ペリーとシーボルト
1847年に米墨戦争に勝利したアメリカはカルフォルニアを手に入れた。
ここで金が取れることでゴールドラッシュが起きて西部劇でおなじみの時代になるわけだが、カルフォルニアを手に入れたということはアメリカ西海岸に到達したということであり、西海岸から太平洋に向けて捕鯨船が多く出航することになる。
当時のアメリカでは鯨油は貴重な資源であり捕鯨が活発だった。
鯨油が目的なために鯨肉は食べずに海に捨てていたという話がある。
そして太平洋で捕鯨をするアメリカの捕鯨船は鯨を求めてどんどん西へ進んだ。やがて日本にたどり着く。捕鯨船の補給基地が欲しいアメリカにとって日本の立地はとても重要なものとなってきたのである。
1846年に東インド艦隊司令官のビドルが通商を求めて追い返されたということがあった。
アメリカ合衆国はその教訓から日本を開国させるための準備を丹念に行っていた。
アジアの植民地化において欧州から遅れをとっていたアメリカは日本を狙っていたのだ。それが捕鯨船の補給基地という必要性が加わったことにより世論も日本の開国を求め始めた。
1849年にジェームズ・グリンが日本に漂流したアメリカ人船員を保護した。
彼らは日本で酷い目にあったということを帰国後に話す。それが日本が漂流したアメリカ人を虐待したという噂となり、野蛮国の日本を開国させるのが正義だという世論が流れ始める。
一方でラナルド・マクドナルドが日本は文明国であると主張をして注目を集めた。
野蛮国にしろ文明国にしろ太平洋で捕鯨をするには日本を寄港地として補給をするのが安全である。万が一難破した場合も日本で保護してもらえれば助かる。
こうしてアメリカでは日本に開国を求めようという機運が高まった。
この世論を受けて1851年に東インド艦隊司令官に任命されたジョン・オーリックが日本を開国させるために出航した。
しかし、部下と揉めてクビになった。
そしてオーリックの次に東インド艦隊の司令官となったのがマシュー・ペリーであった。
ペリーには米英戦争で活躍して英雄と呼ばれていた兄がいた。
そんな偉大な兄を超えたいと考えていたペリーにとって日本遠征の任務は渡りに船だった。
なんとしても成功させたいとペリーは考える。ペリーは勉強家であり日本遠征を完璧なものとするべく日本の情報を集めて計画を練っていた。
そんなペリーのところに1人の男が現れる。シーボルトであった。
シーボルトは日本研究者の第一人者だ。
結婚してしばらくは第一線から退いていたが、ロシアやアメリカが本気で日本開国を目指しているという情報を得て活動を再開したのである。
シーボルトは日本との通商を求めるロシアに招かれることになった。
ロシアは18世紀末から日本との通商を求めていた。
ユーラシア大陸を横断して東海岸まで到達していたロシアからすれば欧州国家であると同時にアジア国家でもある。日本の隣国なのだ。
それが最近になって欧州各国が日本に興味を持ち始めたことでロシアに焦りが生じる。
隣国であり長い交渉の歴史のあるロシアが遅れを取ってよいものかと。
こうしてロシアは日本を開国させて通商条約を結ぶということを国家プロジェクトとして本気で始めることにしたのだ。その顧問としてシーボルトを招待した。
シーボルトはロシアにて日本に関する情報を伝えアドバイスをした。
日本を愛するシーボルトは穏便で平和的な交渉を望み、ロシアもそれを承諾した。
そして日本へ交渉しに行く責任者をプチャーチン提督に決定した。
ここまではシーボルトの思惑通りである。
しかし日本へ行きたかったシーボルトの要望は叶えられなかった。
失意のシーボルトは日本の開国を目指していると情報のあるアメリカへと向かうことにしたのだ。
シーボルトはペリーに自分を日本遠征に連れて行くことを頼んだ。
しかしペリーは相手にしない。
「君は日本を国外追放になっている身だ。そんな人物を連れて行けば日本政府との交渉に悪影響が出るかもしれん」
実に正論だった。
それでは日本との交渉の内容についてのアドバイスをしようとするも一蹴された。
穏健な開国を望むシーボルトと違いペリーは軍事力による脅しで開国させようと考えていたのだ。
話は平行線で交わるわけがない。シーボルトはペリーに追い返されてしまった。
後に平和的外交を行ったプチャーチンと砲艦外交を行ったペリーを比べてシーボルトはこう語る。
「日本を開国させたのはプチャーチンでペリーはその露払いにしか過ぎない」
日本を開国させたマシュー・ペリーの評価と知名度はアメリカではそれほど高くない。
シーボルトの意趣返しが影響しているのかどうかは定かではない。