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End Of Edo ~幕末~  作者: 吉藻
第二章 幕末前夜
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  薩摩・佐賀・福岡・宇和島・土佐

 阿部正弘は攘夷派である。西洋列強の情報を集め実力を知れば日本国内に入れたくない攘夷派となるのは当然だと言えるだろう。攘夷派である親藩の水戸の徳川斉昭、越前の松平春嶽と懇意にしていた。

 幕府の老中らは阿部正弘ほどの危機感は抱いていない。

 ジェームズ・ビドルを追い返すことが出来たことから安心していた。

 もっとも阿部正弘さえも徳川斉昭ほどの切迫した危機感を持ってはいなかったのだが。


 阿部正弘は調整型政治家で多くの意見を集めて判断したがる人物である。聡明なブレーンを常に求めていた。

 その正弘の目に止まったのが島津斉彬しまづなりあきらである。

 薩摩藩世子の島津斉彬は聡明で博識であり、西洋列強の恐ろしさと強さをよく理解していた。

 江戸城での評判も隠居の徳川斉昭や若い松平慶永よりも良いくらいだ。

 しかし、彼は外様の薩摩藩であり藩主にもなっていない身である。幕政に関わることは出来ない。

 阿部正弘は幕政に関われない立場の人間にこれだけ才があることを惜しく思った。

 そして同様の立場で能力のある人間と積極的に交わり意見を聞いていくことになる。




 佐賀藩の藩主、鍋島直正なべしまなおまさは借金だらけの佐賀藩を建て直した名君である。

 藩政改革を行い財政を立て直して優秀な人材を次々と登用した。

 フェートン号事件により長崎の防備に対してトラウマを持っていた佐賀藩は財政が回復すると軍備力の増強に乗り出すことにした。そして敵である西洋列強のことを調べることにより列強の植民地政策を知り危機感を募らせていった。


 弘化4年に鍋島直正は長崎砲台を増築して100門を備え付けることを幕府に要請した。

 幕府にはそれだけの予算はなく鍋島直正の要請は却下される。

 鍋島直正は海防に対する幕府の消極性に失望して佐賀藩だけでなんとなするべく藩の近代化を目指した。

 直正は海外に目を向けて西洋の技術を藩内に取り入れていく。そして佐賀藩は幕末時に技術立国としての地位を確かなものとしていくのだ。


 阿部正弘はそんな鍋島直正に目をつける。幕府として長崎の防備に予算を割り付けることは出来なかったが、幕府の海防政策に鍋島直正の意見を取り入れようと考える。

 こうして鍋島直正は阿部正弘と懇意になっていった。




 フェートン号事件の影響は筑前福岡藩も受けていた。

 佐賀藩と共に長崎の警備を担当していた福岡藩はフェートン号事件の後で長崎警備に予算が取られるようになる。佐賀藩が無断で軽微の兵を減らしていた尻拭いをしなければならず、またフェートン号事件が再び起きないように防衛費が膨れ上がった。それにより佐賀藩と同様に財政破綻してしまったのだ。

 藩主の黒田斉清くろだなりきよは婿養子として黒田長溥くろだながひろを迎え入れた。

 天保5年に黒田長溥は福岡藩主となり藩政改革を進めて財政の再建を始めようとしていた。


 黒田長溥は島津斉彬の祖父である島津重豪しまづしげひでの子である。

 島津重豪は大の蘭癖家であり偉大な政治家だった。娘を11代将軍の徳川家斉とくがわいえなりの正室とし、幕政にも影響力を持つ。蘭学を推奨し医学の発展にも貢献するなど藩の近代化に貢献した。

 この島津重豪の影響を島津斉彬と黒田長溥は受けていた。

 そのために両者とも蘭癖家であり西洋に強い憧れと感心を持っていた。それゆえに西洋事情に詳しく列強の植民地支配の現状を良く知り警戒感を抱いている。


 黒田長溥は島津斉彬、そして阿部正弘と考えを同じくする者として懇意になっていく。





 宇和島藩の藩主、伊達宗城だてむねなりは蘭癖大名として有名だった。

 藩政改革を成功させて財政を健全化させている。脱獄犯の高野長英を宇和島藩に匿い洋書の翻訳や砲台の建築に関わらせていた。後に幕府からの追求が厳しくなると高野長英を放逐しているが、藩全体のことを考えると致し方ないだろう。高野長英の知恵を得たことにより宇和島藩の近代化を成功させていた。


 蘭癖家、藩の近代化という点で鍋島直正や黒田長溥に通じるところがある。

 西洋の知識を正しく備えている人物は貴重であり人材を求める阿部正弘と懇意になっていく。





 土佐藩において藩主の山内豊熈やまうちとよてる、そして後を継いだ弟の山内豊惇やまうちとよあつが相次いで急死した。

 その死が突然であったために跡継ぎが決められていなかった。その為に山内家は断絶の危機となった。

 慌てて分家の山内豊信やまうちとよのぶを藩主として擁立することになった。

 そのために14代藩主・山内豊惇は死んでないことにして病気で隠居したことにした。そして豊信に後を継がせて土佐藩主とすることにしたのだ。


 もちろん簡単にはいかない。

 親戚筋である薩摩に働きかけて老中の阿部正弘に頼み込んだのだ。

 阿部正弘は幕閣に働きかけて豊信の藩主就任を後押した。山内豊信とは後の山内容堂やまうちようどうである。


 山内容堂は藩主になるにあたり薩摩藩と阿部正弘に強い恩義を感じることになる。

 そしてそのまま阿部正弘と島津斉彬を中心とする派閥へと組み込まれることになる。



 薩摩、佐賀、福岡、宇和島、土佐。

 これらの藩には共通点があった。外様であり西国にあるということだ。

 外様藩は関ヶ原の戦いの前後で徳川方についた大名を祖としている。元から大名であるために石高は高い。

 しかし幕府の要職にはつけずに幕府からは警戒されていた。

 そして西日本にあるということは唯一の貿易港である長崎に近いことを意味する。西洋の知識や技術、蘭学が入りやすい地域性だと言えるだろう。


 この五カ国に名君と呼ばれる人材が揃って現れて西洋の知識や技術を取り入れて藩を発展させていくことも、幕政に関与して国を動かそうとしていくことも必然であったのかもしれない。


 外様五カ国、親藩、そして老中首座の阿部正弘。

 彼らは西洋の危機を共有して政策を相談し合いながら幕末の時代において一大勢力となっていく。


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