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End Of Edo ~幕末~  作者: 吉藻
第二章 幕末前夜
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  孝明天皇と一橋慶喜

 ジェームズ・ビドルが浦賀から去った後のこと。歴史的に見るとこの時に大きな事件が起こっている。

 朝廷から幕府に命令書が届いたのである。

 幕府成立以来、朝廷は牙を抜かれ弾圧され続けてきた。幕府の下で生かされてきたのである。ところがここ数十年で朝廷に関する空気が一変してしまった。

 水戸学の尊皇攘夷の思想の蔓延である。

 京都所司代きょとしょしだいというのは朝廷を見張り管理するための部署である。

 ここの役人が水戸学にかぶれて朝廷に対して腰が低い。この時の京都所司代は酒井忠義さかいただあきであったが、彼も尊王家であった。この時代の教養ある武士は多かれ少なかれ尊王家であると言ってもいいのだが。

 そういう時代に生まれ育った孝明天皇こうめいていのうは幕府に対する恐れも少ない。



 江戸後期に入り尊皇思想が各地で盛り上がっていた。松平定信は朝廷が力を持つことを恐れて弾圧したが、その思想は水面下で全国に広がって行く。また、尊王思想の総本山といえる水戸藩に対しては松平定信も強く言えなかったようである。

 そして水戸で藤田幽谷が尊王攘夷論を展開していくと共に尊皇思想は広まって行くことになる。幕府はそれを取り締まることもなく幕府上層部でさえ尊皇思想が蔓延して行った。

 水戸学とは違う方面、国学者などからも尊皇思想が出ている。平田篤胤ひらたあつたねが復古神道という古代の神道を復活させる学問を広めた。これは神仏混合で仏教と一体化した神道を批判するもので日本古来の神道を復活させるものだ。それはつまり天照大神の子孫である天皇家を敬うという尊皇思想にも通じる。


 水戸学は歴史学、国学は古文学から始まった学問であるが双方共に天皇家に対する信仰、明治の国家神道へと繋がるものだ。尊皇思想はこの時期には一種の宗教的な意味合いを帯びていた。

 天保期になると皇室を尊重するというのは武士の常識とさえなっていた。

 徳川幕府を頂点とする武士が天皇教ともいえる尊皇思想に染まっていたという不思議な現象が起きていたのだ。当事者はそれにたいして疑問は何も感じていない。日本国の中心である天皇が俗世の政治を徳川将軍に委任しているということは矛盾でも何でもないからだ。


 江戸時代後期から幕末にかけてほぼ全ての武士が尊皇家であった。

 この常識を前提としないとここからの歴史は理解がしづらくなる。




 弘化3年2月に皇位を継いだ孝明天皇はわずか16歳であった。

 尊皇思想により京都の武士は皇室に深い敬意を持っていた。京都所司代は朝廷を見張り管理する役職であるが、尊皇思想が蔓延しており皇室を尊重している。

 そういう状況で育った孝明天皇は幕府に対する恐れや遠慮というものを持ち合わせていなかった。

 それゆえにビドルの噂を聞いた孝明天皇は幕府に事情を聞く命令書を送ったのだ。

 「海防勅書かいぼうちょくしょ」という命令書を受け取った幕府は驚いた。

 朝廷が幕府に命令するなどいうことは江戸時代始まって以来のことである。

 しかし命令書とはいえ中身はお願いである。「近頃は異国船の来航が多いようなので海防を頑張ってもたいたい。また、異国船に関する詳しい情報を教えて欲しい」と記されてあった。

 幕府もこのくらいのことに目くじらは立てない。穏健派の阿部正弘は丁寧に返事をしたためて異国船の往来の情報を伝えたのである。


 朝廷が幕府に命令をして幕府がそれに応えた。

 江戸幕府の歴史の中でこれは大事件である。歴史の転換点と言っても過言ではない。

 そんな歴史的事件を起こした孝明天皇は大それたことをしたとは思っていない。幕府も何の問題もないと気にも留めていない。

 ただ、当人達の思いとは別に歴史は思わぬ方向へと突き進んで行くことになる。

 これはその第一歩だった。





 弘化4年、幕末史に大きく影響を与える人物が表舞台に出てくる。

 ことのおこりは弘化4年の7月に一橋家の跡取りが幼少にして亡くなった件であった。

 至急どちらかから養子を取らなければならない。しかも将軍家に連なる名門であるから血筋が確かな者ではないといけない。


 ここで阿部正弘が暗躍した。

 相談役として徳川斉昭と懇意にしていた阿部正弘であるが、徳川斉昭は隠居の身で政治的権力は皆無である。

 阿部正弘も松平慶永や徳川斉昭に匹敵する攘夷派だった。海防意識が低下している幕府上層部に対して失望感がある。とはいえ阿部正弘は自らの意見を前面に出すタイプの政治家ではない。調整して暗躍して政治を進めていくタイプだ。

 そこで阿部正弘は徳川斉昭の子供を一橋家の養子にすることにしたのだ。

 そうすることで徳川斉昭の発言力を高めて海防政策を進めて行こうという意図があった。


 徳川斉昭の七男である七郎麻呂しちろうまろは聡明であると聞こえていた。

 長男の水戸藩主である徳川慶篤が凡庸であることから他家に養子に出さずに水戸藩で大事に育てているとのことである。阿部正弘はその七郎麻呂に目をつける。

 徳川斉昭にとってはこの提案は突然のことであり驚いた。七郎麻呂は出来がよく可愛がっていたために養子に出さないでいたのだ。しかし、養子の先が一橋家となれば話が違う。

 一橋家の養子となればすぐに当主になることが決まっていた。この時点では当主がいない。当主がいなくても潰れないという御三卿の独自性からだ。


 一橋家は将軍家に跡継ぎがいない場合は将軍となれる家柄だった。

 現在の将軍の徳川家慶には成人した男子は1人しかいない。その1人は病弱で人見知りであり将軍の器ではないと言われていた。

 聡明な七郎麻呂が将軍の子を退けて次ぎの将軍になれる可能性というものが存在する。

 徳川斉昭は二つ返事で了承した。

 大奥の姉小路にコネがある阿部正弘は将軍を動かして養子縁組を実現させる。


 弘化4年9月1日、七郎麻呂は一橋家の養子となり家督を相続する。

 弘化4年12月1日、七郎麻呂は元服して名を一橋慶喜ひとつばしよしのぶと改めた。

 この時、慶喜はわずか11歳であった。



 孝明天皇と一橋慶喜。

 幕末史に大きな影響を与える2人が歴史に登場して来た瞬間である。


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