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End Of Edo ~幕末~  作者: 吉藻
第二章 幕末前夜
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  反射炉と種痘

 佐賀藩は鍋島直正の元で近代化政策を行っていた。

 藩校弘道館を拡充して優秀な人材を育成している。

 西洋の知識を取り入れた近代化の一方で武士の価値観を徹底的に教え込んだ。


 嘉永2年には種痘を自らの息子に施して普及に努めた。

 種痘とは天然痘ワクチンのことである。

 18世紀末から19世紀前半にかけて数度に渡り日本でも種痘を普及させようとする者がいた。

 天然痘は不治の病であり当時の日本にとっては恐ろしいものだった。それを予防することが出来るのが種痘である。

 種痘は天然痘の菌を薄めて体内に入れて免疫をつけるというものだ。それゆえに体内に病原体を入れるという忌避感や種痘が手に入りにくい状況、また100%成功するわけでもないという事情から普及が難しかった。


 オランダ人医師のオットー・モーニッケが種痘を長崎に持ち込み佐賀藩はそれを取寄せた。

 その種痘を藩主が率先して自分の息子に受けさせて皆がするようにと布告を出したのだ。

 これで佐賀藩に種痘が広まった。これはある意味で臨床実験ともいえるだろう。佐賀藩の種痘の成功を受けて各地に種痘が広まっていくことになる。

 この佐賀藩で種痘を広めるのにシーボルトの弟子だった伊東玄朴いとうげんぼくが貢献している。

 これを期に種痘は全国に広がることになり大阪では適塾を開いた緒方洪庵おがたこうあんがいち早く種痘所を開いて種痘の普及に励んだ。




 佐賀藩では兵器の近代化にも着手している。

 旧来の大砲は青銅製だった。

 これだと外国の鋼鉄製の大砲と比べて飛距離が格段に違う。

 大砲を量産するのであれば最新式の物を作らないと時代遅れとなり全く役に立たない。

 しかし日本では鋼鉄を精錬する施設が存在しなかった。

 大砲を作るには鋼鉄を作る施設を作らなければならなかったのだ。


 それが反射炉である。



 佐賀藩主・鍋島直正は反射炉建設を始めていた。長崎に砲台を設置する案を幕府に却下されたために自らの手で作ることにしたのだ。

 反射炉に注目していたのは鍋島直正だけではない。

 伊豆韮山代官の江川英龍も洋式大砲と反射炉の必要性に注目していた。嘉永2年のマリナー号事件で活躍した彼は幕府に反射炉建設を願い出る。

 学者としても名高い江川は洋書を翻訳して反射炉の作り方を理解すると小型の模型を作り出した。

 代官である彼は幕府の許可なしでは本格的な反射炉は作れない。予算の関係で模型を作るしかなかったのである。

 模型とはいえ実際に稼動するものが完成した。

 わずかな量とはいえ鋼鉄を精製する反射炉の模型だ。量は少ないので大砲を作ることは無理であったが、日本人の技術のみで鋼鉄を作り出したというのは確かな進歩だった。


 鍋島直正は江川の元に技術者を送り交流させた。佐賀藩も洋書を翻訳して反射炉の作り方を研究している。互いに技術交流を深めていた。



 そして嘉永3年11月に日本で初の反射炉が佐賀藩に完成することになる。

 同年12月と翌年1月に2度の鋳造を行ったが、いずれも失敗した。

 そして嘉永4年4月に初めて鋳造に成功することになる。

 この後も失敗と成功を繰り返しながら佐賀藩は大砲の作成を行っていく。

 幕府に断られた長崎への砲台設置を佐賀藩の力のみでやりとげることとなるだ。


 佐賀藩は幕末という時代において技術先進国としてトップを走り続けていくこととなる。


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