ペリー来航予告
嘉永5年(1852年)6月5日、長崎の出島に新しいオランダ商館長が来航した。
ヤン・ドンケル・クルティウス。彼は最後の商館長になる男だ。
クルティウスは到着すると長崎奉行にオランダ風説書、別段風説書というものを渡す。これは海外の情報を記して報告するのもだ。
これにはアメリカが艦隊を率いて軍事力を背景に開国を要求してくるということが記されていた。責任者がペリーであることや来日の時期が翌年の春頃であるということも記されている。
この情報は直ちに江戸へと届けられた。
幕府の老中らはこの情報を受け取り会議を始めた。
さて、これまでは阿部正弘以外の老中についてはモブ扱いで名前は出さなかった。今後の出番も多くはないと思うが一応全員の名前を出しておこう。
老中首座の阿部正弘を筆頭に松平忠固・久世広周・牧野忠雅・松平乗全の以上の5人である。
幕府の重大事項のほとんどを5人だけで決める。そういうシステムであった。
江戸城には多くの大名・旗本が登城しており、彼らの意見を幕政に取り入れることもある。
その場合にも序列があり将軍家の縁戚である大廊下、有力譜代大名は溜詰などの部屋にいる大名に意見を尋ねることになっていた。
阿部正弘が隠居した徳川斉昭や外様大名の島津斉彬を政治顧問としていたのは彼個人が特別にしていたことであり幕府が意見を求めていたわけではない。
幕府の上層部による意見はまとまらず、長崎奉行を呼ぶこととなった。
阿部正弘は老中になった頃こそ海防について疎かったが、既に9年の時が過ぎている。
老中首座となってから7年だ。その間に海防掛となり海外の情報を学んだ。徳川斉昭や島津斉彬といったブレーンから話を聞くことで危機感は強くなっていた。しかし、彼以外の老中の危機感はそれほど強くない。
ジェームズ・ビドルが来航して開国を求めてきた時に追い払ったのが自信になったと思われる。
それは阿部正弘にもなかったわけではない。彼自信にしてもどこかアメリカを舐めていたところがあったかもしれない。
「オランダ風説書は全てが事実とは限りません。彼らは自分の都合の良いように話すことがあります」
長崎奉行はこう言った。
ペリーが艦隊を率いて来航するという報告が嘘だと言ったわけではない。嘘の可能性がある。と言っただけだ。
見事な詭弁であり保身であるが、これは老中たちが聞きたかった言葉なのである。
人は自分が聞きたいことを聞きたい。自分に都合の良いことを信じたいのだ。
こうして幕府の方針としてペリーの来航には備えない。無視するということが決まった。
阿部正弘は疑問に思う。
彼自身もどこか楽観的なところがあったが、それでも何の準備もしないというのはどうかと考えたのだ。
阿部正弘は浦賀奉行の人事の変更を行い優秀な人物をその地位につけた。
そして彼らにペリー来航予告のことを伝えて準備するように言う。
だが、その情報は浦賀奉行に留まり現場の人間には伝えられていないという中途半端さであった。
また極秘であったペリー来航に関する情報を島津斉彬、黒田長溥、鍋島直正などに伝えた。
彼らの意見を聞きたかったのである。
海外の情勢に詳しい彼らはオランダの報告が事実であると考えた。
そして武力による開国を迫ってきた場合に幕府はそれに対抗できないということを理解していた。
3人は阿部正弘を説得して幕府の方針を変えるように言う。
しかし一度決まったことを変えるのは困難であった。




