ペリーの琉球来航
1853年5月26日、ペリーは琉球王国に到着した。
ペリーは当初琉球を武力占領する予定だった。
しかし、戦争を避けたいフィルモア大統領の手により禁止される。そこでペリーは砲艦外交により琉球を支配下におこうと考えを変えていた。
琉球についたペリー一向は琉球政府に歓待される。
琉球の外交術として無駄に争わないというのがある。それゆえに清と薩摩の2国の支配化に甘んずることになっていたのだが。とはいえ島国で他国との交流も多くない。貿易相手の清と薩摩に面従腹背していれば他国から守ってもらえ軍も不必要となる。琉球王国としてはそれで不便はなかったのだ。
それが一変してくるのが十九世紀中頃からの西洋船の往来だ。これについては薩摩もどうすることが出来ずに頭を悩ませている。琉球としてはとりあえず持て成して交渉は後回しにして薩摩に丸投げするということになっていた。
この歓待も実は清の使節に対するものより格下であったりと琉球なりの思惑があったりするのだが、そこまで細かいことまではペリーには分からない。
その文化的で平和的な様子にペリーも毒気を抜かれて節度のある対応をした。また、琉球の建築物や文化を見て単なる野蛮国でないことを理解したということもある。
十九世紀ともなると国際的に大義名分がないと武力行使は出来ない。もっとも文明が発達してない野蛮国なら占領しても良いという先進国のエゴが通用する国際ルールであるが。
ペリーは日本開国への拠点として琉球を利用する考えは変わらない。
歓待を受け滞在を許されたことで拠点として利用することに何の問題もなかった。
ペリーは琉球を拠点としてまずは小笠原諸島の調査へと向かうことにした。
アメリカは太平洋上の拠点として小笠原諸島を手に入れようと考えていたのだ。
ところが小笠原ではイギリス人が既に上陸しており領有権を主張していた。ペリーはこれに抗議してもめることになる。小笠原の領有権に関してはアメリカ・イギリス・日本も含めてしばらく問題となって行く。
それについては後で述べよう。
さて、この頃の幕府はどうだったのだろうか。
実はかなり弛緩した空気が流れていたようだ。
オランダがアメリカ艦隊が来ると予告したのは春だった。3月には到着するだろうとオランダからの報告書にはあった。それが4月に入ってもアメリカが来る様子はない。やはりオランダの情報はあてにならない。そういう空気になったのだ。
ペリーが琉球に到着したのは和暦では嘉永6年4月19日である。
この情報が薩摩経由で江戸城へと届けられたのは4月末くらいであろうか。
そして江戸城は再び騒ぎとなった。
しかし、今更どうしようにもない。準備するにも時間がなさすぎた。まるで夏休みの宿題が終わらずに8月31日に慌てる小学生のようだ。
困った幕府であるがビドルをやマリナー号を追い返した成功体験を思い出していた。
現場がなんとかしてくれるはずだという楽観論である。
楽観論を完全に信じているわけではないがそれに縋るしかなかった。今さら手を打てる策などなかったのだ。
それでもペリーの来航の情報を浦賀奉行止まりにして防備を徹底させていないところに幕府の甘さがある。
ペリーは小笠原諸島を探索した後で再び琉球へと戻ってきた。
そして1853年7月2日、嘉永6年5月26日。
ペリー提督率いる4隻の艦隊は江戸に向けて琉球を出発したのである。
太平洋側を北上して江戸へと向かう。
1853年7月8日、嘉永6年6月3日。
ペリー率いる4隻の軍艦は浦賀沖に到着した。




