な幕府予算で運営することになる。
生類哀れみの令が江戸の文化を作ったのは確かだが行き過ぎて悪法となったのもまた事実だ。
水戸藩の徳川光圀は生類哀れみの令に怒り綱吉に犬の毛皮を送ったという。
この綱吉の時代にあった大きな事件といえば赤穂浪士の討ち入りだ。
戦国時代から100年が経過して武士は軍人ではなく公務員になってしまった。そうは言っても武士とは元々は戦うことが仕事のであり徳川幕府とは軍事政権である。
太平の世でしかも文治政治を推進している中で武士の戦士としての牙は抜かれている。
そんな武士のアイデンティティが儒学であり忠孝の教えとなる。
赤穂浪士の討ち入りは儒学的観念からいうと忠義を果たしたことになり正義なのだ。しかし法治国家を作るには裁かなければならない。
そういうことで忠義の士である赤穂浪士を武士は褒め称え、生類哀れみの令で苦しんでいた庶民は面白い見世物として喝采を上げたのである。
宝永6年(1709年 )に徳川綱吉は亡くなる。
遺言で生類哀れみの令は続けるように言い残した。
後を継いだ6代将軍徳川家宣は綱吉の葬式が終わらない内に生類哀れみの令を撤廃した。
6代将軍徳川家宣、7代将軍徳川家継の時代は新井白石が政治を主導した。これを正徳の治という。
徳川家綱から徳川家継までの政治をまとめて文治政治としていて江戸時代の文化、もっと言えば日本人というものが作られたのはこの時代であると言えるだろう。