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End Of Edo ~幕末~  作者: 吉藻
序章 幕末概要
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  幕末概要(中)

 井伊直弼が桜田門外で暗殺された後で幕政を仕切ることになったのは老中の安藤信正だ。

 安藤信正は井伊直弼の弾圧で関係がこじれた朝廷との融和をはかることにした。

 既に条約を結んでいる以上は外国と付き合っていくしかない。尊皇攘夷派のテロリストに対抗するために彼らが担いでいる天皇を味方に引き入れようとしたのだ。

 そして孝明天皇の妹である和宮を14代将軍の徳川家茂と結婚させるという計画を成功させた。

 朝廷と幕府がいったいとなり政治をしていくという公武合体である。


 しかしこれにも誤算が生じた。

 和宮を朝廷に対する人質として無理矢理にも婚姻させたと志士たちが怒りをあらわにしたのだ。

 幕府と朝廷がいったいとなることで尊皇派からの批判を交わそうとしたのに逆効果となった。

 更には和宮の嫁入りの条件として孝明天皇に攘夷を約束してしまった。10年以内の攘夷決行という口約束であり安藤信正らは時間をかけて攘夷が不可能なことを朝廷に理解してもらおうと守る気のない約束をしてしまったのだ。10年後であれば自分は政権を担当していないだろうという逃げもあったのかもしれない。


 この和宮降嫁で尊皇攘夷派の怒りを買っていた安藤信正は井伊直弼と同様に登城中に襲われる。

 命からがら逃げ出したものの背中に傷を負ってまで逃げたのが武士として外聞が悪いと非難されて失脚した。


 このように幕府と朝廷の間で見解の相違が出来て幕府内もまとまりがない。

 そんな状況を一変させるべく薩摩藩の国父である島津久光が動いた。

 島津久光は兵を率いて京都へと上ると公家と面談して孝明天皇に自らの意見を伝えた。

 島津久光の朝廷工作は成功して公家を引き連れて江戸まで行くと朝廷の威光と薩摩の兵を背景に幕政改革を要求した。

 この時の改革を文久の改革という。

 文久の改革により政治の表舞台に出たのが徳川家茂と将軍職を争った一橋慶喜である。一橋慶喜は将軍後見職となる。


 島津久光は一通りの改革を見届けると京都に戻るために江戸を発った。

 ところが旅の途中で大名行列に馬に乗ったまま乱入してきたイギリス人に遭遇する。無礼討ちとして殺害したことが問題となった。(生麦事件)

 イギリスは外交問題として薩摩を激しく批判する。幕府はイギリスの怒りを抑えて賠償金を払おうとするが薩摩藩は非があるのは行列に乱入したイギリス人で薩摩は正しいと突っぱねた。

 島津久光はイギリスに対応するために京都での政治工作を打ち切って薩摩に帰る。

 イギリスと薩摩は交渉が決裂して薩英戦争で戦うこととなった。


 一方で朝廷は将軍の徳川家茂を京都に呼んで攘夷の決行を約束させようとした。

 和宮降嫁の際に約束したことで断ることは出来ない。仕方無しに徳川家茂・一橋慶喜らの幕府首脳が京都へと向かう。

 京都は攘夷志士があふれ治安が悪化していた。その治安を回復させるために京都守護職に会津藩の松平容保が就任することになる。松平容保は新撰組を作り京都の治安を回復させた。

 京都へと来た一橋慶喜は朝廷の圧力に屈して同年5月10日に攘夷を決行することを約束した。

 しかしこれは口約束で実行する気はない。各藩にも軽挙は慎むように通達する。

 ところが京都で攘夷派志士を操り暗殺やテロを起こし公家を抱き込んで朝廷を攘夷一色へと染め上げた長州藩が攘夷を実行する。下関から外国船に対して砲撃したのだ。

 直ちに反撃されて長州は多大な被害を受けた。


 朝廷を裏から操り勝手に外国に攻撃をしかけた長州藩を排除するために薩摩藩と会津藩が手を組むことになる。

 長州派公家を朝廷から一蹴する計画を立てたのだ。

 八月十八日の政変と呼ばれるもので長州派公家の7人が都落ちする。これにより長州は京都から影響力が無くなった。


 復権を狙う長州は兵を率いて京都へ上ることを計画した。その下準備をして京に潜伏していた仲間の志士が池田屋にて新撰組に殺されてしまう。(池田屋事件)

 これで長州の自重派の意見が押しつぶされて兵をあげて京へと上ることになった。

 京都で薩摩・会津の連合軍と長州がぶつかり戦火となる。禁門の変である。

 禁門の変に敗れた長州藩は朝敵となった。


 禁門の変にて敗れた長州藩に対して前年の攘夷戦争で砲撃された外国船からの報復が行われた。

 更に朝敵認定されて幕府から追討軍が送られることになる。

 長州藩はボロボロになり攘夷派は一掃されて幕府へ降伏する保守派(俗論派)が政権を握った。

 これにより幕府も長州征伐を取りやめて和解する。


 ところが高杉晋作が長州藩でクーデターを起こして政権を奪取した。

 正義派と名乗り幕府に敵対する政権を立ち上げる。しかし外国と戦争したことにより攘夷の不可能を痛感した高杉らは藩論を攘夷から開国に変えていた。

 薩摩は元から開国派であったが薩英戦争によりイギリスと結びついてその思想を深めていた。


 幕府は海外貿易は幕府が独占して利益を得ることで諸藩から優位を保とうと考えていた。

 一橋慶喜の政治手腕により雄藩連合による政治形態を崩壊させて幕府単独で行う政治へと回帰させていく。

 薩摩藩はそんな一橋慶喜に反発を覚えた。このままでは幕府の独裁政治の時代に逆戻りするという危機感が高まる。

 そんな中で孤立して亡国の危機にある長州を救おうという運動を志士たち始めた。

 薩摩と長州を結びつけて幕府に対抗させようというのだ。

 薩摩藩は彼らの思惑に乗り長州を助けることにした。幕府に対して圧力をかける手段としたのだ。

 こうして薩摩と長州の間に薩長同盟が締結される。


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