徳川幕府の成立
幕末というものを語るにはまずは江戸時代について述べて見なければならない。
江戸時代は徳川家康が慶長8年(1603年)に征夷大将軍となったところから始まる。徳川慶喜が大政奉還をしたのが慶応3年(1867年)なので264年間続いたことになる。
当時のヨーロッパは宗教革命により新教(プロテスタント)と旧教(カトリック)が争っていて新教が優勢となる。旧教を国教としていたスペインとポルトガルは新興勢力に押される形で欧州の外に布教活動を始めた。そうして作られたのがイエズス会である。
イエズス会は欧州からアジアの東の果ての日本にまで普及に来る。欧州の知識や珍しい品を重宝した織田信長やキリシタン大名に保護されてイエズス会は勢力を広げた。そして日本とスペイン・ポルトガルによる南蛮貿易が栄えた。
天正10年(1582年)に本能寺の変で織田信長が死去する。
その地盤を引き継いで天下統一したのは豊臣秀吉だ。
天正15年(1587年)、秀吉はバテレン追放令を出してキリスト教の布教を禁止した。
この理由としては奴隷貿易で日本人を商品として輸出していたことやキリシタン大名が神社や寺を破壊して強制的な改宗を迫ったことなどがあげられる。
もっとも大きな利益をあげていた南蛮貿易を禁止するつもりはなく、キリスト教の普及を禁じていただけでキリスト教そのものは禁止していない。
慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は慶長8年(1603年)に征夷大将軍となり幕府を開いた。
その頃に日本にたどり着き家康に保護されたのがウィリアム・アダムスとヤン・ヨーステンである。アダムスはイギリス人でヨーステンはオランダ人だった。2人は家康の外交顧問となり働くことになる。
家康はアダムスとヨーステンの意見を取り入れてイギリス・オランダとの貿易を開始する。そしてその利益を幕府で独占した。家康はキリスト教とキリシタンを危険視していたが貿易は推奨するという立場である。
ウィリアム・アダムスは家康に気に入られ日本に帰化して三浦按針と改名した。
徳川家康は特にポルトガルとの貿易に力を入れていたようだ。
そしてアダムスとヨーステンを外交顧問とした上でイギリスとオランダとに新たに貿易を開始している。オランダとは江戸に近い浦賀で貿易をしようと検討もしていた。
これらから家康はかなりの貿易推進派だったことが分かる。
小さな田舎町だった江戸を大都市に作り変えて物流を作り上げる。家康は物流と貿易というものをよく理解していたといえるだろう。
鎖国政策は家康が始めた―――なんて誤解は家康も不本意に違いない。
徳川家康は将軍職を早い段階で2代将軍徳川秀忠に譲っている。
後継者争いを避けて徳川家が代々栄えるようにということだ。自らは大御所となり政治権力を手放してはいない。
そして秀忠の直系が途絶えた時のために自らの子を大名として保険とした。
これが尾張徳川家・紀州徳川家・水戸徳川家の御三家だ。将軍家から跡継ぎが絶えた時にこの三家から将軍を選ぶことにしたのである。
元和2年(1616年)、徳川家康没。