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End Of Edo ~幕末~  作者: 吉藻
第一章 江戸時代
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  ビドル来航

 イギリスとフランスはアジアでの覇権を競っていた。欧州での2大大国と言っても良いだろう。

 イギリスは1842年にアヘン戦争で清に勝利して不平等条約を結ぶ。

 貿易を自由化させて経済から国を支配していくというやり方だ。フランスもそれに追随して1844年に同様の条約を結んだ。


 大航海時代とは違い単に武力で侵略する時代は終わった。武力を背景に自由貿易を飲ませて経済を牛耳り内戦を誘発させて国の支配者層を借金で縛り間接統治していく。それが19世紀の植民地政策であり西洋列強による侵略である。

 幕末において攘夷派が開国を頑なに拒んでいたのはこの事情を良く知っていたからなのだ。


 フランスは清で条約を結ぶとすぐに琉球へも使者を送った。

 自由貿易とキリスト教の布教を認めさせるためである。



 琉球王国は対外的には独立国家では有るが実情は薩摩藩が支配していた。一方で琉球は清に対しても臣下の礼を取っており独立国ながら二つの国に隷属しているという不思議な体制であった。

 独立国とはいえ清の衛星国であると考えていたフランスは清と同等の条約を押し付けようとしたのだ。

 実質的には薩摩の支配下にあった琉球は返事を引き延ばすと薩摩に使いを出した。フランスは宣教師を琉球において返事を待つと去って行く。

 これは薩摩藩に伝えられて薩摩藩は幕府に相談することになる。

 微妙な問題であるために秘密裏に行われたことやオランダ国王へ開国不可の返事を送った時期と重なったことなどから結論が先延ばしされて話がまとまらない。

 そんな風にグダグダとしていたらフランスが再び琉球に来航する。弘化3年(1846年)のことだ。


 ここに来て薩摩藩は本気となり幕府へ結論を急がせる。

 家老である調所広郷ずしょひろしげがやって来て幕府の首脳と会談した。世子である島津斉彬も幕閣への工作を開始する。

 更にイギリスも琉球に来航して貿易を求めてきたという情報が薩摩に入った。その情報は幕府にも伝えられる。

 阿部正弘は困ってしまい徳川斉昭に相談した。


「琉球とはいえ貿易は認めることは出来ぬ」


 それが斉昭の意見だった。実力者とはいえ隠居した人物の意見でなので無視することも出来る。

 しかし、海防についての専門家の斉昭の言葉を正弘は無視も出来なかった。




 そんな折に浦賀にアメリカ軍艦が現れた。そしてアメリカは幕府に開国貿易を要求して来たのである。

 江戸城は更なる混乱に陥った。

 阿部正弘は困ってしまい徳川斉昭に相談した。


「貿易は認めることは出来ぬ――――ただし、琉球は日本ではないので琉球の勝手にしたらよい」


 幕府が開国して外国と貿易することは認められないが、琉球に関してはこれ以上は構わないという判断だ。

 実はこれについては島津斉彬の工作があった。琉球の現状やイギリス・フランスの脅威を斉昭に伝えて説得をしていたのだ。

 斉彬の地道な説得に加えて浦賀に現れたアメリカ軍艦により琉球については薩摩に一任すればよいとの考えに至ったのである。


 将軍も老中も同じ意見だった。喉元に刃が突きつけられている状況で琉球問題にかまかけている暇などないというのが正直なところだ。

 こうして琉球については薩摩の判断で自由にしてよいということになる。

 実質的に幕府が琉球開国を認めたこととなった。





 1844年にアメリカは清と望郷条約を締結した。

 イギリス・フランスと同様に自由貿易を認めさせるもので、アメリカがアジアへ進出する足がかりとなるものだった。その条約の批准書の交換を1845年に清で行った。その責任者が東インド艦隊司令長官のジェームズ・ビドルである。


 翌年の1846年。弘化3年閏5月。

 ビドルはアメリカに帰国する前に日本へ立ち寄ることになる。

 清での仕事が終わったビドルは日本に立ち寄り清と同等の条約を結べないかと様子を見に来たのである。

 日本に対する外交圧力で清と同等の不平等条約を結んで財を搾り取るためだ。

 ビドルには日本との交渉の全権が任せられていた。軍艦で威圧しながら浦賀沖で幕府の対応を伺う。

 浦賀奉行所はすかさず小船でコロンバス号を囲んで江戸湾に侵入してこないようにしていた。そして幕府からの指示を待っていた。



 琉球問題を棚上げして薩摩藩に押し付けた幕府はアメリカとの開国貿易だけは絶対に避けるつもりでいた。

 オランダ国王に開国不可の返事をしたのはわずか1年前のことである。面子にかけても開国出来ない。


 交渉の全てを任された浦賀奉行はビドルを日本の船に乗り移ってもらいそこで幕府からの回答を伝えようと考えた。敵だらけの船に乗り込むのを躊躇したからである。

 ところがそこで事件が起こる。通訳のミスで護衛の武士がビドルを殴り刀を抜いたのである。

 アメリカの水兵も激昂してピストルを抜く。一触即発の空気が流れた。

 場を収めたのはビドルである。「誤解があったようだ。落ち着いて欲しい」と被害者であるビドルが両国の護衛を宥めた。

 ビドルはコロンバス号に戻り日本側は謝罪した。そして正式に通商不可の回答をする。

 殴られた上に交渉は空振りで追い返されるとビドルは散々であった。


 ジェームズ・ビドル率いる二隻の艦隊は6月7日に浦賀を出航した。ビドルが浦賀に停泊していたのはわずか10日間である。

 面子を潰された形になるビドルではあるが最初からことを荒立てないように命令を受けていた。ビドルの目的は日本の偵察である。日本がオランダ・清以外の国と通商を行っていないかどうか、日本がアメリカと通商を行う可能性がどれだけあるのかを調べる目的があった。

 ビドルは日本で得た情報や印象を母国アメリカに伝えた。

 アメリカ政府はビドルの情報を元に日本を開国させる計画を本格的に練り始めるのだった。

 また、ビドルが日本にて屈辱的な扱いを受けたという話が広まり、日本に対しての強硬論が出始める。この強硬論がペリーの砲艦外交に繋がる第一歩だった。




 浦賀からビドルが立ち去り琉球問題とビドル来航問題という2つの外交事件は幕を閉じた。

 これにより幕府に異国を侮るような楽観論が強くなった。海防

 徳川斉昭や松平慶永はその状況に歯がゆい想いをしていく。


 ちなみに琉球へはその後にイギリス船もフランス船も再来航せずに、琉球開国は棚上げになったままペリーの来航を迎えることになる。


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