海防と財政再建
水野忠邦の開国策を葬って組閣した阿部政権は攘夷派政権と言って良いだろう。
徳川斉昭をブレーンとしているところかもそれは感じられる。
そんな阿部正弘には攘夷の志をもつ人物も接近してくることになる。
弘化3年。
阿部正弘と松平慶永は江戸城にて出会った。この時、正弘28歳、慶永19歳である。
慶永は越前福井藩の若き藩主である。越前福井藩は徳川家の親族である親藩の1つだ。
松平慶永は天保9年にわずか11歳で越前松平家の家督を継承していた。
少年の藩主は基本的に周囲の家老の操り人形である。聡明だと噂の慶永も例外ではなかった。そして彼は大きなお家騒動を引き起こすことなく藩論を改革の方向へと導いて行った。
その手腕は高く評価され将来を期待されていた。
松平慶永は攘夷派である。
この時代に海外事情を学ぶと攘夷主義にならざるを得ない。攘夷派とは今そこにある危機を感じ取れる現実的な人物のことだ。幕末に京都で暗殺をしていた攘夷派とは少し趣が違う。
海外の事情を良く知る幕府上層部でさえ植民地化されるアジア各国や清のことを対岸の火事ととらえて根拠の無い楽観論をもつ者が多かった。
徳川斉昭や松平慶永のように強い危機感を持っている人物は少数だったのである。
その松平慶永から見ると阿部正弘の国防意識は物足りなかった。海防掛を常設するも具体的な海防策は進んでいなかったからである。
人は直接の危機がない時はどうしても楽観論に流れ勝ちだ。
幕府の上層部にも西洋列強による侵略の危機を具体的に感じている者は少なかった。
海防に一家言あり危機感を強く感じていた者の筆頭は徳川斉昭だと言って良いが、彼は隠居の身でしかなく阿部正弘と手紙のやり取りをしている相談役という立場でしかない。
攘夷派と呼ばれる幕閣でも単に外国嫌いであり海防の必要性を論じられる者は少数だった。
越前福井藩は親藩であるから御三家のように直接政治には関われない。
権威は上であるので老中らから一目は置かれるのもの自らは老中になれない家柄だ。
そういう微妙な立場ゆえに同じように幕政に参加出来ずに異国の脅威を感じている徳川斉昭に接近して懇意になった。そしてますます攘夷志向に染まっていく。
その松平慶永に接近してきた人物がいた。
薩摩藩世子の島津斉彬だ。薩摩藩は外様大名であるから幕政に参加する権利は無い。それに斉彬はまだ薩摩藩の藩主にさえなっていなかった。
しかし、島津斉彬は英明であると江戸城で既に評判だった。蘭癖家であることが慶永にとって玉に傷だと思えたが、西洋に対する確かな知識と西洋の技術を取り入れて海防強化を図るという思想には感銘する。
そして慶永は島津斉彬を阿部正弘に紹介した。
海防政策が進んでいない幕政に不満を覚えていた慶永なりの作戦だ。
徳川斉昭、松平慶永、島津斉彬で組んで野党として阿部正弘に海防政策を進めるように圧力をかけていこうというのである。
阿部正弘としては海防政策をしないつもりはない。海防掛に自らがなり情報を収集させたり計画を立てさせたりしているのだ。なので海防政策に詳しい島津斉彬の意見も聞きたかった。
そして話をしてみると噂どおりに聡明な人物であった。斉彬の見識に正弘は感服して相談役として懇意にすることとなった。
松平慶永の作戦は一応の成功を見せる。
阿部正弘は独裁的な政治家ではない。老中首座とはいえ年齢もまだ若く先輩である他の老中への遠慮もある。
意見を調整して進めるのが彼のやり方だった。
現在の幕府の最重要事項は経済の建て直しである。天保の改革による倹約令で江戸は不景気にあえいでいた。それの解消が一番の優先課題だったのだ。
阿部正弘は水野忠邦の時代に北町奉行として活躍し、鳥居の工作で閉職である大目付に追いやられていた遠山景元を南町奉行として復帰させることにした。大目付は名誉職で閉職だったとはいえ、南町奉行に任命するのは降格人事となる。
これは遠山景元が自ら希望した人事だった。遠山は江戸の町の景気回復を自らの手で行うべく志願したのだ。一人の人物が北町奉行と南町奉行の両方に就任したのは遠山景元だけである。
遠山景元は解散させられた株仲間の復活を目指す。株仲間により商人が結託して物価を上昇させているということで水野忠邦解散させられたが、商業組合的な意味合いもあった株仲間が解散したことで経済が混乱してもいた。名奉行として名高い遠山景元は江戸の景気回復を目指し最期まで庶民のために働いた。
海防よりも経済優先。それは仕方ない判断であったと言えるかもしれない。
しかし、そんな阿部正弘を嘲笑うかのように海外からの訪問者が日本の扉を叩くこととなる。
弘化3年。琉球にイギリスとフランスが、浦賀にアメリカの軍艦が来航した。
どちらも開国を要求していた。




