鎖国政策の始まり
徳川秀忠は家康の死後にその政務を受け継いで徳川家を磐石のものとしようとした。
国内の安定化と幕藩体制の強化が重要課題であり、キリスト教とキリシタンは不穏分子となっていた。
このことから貿易を長崎の平戸に限定するなどの処置を行っている。秀忠は家康ほど南蛮貿易に熱心ではなかったのだ。
外交顧問となっていたウィリアム・アダムスとヤン・ヨーステンは家康の死後の待遇はあまりよくない。2人は貿易に関する外交顧問というよりは西洋の知識を伝える知恵袋的な役割へとなっていた。
こうした情勢下でアダムスとヨーステンが死去すると幕府はますます貿易に制限をかけるようになる。
貿易に旨みがないと感じたイギリスは日本から撤退した。これは東インド会社に資本を集中させたかったからという理由もある。
そして幕府はキリスト教の普及に熱心だったスペインを来航禁止とした。
日本と交易している欧州の国はこれでオランダとポルトガルだけとなった。
寛永9年(1632年)に徳川秀忠は死去する。
3代将軍となったのは徳川家光である。
そして寛永14年(1637年)に島原の乱が起きた。
島原の乱の発生理由はキリスト教の弾圧と年貢の取り過ぎによる圧制である。
元がキリシタン大名の土地だったためにキリシタンが多い土地がらだった。新しい大名の松倉氏は厳しい年貢を取り立てると共に旧支配者の色であるキリスト教を消そうとした。幕府がキリスト教を禁止して改宗させようとしていたことから幕府への点数稼ぎとして拷問や死刑などの過酷な取締りをしたのである。
圧制と宗教弾圧。2つが重なったことで大掛かりな反乱へとつながった。
民衆は宗教という大義名分を得て圧制に立ち向かったのである。
時代は戦国の世から時はあまりたっていない。失職した浪人が多く治安が悪いのが江戸時代初期の問題であった。大阪の陣はその浪人をまとめて始末する意味合いもあったという。
そしてそれでも生き残っていた浪人らが徳川幕府に反乱を起こすために島原に集まった。
宗教戦争や百姓一揆というきっかけで始まった島原の乱は幕府転覆を狙う浪人たちが集まり凄まじい規模に膨れ上がった。
一揆軍は原城に篭城した。
キリスト教国であるポルトガルの援軍を待ったのである。ポルトガルも彼らに救援を出すかどうかの検討をしている。
キリスト教徒による大掛かりな内乱、成立したばかりの幕府の分裂、ポルトガルの援軍により日本植民地化。
島原の乱とはそのような危険をはらんだ内戦だった。
幕府は威信をかけてこの内乱を鎮めた。
そしてキリスト教と西洋列強による侵略の危険性を再認識した幕府はポルトガルの来航を禁止してキリスト教の弾圧をより激しくすることとなる。
ポルトガルは旧教(カトリック)であり布教に熱心だったことがある。欧州ではイギリス・フランスに押されておりアジアでは影響力を高めようとしていた。
オランダは新教(プロテスタント)であり欧州外への布教には熱心ではない。ポルトガルは商売敵であり宗派の違う敵対勢力といえた。宗教改革から100年も経っていないこの時期は同じキリスト教とはいえ対立の根は深い。
そういう事情があり日本との交易を続けたいオランダは幕府に協力して海上から原城に砲撃をしたという。
キリスト教国であるオランダからの砲撃により一揆軍の士気は下がり幕府の勝利につながった。
こうして幕府の勝利に貢献したオランダはポルトガルが追放された中で欧州で唯一の貿易国となった。
オランダは出島に居住を移して細々と貿易を続けることになった。
いわゆる鎖国体制の完成である。