幕末概要(下)
反幕府の拠点となっていた長州藩を潰すために幕府は長州征伐を企てる。
しかし薩摩藩の反対などにより諸藩からの協力を得られない。
長州は大村益次郎が軍制改革を行い強力になった軍が背水の陣で死に物狂いで戦ったのに対して幕府軍は諸藩と連携が取れず士気が低い。
4方向から攻め込んだものの全て撃退されて敗退してしまうことになった。
この第二次長州征伐の最中に将軍・徳川家茂が亡くなってしまう。
将軍の死去という重大事のために遠征は中止され長州征伐は失敗に終わってしまった。
家茂の後を継いで将軍となったのは一橋慶喜である。
彼は徳川宗家を継いで長州征伐の失敗の後始末をした後で将軍となった。
15代将軍となった徳川慶喜は幕政改革を推進していく。
フランスの協力を得て軍事改革を進めた。
これを慶応の改革という。
徳川慶喜が将軍職を継いだ直後に孝明天皇が崩御された。
孝明天皇は外国人嫌いの攘夷主義者であったが、幕府に政治を委任するという思想の持ち主であり幕政への不満を口にして時には対立していたが倒幕主義者からは程遠い存在だった。
その孝明天皇が亡くなられたことで開国への道筋はつけやすくなったものの、幼い明治天皇では幕府を支えることは出来ない。幕府の足元が揺らぐ出来事だと言えるだろう。
以前であれば朝廷や天皇の存在が幕府の存続に影響を与えることはなかっただろうが時勢は大きく変わっていた。
そんな中で有力な大名と幕府が合議して政治を動かしていこうということから四候会議が行われた。
将軍となった徳川慶喜は以前の参与会議と同様に政治力を駆使して会議を潰しにかかる。
これにより薩摩藩は完全に決裂して島津久光は武力倒幕を考えるようになる。
そして土佐藩は大政奉還を目指すことになった。
薩摩藩と長州藩が武力討伐を目指して討幕の密勅を取り付けた。
その動きを察知していた徳川慶喜は土佐藩の勧めを受けて大政奉還をする。
徳川幕府が政権を朝廷に返上するというものだ。
これにより討幕の密勅の意味は消えうせて薩摩と長州の武力蜂起は立ち消えとなった。
大政奉還したとはいえ外交その他の政治を行えるのは徳川家だけである。また、諸大名の中で最大の国力を持っているのも徳川家だ。
朝廷を中心とした新しい政治形態でも徳川慶喜はトップに立つはずであった。
土佐藩や越前藩もそのように動いていた。
しかし公家の岩倉具視と薩摩藩が慶喜を排除して王政復古の大号令を発する。これにより徳川の領地を大幅に削減と慶喜の辞職を要求した。
対する徳川慶喜は居住を大阪に移して諸外国に外交権は徳川にあると宣言した。
土佐藩や越前藩の抗議により王政復古の大号令は事実上は撤回されたと同然になった。
ここでまた事件が起こる。江戸でテロがあり犯人が薩摩藩邸に逃げ込むということが頻発していたのだ。これに対して激怒した江戸の幕臣が薩摩藩邸を焼き討ちした。
テロの首謀者である薩摩を許すなという声が大きくなり徳川慶喜は薩摩との戦をしなければならなくなる。
こうして薩摩・長州連合と徳川幕府軍の戦いである鳥羽伏見の戦いが始まった。
鳥羽伏見の戦いにおいて幕府軍は敗れ徳川慶喜は江戸に逃げ帰った。
薩摩・長州は明治天皇を手中にしており朝敵となることを恐れた徳川慶喜は戦力があるにも係わらず全面降伏を選択する。
江戸に進軍する薩長の新政府軍に対して親藩や御三家も次々に降伏していった。
新政府軍は江戸に総攻撃をしかけようとしていたが、西郷隆盛と勝海舟の会談により阻止される。
そして江戸城は無血開城された。
新政府軍は江戸に入るが旧幕府軍の残党は残っていた。
また、会津藩は武装恭順を表明しており旧幕府軍の残党を集めていた。
こうして江戸で上野戦争、東北で会津戦争が起こった。
東北諸藩は会津を助けるために奥羽越列藩同盟成立させて戦火は東北全体に広がる。
上野戦争は1日で鎮圧されて東北の戦争も会津藩と庄内藩が降伏することで終了した。
戦争に敗れた最後の旧幕府軍は榎本武揚と共に蝦夷地に渡る。
蝦夷地を平定した榎本武揚は箱館港にいた諸外国に事実上の政権だと認めさせて局外中立を求めた。
一旦は中立を表明した諸外国だったが榎本軍が不利に陥ると中立を解除する。
新政府軍は蝦夷地に渡り榎本軍が居住とする五稜郭を総攻撃。
榎本武揚は降伏し鳥羽伏見の戦いから続く戊辰戦争は終結した。
戊辰戦争と平行して新政府軍は様々な新政策を行っていた。
その中で首都を東京に移して年号を明治と改めている。
ここに明治時代が始まり幕末と呼ばれる時代は終わりを告げた。