ペリーとプチャーチンは出航する
マシュー・ペリーは日本を武力で脅して開国させようと考えていた。
ビドルが穏健に開国を打診して追い返されたこともあり砲艦外交は規定路線だった。
しかし最終的に武力を行使することはフィルモア大統領に固く禁じられていた。アメリカは民主国家だ。いくら大統領とはいえ軽々しく他国と戦端を開くことは出来ない。当時は西部開拓真っ只中であり先住民とも争っていた。捕鯨組合の突き上げにより日本開国をペリーに命じるも穏便にすませたかった。
ペリーとしては武力を背景に幕府に開国を迫りながら決して戦争をしてはいけないというギリギリの交渉をしなければならなくなっていた。
ペリーは「それならば琉球を占領して日本遠征の拠点にしてはどうか」と大統領に提案したが、それも却下された。
1852年11月24日、嘉永5年10月13日。
ペリーはノーフォーク港を出向して日本へ向けて旅立った。
ノーフォーク港はアメリカ東海岸のニューヨークの南にある。ペリーは大西洋を横断して東回りで地球を半周して日本へと向かったのだ。太平洋を横断したわけではない。
さて、アメリカが日本を開国させようとペリーを送り込もうとしていたわけだが、その情報を聞いて焦っていたのはロシアだ。
18世紀から日本と因縁のあるロシアは日本を開国させるのはロシアであるべきだという考えがあった。
そのためにプチャーチン提督に全権を与えて日本開国のための全権大使にしていた。
プチャーチンがロシアを出発したのはペリーがアメリカを出立する1ヶ月ほど前になる。
捕鯨組合の支援を受けるもアメリカの民意全てを背負っているわけではないペリーとロシア皇帝から命じられて全権を委任されたプチャーチン。
しかしプチャーチンの方にも問題があった。
ロシアは冬でも凍らない港、不凍港を欲していた。日本を開国させて国境線を決めようというのもアジアの東部に港を持ちたいからである。しかしそれ以上に西側に不凍港が欲しい。
そこで狙っていたのがクリミアだ。
黒海に面するクリミアは冬でも凍らない港がある。その地をオスマントルコから譲り受けようとしていた。
それに反発していたのがイギリスとフランスである。
この時、ロシアはイギリスとフランスとの間に深刻な外交問題をかかえていたのだ。
結論から言えばこの1年ほど後に本格的な武力衝突が始まりクリミア戦争が始まることになる。
正式な開戦は1853年の10月からとなるのであるが、1852年からすでにロシアとオスマン帝国の間は緊張していてイギリスも介入する気満々であった。一触即発であったといえよう。
プチャーチンは戦争が起こりそうな緊張した国際関係の中で出発した。そのためにロシア本国からの支援はあまり望めなかったのだ。そう言う点でいえばペリーと同様である。
ペリーより1ヶ月早く出向したプチャーチンであるがイギリスで足止めをくらい逆に2ヶ月ほど遅れてしまう。
これは開戦前のことであるのでイギリスの妨害があったのか別のトラブルで遅れたのかのは定かではない。プチャーチンは先行するペリーを追いかけ続けることとなる。




