万次郎と吉田東洋
土佐藩主となった山内容堂は藩政改革にも意欲を燃やしていた。
分家出身である山内容堂は藩上層部に側近といえる人物がいない。そんな中で目をつけた人物が吉田東洋だった。吉田東洋の身分はそれほど高くは無い。だがそのような人物こそが旧弊にとらわれずに改革を断行してくれると考えた。
吉田東洋は天保12年に家督を継ぐと奉行として藩政改革に従事していた。
山内容堂が藩主となる前から改革派だったのだ。
そして嘉永6年に大目付となり藩政改革に本格的に携わっていくことになる。
話は少し戻る。
嘉永4年9月に薩摩を出立したジョン万次郎は長崎に到着した。
そこでアメリカのスパイではない危険思想を持っていないかということを長崎奉行に取り調べられた。それは半年以上も続く長い尋問だった。
万次郎は洋書などを日本に持ち込むなどしており本心では開国するべきだという政治的思考を持っていた。しかしそれが知られると罰せられる。斉彬のような聡明で公平な人物でないと本心はあかせない。
無知な漁師を演じながら尋問をやりすごしていくのだった。
嘉永5年6月、万次郎は土佐への帰国を許される。
しかし故郷にはすぐに帰れない。土佐藩の尋問が待っていた。
万次郎はひとまず絵描きの河田小龍の家へと預けられることになる。
そして城に呼ばれてはアメリカでの生活のことを質問された。
その取調べをしていたのが吉田東洋だ。
万次郎はアメリカで学校を卒業した知識人である。
しかし日本では漁師の子であり14歳のときに漂流した。
それゆえに日本人としての礼儀や知識が欠けていた。
河田小龍はそんな万次郎に語学と礼儀を教えた。その代わりに万次郎に英語を習う。また、アメリカでの話を万次郎から聞いた。
河田小龍はアメリカの民主主義の話に酷く驚いて啓発された。生活様式や文化などについても詳しく聞く。
そしてその話を『漂巽紀略』という本にまとめたのだった。
この本は知識人に好まれてまたたくまに江戸まで広まった。日本人の視点からアメリカ文化を見た書物というものは貴重な資料でもあった。
高知城で万次郎を尋問した吉田東洋は万次郎の見識を見ぬいていた。
万次郎は慎重に話をしていた。島津斉彬のように東洋のことを信用できなかったのだ。
それでも東洋はアメリカでの生活や文化のことを万次郎に尋ねる。
万次郎は平凡な漁師を装いながらもアメリカの情報を伝えた。
尋問は3ヶ月に渡った。
万次郎と東洋の間には常に緊張感があった。
答えを間違えると首を落とされかねないという恐怖が万次郎にはある。
一方で東洋は万次郎をどう扱うか決めかねていた。
しかしこの3ヶ月において彼の思想は固まっていた。
開国・貿易推進。
土佐において1人の開国論者が生まれた。
山内容堂に目をかけられていた吉田東洋は当然のように主君に自らの考えを述べる。
こうして山内容堂と土佐藩は開国論に傾いていくことになる。
吉田東洋の尋問が終わった万次郎はようやく解放された。
嘉永5年10月。12年ぶりに故郷の中浜村に帰ることが出来た。
万次郎26歳のことだった。




