幕末人物ファイル02
*** 間宮林蔵 ***
安永9年(1780年)生まれ 。
農民の子として生まれたが学問が得意で算術や地理の知識を見込まれて北方探索の一員となる。
寛政11年(1799年)に千島列島に派遣されて同地で伊能忠敬に測量技術を学んだ。
文化4年(1807年)に択捉島の屯所に勤務していた時にロシア軍艦の攻撃を受けた(文化露寇)。間宮林蔵は徹底抗戦を唱えるが装備の差は激しく撤退することになる。
文化6年(1809年)に単身樺太に渡り樺太北西岸に到達すると樺太が島だと確信する。間宮林蔵は樺太西岸に「日本国境」の碑を立てている。
更にロシア帝国の動向を探るために大陸に渡りアムール川下流まで調査している。(外満州まで調査していたようであり、そこは清の領土だった)
樺太が島であることを確認したことから樺太と大陸の海峡のことを間宮海峡という。(ロシアではタタール海
文化8年(1811年)にはゴローニン事件の調査に加わりゴローニンの尋問もしている。
文政11年には幕府隠密として国中を探索して密貿易の証拠を掴んだりした。(竹島事件)
幕府隠密としての成果や北方探索の功績が認められて老中からも重用されるようになる。
晩年には川路聖謨や江川英龍や藤田東湖とも親交を持ち、徳川斉昭に蝦夷地開拓の進言をしている。
天保15年(1844年)に死去。
*** 藤田幽谷 ***
安政3年(1774年)生まれ 。
天明7年(1788年)に彰考館に入る。彰考館とは『大日本史』を編纂する部署であり、藤田幽谷はその事業に関わることとなる。『大日本史』の編纂で水戸学に触れた藤田幽谷はその思想に影響を受けた。
文化4年(1807年)に彰考館の総裁に就任する。
その才覚から彰考館を発展させて藩内に水戸学を大いに広めた。それにより水戸学の中興の祖とも呼ばれる。門人に藤田東湖、豊田天功、会沢正志斎らがおり、彼らは幕末に水戸学の尊皇攘夷思想を全国に広めることとなる。
文政9年(1826年)に死去。
*** 水野忠成 ***
宝暦12年(1763年)生まれ。
11代将軍徳川家斉の側近として頭角を現す。
文化14年(1817年)に老中首座となった。
忠成の父は田沼意次派として松平定信と対立していたこともあり水野忠成は寛政の改革に繋がる幕政を否定した。また、田沼意次の息子を引き上げている。
だが、田沼時代をはるかに超える賄賂政治を引き起こして幕政は腐敗した。
江戸の町は化政文化が花開いて消費社会と好景気を迎えたが、幕府財政は火の車で破綻寸前となった。
晩年には水野忠邦を引き上げて老中にすえた。
天保5年(1834年)に死去。
*** 小関三英 ***
天明7年(1787年)生まれ。
長崎でシーボルトの鳴滝塾にて学ぶ。蘭学者として翻訳などをしていた。
江戸で渡辺崋山・高野長英と親交をもち尚歯会に参加する。
西洋史に興味を持ちナポレオンを日本に紹介したりした。翻訳の際にキリスト教の本を間違えて翻訳してしまったことがあった。キリスト教の禁教下でこれは死罪に値する。
蛮社の獄で崋山・長英が捕らえられたことを聞き、自らの罪が露見するのを恐れ自殺した。
天保10年(1839年)に死去。
*** 渡辺崋山 ***
寛政5年(1793年)生まれ。
田原藩士の子として生まれ文政6年(1823年)に家督を継ぐ。
天保3年(1832年)に田原藩の家老となると藩政改革に尽力して天保の大飢饉での餓死者を出さないなどの手腕をみせた。このために幕府に表彰されて政治家としても学者としてもその名を高めた。
天保の大飢饉の対策たのために知識人を集めて集会を開くが、それがのちに尚歯会となる。
尚歯会で高野長英、川路聖謨、羽倉簡堂、江川英龍などと交流を持ち海防問題などについても語り始める。
天保9年(1838年)のモリソン号事件で幕府を批判する書物を書いたことを問題とされて蟄居謹慎となる。これは蘭学者嫌いの鳥居耀蔵の陰謀であり蛮社の獄の一貫である。
天保12年(1841年)、蟄居中に描いていた書画を弟子が売ろうとしたのを幕府に咎められて切腹。
*** 高野長英 ***
文化5年(1804年)生まれ。
文政3年(1820年)に長崎に留学してシーボルトの鳴滝塾で医学・蘭学を学ぶ。シーボルト事件ではうまく難を逃れた。
国許へ帰りたくないために家督を捨てて武士の身分を失っている。
天保元年(1830年)に江戸で町医者と蘭学塾を開業する。そこで渡辺崋山らと知り合い尚歯会を結成した。
天保9年(1838年)のモリソン号事件で幕府を批判する書物を書いたことを問題とされて捕らえられる。これは蘭学者嫌いの鳥居耀蔵の陰謀であり蛮社の獄の一貫である。
永牢となった長英であったが、弘化元年(1844年)、牢屋敷の火災に乗じて脱獄した。
脱獄後は鳴滝塾の同門・二宮敬作の案内で伊予宇和島藩主伊達宗城に保護されることになる。
宇和島で潜伏しながら西洋の兵法書の翻訳などをしていた。
兵法書が有名となり長英の生存が確実視されると宇和島藩もいつまでも匿うわけにもいかなくなる。
長英は酸で顔を焼いて江戸に戻り医者となり潜伏生活を送った。
嘉永3年(1850年)、潜伏していた長英を捕らえようとした与力に暴行されてそのまま亡くなった。




