長州藩と吉田寅次郎
長州藩というものについて簡単に述べる。
幕末に主役に躍り出る藩というのはそれ以前に藩政改革が上手くいっているものだ。
長州藩についてもそれがいえる。
天保8年に18歳の若さで藩主となった毛利敬親は村田清風を抜擢して藩政改革を行った。
毛利敬親という殿様はそうせい候と揶揄されることが多い。
定見がなく部下の意見をそのまま受け入れるからだ。長州藩は風土として藩士の自主性を尊重して人材を育てる風土があったからかもしれない。
村田清風の改革が厳しすぎると批判が起こると彼を罷免して保守派を重用する。しばらくして財政再建の必要性が高まると村田清風を再抜擢する。このように改革派と保守派の間をふらふらしていた。
しかし、毛利敬親のこうした政策により長州は大きな混乱も無く藩政改革を成し遂げることになる。
敬親は皆を引っ張り指導するタイプの藩主ではないが複数の意見を比較してバランスを取るのに長けた政治家であったのだろう。
この改革により長州藩の財政は改善されて幕末の働きに直結することとなる。
また彼の後を継いで改革を推進した周布政之助が率いた改革派は後に正義派を名乗り維新の立役者となっていくこととなる。同時に保守派となる椋梨藤太も頭角を現して周布と交互に藩政を取り仕切ることとなる。
毛利敬親は人材を見ることに長けており有能な人材に藩政を委ねることで長州藩の政治を行っていた。
天保11年。
毛利敬親は神童と呼ばれる少年の講義を受けた。
その少年の講義は素晴らしく賞賛した。
その少年こそ吉田寅次郎である。
この時、敬親は22歳、寅次郎は11歳だった。
藩主から最大限の評価を受けた寅次郎は子供の身ながら藩校明倫館の兵学教授として出仕することとなる。
吉田寅次郎は軍学師範だ。軍の編成や戦術を教える教授である。その軍学は戦国時代よりある山鹿流であった。
天保13年。軍略を学び教えていた寅次郎へある報が入る。
アヘン戦争にて清がイギリスに負けたというものだ。
この事実が寅次郎を打ちのめした。そして山鹿流が時代遅れの学問であり列強と戦うには新たな学問が必要であると考えたのだ。
こうして軍学者・吉田寅次郎の勉学の日々が始まった。
嘉永2年には寅次郎は再び毛利敬親の前で講義をしている。
毛利敬親は11歳年下の少年を高く評価して目をかけていた。自らの学問の師と呼んで尊敬の念を抱いていた。
この少年が長州藩に嵐を呼ぶことはこの時の敬親には想像だにしていない。
吉田寅次郎は学問を深めるために諸国を旅する許可を求めていた。
現代のように情報が日本中を巡る時代ではない。知識を求めようとすれば旅をするしかなかった。
江戸時代の学者というものは若い頃に旅をしているものである。
寅次郎の願いは許可された。彼は旅に出て全国の高名な学者と意見を戦わせ最新の書物を得て知識を増やして行く。そうするごとに西洋の技術と軍略を取り入れた新しい軍学が必要だという考えが強くなった。そして西洋列強に対する危機感を強めていくのだった。
嘉永3年には九州遊学の途中で立ち寄った熊本で宮部鼎蔵と出会う。
宮部とは生涯の友となった。
嘉永4年には江戸で佐久間象山に出会い象山塾に入門することになる。
佐久間象山の同門としては勝海舟がいた。
佐久間象山の思想に触れて寅次郎は単純な攘夷ではなく西洋列強の知識を学び取り入れる必要性というものを感じ入ることになった。
この頃から寅次郎は松蔭という号を使うようになったようだ。




