幕末人物ファイル005
嘉永5年時点での年齢と実績
*** 江川英龍(52歳) ***
伊豆韮山代官。
若い頃に江戸に遊学して斎藤弥九郎と親しくなり練兵館の設立に手を貸している。
天保6年(1835年)に代官職を継いだ。斎藤弥九郎は江川への恩から配下として代官職を手伝っている。
天保の大飢饉のおりに身分を隠して斎藤弥九郎と2人で探索に出かけて天保騒動の収拾を図った。
天保の大飢饉においても領民を助け「世直し江川大明神」と呼ばれるほどの善政を敷いた。
剣術家、政治家として有能な江川は学者としても傑出していた。蘭学者グループの尚歯会と交流して知識を増やす。一方で蘭学を嫌う鳥居耀蔵と敵対したために尚歯会は蛮社の獄で潰された。
天保の改革にも手を貸して幕府の海防強化を図るも水野忠邦の失脚と共に幕政から遠ざけられた。
江川は西洋砲学を収めると江川塾を開いて多くの若者に西洋砲学を普及させた。佐久間象山・大鳥圭介・橋本左内・桂小五郎が彼の門下にいる。
嘉永2年(1849年)にイギリスのマリナー号が浦賀で無断測量していたのを追い返したことで阿部正弘からも信頼を得た。
農兵の育成や反射炉の建設など代官の枠を超えて日本の近代化をリードしていく人物である。
*** 毛利敬親(34歳) ***
天保8年(1837年)に長州藩主となる。村田清風を登用して藩政改革を断行するも急激な改革に反対する守旧派にも配慮してバランスを取りながら藩政改革を進めていく。
複数の派閥を重用して部下任せにしたことから後世では「そうせい公」とも揶揄されることもあるが、大きな混乱も無く藩政改革を終えて藩の財政を再建させた手腕は見事であり、類稀なる政治バランス感覚を持っていたのだろう。
藩士の育成にも余念がなく藩校明倫館の改革をも断行した。年少の吉田松陰の才覚にも惚れこみ自らが弟子であると公言することで能力主義であることを印象付ける。
長州藩は武士の中の身分の上下にうるさくない藩風であったが敬親により風通しが更に良くなったのだ。
しかしそれは若い長州藩士の暴走を藩が容認して抑えられなくなることにも通じることになる。
*** ジョン万次郎(26歳) ***
土佐の猟師だった万次郎は天保12年(1841年)に漁に出て嵐に遭い遭難した。
そこをアメリカの捕鯨船が救助してくれたが当時は異国船打払令があったので日本沿岸に近づくことが出来ずに万次郎らはハワイへと連れられて行った。
そこで船長のホイットフィールに気に入られた万次郎は共にアメリカ本土まで行くことになる。
ホイットフィールの養子となった万次郎は高等教育を受けて優秀な成績を収めた。
嘉永3年(1850年)に日本に帰国するを決意。金を貯めてハワイに行き共に漂流した仲間と再会した。
嘉永4年(1851年)に琉球にたどり着いた万次郎らは薩摩藩の役人に取り調べられる。そして薩摩に送られた万次郎は開明的な大名の島津斉彬に出会い意気投合した。
その後に長崎に送られて故郷の土佐に帰るのは嘉永5年6月となる。
*** 一橋慶喜(16歳) ***
徳川斉昭の息子で幼少期から聡明で可愛がられていた。
弘化4年(1847年)に御三卿の一橋家を相続。一橋慶喜を名乗る。
*** 孝明天皇(22歳) ***
第121代天皇。弘化3年(1846年)践祚した。
海外の脅威に敏感で海防勅書を幕府に対して出して海防強化を促した。
江戸時代において天皇が幕府に命令するというのは極めて異例であったが、老中首座の阿部正弘は問題にせずに返事を返した。これにより朝廷が幕府に意見する前例を作った。
*** 村田蔵六(28歳) ***
長州藩の村医者。
長崎で医学と蘭学を学んだ後で大阪の敵塾に入り緒方洪庵に学ぶ。
敵塾で主席となるほどの能力を発揮したが故郷に帰り村医者となった。
*** 会沢正志斎(71歳) ***
水戸藩士。
新論を書き尊皇攘夷の思想を水戸藩に広める。尊皇攘夷の第一人者として日本中に知られている。
徳川斉昭を藩主にする運動に参加して側近となった。
*** 藤田東湖(47歳) ***
水戸藩士。
水戸学の中興の祖である藤田幽谷の子。水戸学の中心人物。
徳川斉昭を藩主にする運動に参加して側近となった。




