幕末人物ファイル003
*** 姉小路 ***
文化7年(1810年)生まれ。
公家の娘であり和宮の大叔母ともなる。
文政11年(1826年)に大奥に入り天保7年(1836年)に家慶付の年寄となった。
天保8年(1837年)に家慶が将軍となると大奥で権勢を握るようになる。
将軍家の養子縁組の差配をしたり天保の改革に反対したりと表の政治に与える影響力も強かった。
阿部正弘が実権を握ると協力して大奥をまとめたが、それは阿部正弘といえど大奥に手を入れる隙を与えないということにも通じる。
嘉永6年に家慶の死と前後して隠居すると大奥での影響力も低下した。
明治13年(1880年)に死去。
*** 土井利位 ***
寛政元年(1789年)生まれ。
文政5年(1822年)に家督を継いで古河藩主となる。
大阪城代の頃に大塩平八郎の乱があり鎮圧を担当した。その功績により天保10年(1839年)に老中に任命される。
天保12年(1841年)に大御所徳川家斉が死去すると、将軍家慶は水野忠邦に命じて家斉の側近が次々と粛清する。土井利位は水野忠邦について天保の改革に協力することにした。
天保14年(1843年)に上知令に対して水野忠邦と対立する。鳥居耀蔵らの裏切りもあって水野忠邦は辞任に追い込まれ、その後を受けて老中首座となった。
ところが1年も経たないうちに水野忠邦が復帰して老中首座を奪われてしまう。
報復を恐れた土井利位は病気を理由に登城を拒否して辞任した。
嘉永元年(1848年)に死去。
*** 水野忠邦 ***
寛政6年(1794年)生まれ。
唐津藩にて生まれ文化9年(1812年)に父の死と共に唐津藩主となる。
水野忠邦は幕閣として昇進することを強く望んで多額の賄賂を使う。徳川家斉とその側近の水野忠成が実権を握っていた時であり幕府上層部は腐敗して賄賂が飛び交っていた時代である。
しかし、唐津藩は長崎の警備をする役職があるために江戸城での出世には限界があった。
このために水野忠邦は自ら石高の低い浜松藩への転封を願い出た。
これにより江戸城で出世を果たした水野忠邦は文政11年(1827年)に将軍世子・徳川家慶の補佐役となる。そして家慶からの信頼を得るのだった。
天保5年に老中となり天保10年に老中首座となった。
そして天保12年に大御所家斉が死去すると天保の改革を始めることとなる。。
天保14年に上知令の失敗により失脚、翌15年に復帰。
しかし、阿部正弘に政争で負けて弘化2年に再び失脚した。
嘉永4年(1851年)に死去。
*** 鳥居耀蔵 ***
寛政8年(1796年)生まれ。
名門林家に生まれ文政3年(1820年)に鳥居家の婿養子として家督を継いだ。
11代将軍徳川家斉の側近として仕え、家斉が大御所時代に蛮社の獄を起こしている。
林家は儒学の名門である。それゆえに蘭学者に対して憎しみにも似た敵愾心を持っていたと思われる。
海外からの脅威から日本を守るためには儒学の思想が必要で蘭学は異国からの思想侵略と考えていたのかもしれない。
天保12年(1841年)に家斉が死去すると天保の改革を始めた水野忠邦に接近する。
天保の改革に反対していた江戸南町奉行の矢部定謙を失脚させて水野忠邦から手腕を認められ後任の江戸南町奉行となる。町奉行となった鳥居は密告を推奨して江戸の町の綱紀粛正を厳格に行った。彼の子飼いの部下たちの横暴により庶民からは嫌われて妖怪とあだ名される。
天保14年(1843)に上知令が失敗して孤立する水野忠邦に見切りをつけて裏切った。
しかし翌年に水野忠邦が復帰すると報復を受けて四国の丸亀藩に押し込めとなった。
明治6年(1873年)に死去。
*** 遠山景元 ***
寛政5年(1793年)生まれ。
旗本の家に生まれ父は長崎奉行を務めたこともあるほどの名門である。
青年期は家出をして江戸の町で暮らした。
この時に刺青をしていたという伝承があり、それが後の遠山の金さんの物語で使われることになる。
この刺青は桜吹雪とも女の首とも実は刺青はなかったとも言われるが、これは後年になり家に帰り町奉行や大目付などの立派な幕臣となった時に一度も他人の前で肌を晒さなかったからである。
遠山の金さんの刺青は伝承のみで残り信頼できる証言や証拠はない。まあ、現代で言えば都知事や大臣レベルの人なので遊び人していて刺青をしていたという若い頃の醜聞は隠さなくてはならなかっただろう。
天保11年(1840年)に江戸北町奉行となる。
天保12年から始まった天保の改革には終始反対の立場を取り続けて、極端な質素倹約令や風俗の取り締まりに手加減を加えた。芝居小屋を廃止して江戸から無くそうという政策が取られそうになった時には反対して浅草への移転のみですませた。これにより芝居関係者から感謝されて「遠山の金さん」で遠山景元を賞賛する芝居が作られて行くことになる。
天保14年(1843年)に大目付へと昇進する。これは天保の改革に反対の遠山景元を実権の無い名誉職へ追いやるための措置だった。
弘化2年に水野忠邦が失脚すると自ら申し出て町奉行へと降格する。
そして江戸の町の景気回復に尽力した。
嘉永5年(1852年)に隠居して家督を譲り、安政2年(1855年)に死去する。
*** ジェームズ・ビドル ***
1783年生まれ。
1845年に東インド艦隊司令長官となり清との間に望厦条約の批准書の交換をした。
その帰りに日本へ望厦条約と同等の条約が結べないかと調査に来る。
1846年に浦賀に来航して通商を求めるものの拒否される。
日本の内情を知ることが主目的だったこともありビドルはそのまま浦賀を出て帰国した。
ビドルの穏健な交渉が空振りに終わったことに日本に対しては強攻策が必要ではないかという意見が出てくるようになる。
1848年に死去。
*** 真田幸貫 ***
寛政3年(1791年)生まれ。
寛政の改革の松平定信の息子である。文化12年に松代藩主の養子となった。
文政6年(1823年)に家督を継いで松代藩主となる。
藩政の方では佐久間象山をはじめとし有能な人材を登用し、藩校を開設して人材の育成を行った。殖産興業や産業開発で藩内の産業を盛り上げようとしている。その名君ぶりは評判であり徳川斉昭も老中に推挙していた。
本来は外様大名である幸貫は老中になれない。だが、松平定信の子という血統の良さと高い評判から特例として老中となった。
水野忠邦は幸貫を高く評価して海防掛に任じた。異国船の脅威から国を守る方法を幸貫に託したのである。
幸貫は佐久間象山に海防について調べさせて「海防八策」を提出させた。
弘化元年に水野忠邦の失職とともに老中の職を退くと藩政改革に余生を費やす。
嘉永5年(1852年)死去。




