マクドナルドの英語教室
ラナルド・マクドナルドはアメリカンインディアンの血を引くアメリカ人である。
彼はアメリカンインディアンと日本人の祖先が同一であったという説を信じていた。自らのルーツが日本であると信じていて日本に対する憧れを持っていた。
子供の頃に日本人漂流者の音吉と出会い日本の話を聞いたのも彼の憧れを強くしたのだろう。
音吉に会い日本への憧れを強くしたマクドナルドは日本へ行くこと決意する。
鎖国政策化の日本へは通常の方法で入国することは出来ない。それゆえに漂流者を装い密航をすることにしたのだ。
嘉永元年5月、小舟で北海道の沿岸まで近づくとわざと転覆させて漂流者を装った。
そこでアイヌ人に助けられて10日ほど共に暮らしたという。やがて松前藩の役人に捕らえられて調べられた。
彼の策は当たり漂流者として扱われたものの、鎖国下の日本では外国人は国外に追放される。マクドナルドは長崎に連行されてそこからオランダ船で日本から出国させられることになった。
マクドナルドが日本へと密航したほぼ同時期に本当に漂流したアメリカ人らがいる。捕鯨船の船員で漂流した場所も偶然に北海道の辺りだった。
彼らも同様に長崎へと連行されることになる。だが、その扱いは罪人に近い。密入国者でない漂流者にしろ外国人は捕らえて長崎に送らなければならない。そのためには監視して自由を奪わなければならず囚人となんら変わりは無い。異国人に対する攘夷思想もあるし文化の違いからのズレもある。役人もお客をもてなすわけではないから扱いはぞんざいだ。
その待遇に耐えられなくなった漂流者たちは逃亡を図った。
逃亡は未遂に終わり役人に捕らえられたが、逃げ出そうとしたことで監視が強くなりますます自由がなくなった。
彼らアメリカ人漂流者とマクドナルドは共に長崎に送られた。
そこで取調べを受けながら彼らを送り届けてくれる船を待たなくてはならなかった。
長崎奉行所で取調べを受けたマクドナルドは日本文化に興味を持ち逆に質問をしかえしたりもした。また、日本語を覚えようと片言の日本語を話したりもした。
このマクドナルドの態度に興味を示した長崎奉行はオランダ通詞を彼につけて英語を学ばせようとする。
その通詞は総計で14名にものぼった。
日本初の英語教室が開催されたと言っていいだろう。
この中で有名となるのは森山栄之助と堀達之助だろう。
森山は以前から英語を学んで多少は話せたこともありマクドナルドの教えでかなり上達した。
しかし、マクドナルドが教えることが出来た期間は7ヶ月だけであったので、長崎の通詞全体の英語力を上達させるまでにはいかなかった。
嘉永2年4月、アメリカ海軍のジェームズ・グリンは2隻の軍艦を率いて長崎に来航した。
これはアメリカ捕鯨船の船員が長崎で牢に捕らえられているという話を聞いたからである。
グリンは彼の上官からなんとしても捕虜となった船員を保護して連れて帰るようにと命令されていた。それゆえに軍事力を見せ付けて船員を引き渡すように通告したのである。
長崎奉行としては捕虜として捕らえているつもりはない。国外退去させるために一時的な保護のつもりだ。
しかし、逃げ出されては困るので牢に入れて監視しているだけである。逃亡を図った前科があるだけに当然の処置だと考えていた。同じ漂流者のマクドナルドに対しては英語教師として特別の待遇をしているが、それは彼が協力的で逃亡の心配がないからである。
アメリカ側が漂流民を帰せというならば断る理由がない。むしろ早く連れて帰ってくれと考えていた。
覚悟を持ってやってきたグリンに対して長崎奉行はあっさりと漂流民を帰すことを了承する。
その際に当然のようにマクドナルドも帰国することとなった。
「帰りたくはありません」
と、マクドナルドが言ったところでどうしようにもない。グリンは漂流者を全て連れて帰ることが使命であるわけだし、長崎奉行も漂流者全てが帰国してくれたほうが問題がなくなり助かる。
マクドナルドとその生徒の通詞らだけが別れを惜しんでもどうしようにもなかった。
こうしてマクドナルドは1年弱の日本滞在で帰国した。
帰国後は日本が未開の野蛮国でなく文明国であることを宣伝した。
彼の話がアメリカの世論に与えた影響は少なくない。
一方でグリンが連れて帰った他の漂流者は日本での待遇に不満を盛らした。
脱走を図り牢に入れられた彼らは罪人に近い扱いを受けていた。牢の中で死んだ者もいる。
その話がアメリカ国内に流れて日本は漂流者を虐待していたという噂が流れることになる。
日本に漂流民を保護させるべきだ。捕鯨船の補給基地を作るべきだ。それが太平洋で捕鯨する際の安全に繋がる。こういう世論も高まりアメリカは日本を開国させようという機運が高まることとなった。
また、グリンは軍艦の軍事力を背景にした強気の交渉が長崎奉行を恐れさせて交渉が上手くいったと信じていた。その考えを上層部に伝えたことがペリーの砲艦外交に繋がっていくのだ。




