幕末人物ファイル004
嘉永3年(1850年)時点での年齢と実績
*** 徳川斉昭(51歳) ***
文政12年(1829年)に藩主である兄の斉脩が病となると次期藩主を巡り藩内で対立が起こる。
斉昭はそれを制して藩主となり、自らを擁立した藤田東湖らを抜擢して藩政改革を行う。
数々の強引な改革に敵を作った斉昭は藩内の門閥派や寺社勢力から反発を受けて弘化元年(1844年)に強制隠居と謹慎処分を幕府から受けた。
しかし、斉昭が先進的であることから謹慎処分はほどなく解けて阿部正弘の相談役となる。そして嘉永2年(1849年)に藩政関与が許された。
阿部正弘のブレーンとして幕政にも意見を述べ、水戸藩の藩政改革を推し進めている。
*** 阿部正弘(32歳) ***
天保7年(1836年)に備後福井藩の藩主の座を継ぐ。
天保11年(1840年)に寺社奉行となると大奥と僧侶の醜聞発覚の事件に出くわす。正弘はこの事件をうまく処理することで大奥の姉小路と将軍家慶に目をかけられることになった。
大奥と将軍の後見を得た正弘は天保14年(1843年)にわずか25歳で老中になるという異例の出世を果たした。
天保15年(1844年)の江戸城火災の後始末に活躍して更なる大奥と将軍から信任を得た。
そして復帰した水野忠邦を追い落として自らが老中首座となる。
老中首座となった阿部正弘は徳川斉昭、島津斉彬、松平慶永をブレーンとすると他の老中と協力して幕政をまとめた。
自らが海防掛となり異国の脅威に備えている。
*** 松平慶永(23歳) ***
田安徳川家の子として生まれ天保9年(1828年)に越前福井藩に養子に入り後を継ぐ。
幼少にて藩主になるも中根雪江らの改革派を重用して藩政改革を行う。
その聡明さは藩内外にも知れ渡り、老中首座の阿部正弘からも一目置かれている。
*** 島津斉興(60歳) ***
薩摩藩10代藩主。
文化6年(1809年)に父・斉宣と祖父・重豪のお家騒動である近思録崩れが起きて、斉宣が強制隠居させられて斉興が藩主の座を継いだ。祖父・重豪は死ぬまで権力を手放さずに斉興は傀儡だった。
天保4年(1833年)、重豪が死すと斉興は大胆な藩政改革を行い薩摩藩の財政を改善させた。
嫡男の斉彬は祖父・重豪の薫陶を受けていたために藩の財政を悪化させかねないと考え、側室腹の久光を跡継ぎにしようと考えた。
薩摩藩は次期藩主に久光を推す斉興派と斉彬を推す斉彬派へと別れている。
*** 島津斉彬(42歳) ***
薩摩藩主・島津斉興の子として江戸生まれの江戸育ち。曽祖父の島津重豪の薫陶を受けた。
西洋文化や西洋科学に幼少の頃から触れており広い視野を持つようになる。
英明さは広く知られるようになり老中首座の阿部正弘からも一目置かれている。
一方で父の島津斉興から敵視されている。
*** 黒田長溥(40歳) ***
父は元薩摩藩主の島津重豪。島津斉彬の年下の大叔父である。
天保5年(1834年)に筑前福岡藩の藩主となる。
藩政改革を行い藩財政の建て直しと西洋技術の導入による近代化を行った。
海外の情報に詳しく島津斉彬と懇意なことから阿部正弘とも親交が深い。
*** 鍋島直正(37歳) ***
天保元年(1830年)に佐賀藩主となる。
藩政改革を行い破綻していた藩財政を好転させた。藩校を拡充して優秀な人材を育成して登用している。種痘の導入や反射炉の建造などの先見性を持った改革を次々としている。
長崎の防衛に感心を持ち砲台を築くことを幕府に進言して阿部正弘に注目された。
海防に強く西洋の技術知識に長けている大名として阿部正弘に頼りにされている。
*** 伊達宗城(33歳) ***
天保15年(1844年)に宇和島藩主となる。
前藩主が藩政改革していたのを継続して藩を更に発展させる。蘭癖大名と呼ばれるほどに西洋に精通しており好奇心旺盛だった。
脱獄して幕府に追われていた高野長英を匿い洋書の翻訳をさせたり砲台設置の設計をさせたりして宇和島藩の防備向上を図った。
阿部正弘とも親交が深い。
*** ラナルド・マクドナルド(27歳) ***
1824年生まれ。
子供の頃に日本人漂流民の音吉と出会ったり、インディアンの親戚に自分達のルーツは日本人だと教えられたことを信じて日本に憧れを持つ。
1845年に捕鯨船の船員となり日本へと向かった。
1848年に日本に密入国すると漂流者を装い長崎へと送られた。
長崎で取り調べの最中に通訳の森山栄之助と意気投合して彼に英語を教えることになる。それがきっかけでオランダ通詞14名に英語を教えることとになった。日本初の英語学校といえる。
ところが半年後に長崎にアメリカ軍艦が入港して漂流者をアメリカに帰すことになった。
マクドナルドは残留を希望するが却下されて帰国することになる。帰国後は日本が文明国であることを伝えて日本研究者として注目されることになる。
1894年に死去。




