表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
End Of Edo ~幕末~  作者: 吉藻
第二章 幕末前夜
41/61

  緒方洪庵の適塾

 緒方洪庵おがたこうあんは武士であり医師であり蘭学者である。

 天保7年(1826年)にナガサキに留学してオランダ人医師から医学を学ぶと、天保9年(1828年)に大阪で適塾を開いた。

 蘭学と医学を教える塾であったが、緒方洪庵の名声が高まるに連れて門下生が増えて弘化2年(1845年)に移転する。

 緒方洪庵の名声は高くなり天下でも有数の蘭学者と噂された。そして優秀な門人が集まってくるようになった。

 彼らは幕末・明治の世で名を成していくことになるのだ。



 久坂玄機くさかげんきは長州藩の医師で弘化4年6月に緒方洪庵の適塾に入る。そして嘉永元年3月に塾頭となった。適塾の前期を代表する門下生だ。

 久坂玄機は長州藩に帰国後に数々の建白書を藩に書き送っている。

 それは西洋列強の危機から国を守るために必要なことを書き連ねていた。

 藩医でしかない久坂玄機であるが、長州藩は有能な若者に寛容である。彼はその見識から長州藩でも注目される存在となる。

 だが、時代が動き始めた嘉永7年2月に若くして死去してしまった。

 彼の志は弟の久坂玄瑞くさかげんずいに影響を多く与えることとなる。そして久坂家を久坂玄瑞が継ぐことで彼が世に出てくることになる。



 久坂玄機の後に塾頭となったのが村田蔵六むらたぞうろくだ。

 彼も長州藩出身であるが、玄機は藩医であり藩主にも覚えが良かったのに対して、蔵六は鋳銭司すぜんじ村という村の村医の息子でしかない。

 しかしその合理的な思考能力と鋭い洞察力でまたたまく間に蘭学や医学を理解して適塾でも随一の才能を見せた。緒方洪庵も適塾で最高の実力の門下生だと絶賛してどこの藩に仕えても成功すると確信していたが、蔵六は出世にもサムライにも興味がなく日本有数の蘭学塾でトップの成績だったにも関わらず田舎に帰り村医者になってしまった。



 嘉永元年には佐野常民さのつねたみが入塾する。

 佐賀藩の藩医の家に養子に入り医者の道を志していた。適塾で蘭学を学び村田蔵六らと知遇を得た後で江戸に移り佐久間象山の塾で学んでもいる。

 後に佐賀の七賢人と呼ばれることにもなる人物である、



 同時期に武田斐三郎たけだあやさぶろうも入塾していた。

 武田斐三郎は塾頭ともなりその才を緒方洪庵に認められてもいる。

 後に江戸で佐久間象山にも学んだ。また、黒船来航の折に佐久間象山・吉田松陰らについて浦賀に黒船を見学に行っている。


 他に橋本左内はしもとさない大鳥圭介おおとりけいすけが適塾で蘭学と西洋医学を学んでいる。

 福井藩士の橋本左内は適塾で学んだ後で江戸では杉田成卿すぎたせいけい(杉田玄白の孫でこの時代随一の蘭学者)にも学んだ。そして藤田東湖などと交流を持ち水戸学にも傾倒して行く。

 その能力は福井藩主の松平慶永の目に留まり側近として登用されて行くこととなる。

 大鳥圭介は安政元年に江戸に出て更に軍学・工学を学び名を上げていく。



 彼らは幕末という時代で大きく羽ばたいていくことになるのだ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ