水戸藩主・徳川斉昭
尊皇攘夷と思想がある。
幕末を通して大きな影響力を与えた思想であり幕末を語る上では欠かせないものだ。
水戸黄門で有名な徳川光圀は水戸藩主であり尊皇家だった。
水戸藩は徳川家康の子を藩祖とする御三家である。それゆえに幕府の中でも非常に家格が高い。とはいえ将軍家の家臣であることには変わりが無い。
同じ家康の血を引く者としてのプライドか光圀は将軍家に対して複雑な気持ちを持っていた。それゆえに将軍家も水戸藩も同じく天皇の配下であるという尊皇主義に傾倒したのかもしれない。
その徳川光圀は生涯の事業として『大日本史』の編纂を始めている。日本の歴史をまとめるという大事業だ。
歴史書の編纂をするということはどうしても作者の史観が入り込む。『大日本史』は光圀の思想が色濃く出ていた。
『大日本史』はなんと200年かけて明治に完成することになる。それだけの大事業だったのだ。
水戸藩は江戸時代を通じて『大日本史』の編纂を手がけていく。
『大日本史』を作るということは光圀の思想を受け継ぐということだ。
自然と水戸藩に尊皇思想が根付くこととなった。それは水戸学という独自の学問となっていく。
その水戸学の中興の祖と呼ばれる人物が藤田幽谷である。
文政7年(1824年)に大津浜事件が起こり上陸したイギリス人水兵が捕らえられた。
イギリス水兵に補給品を与えて釈放したことに藤田幽谷は激しく憤りを感じた。
そして幕府の弱腰を大いに批判していく。
弟子の会沢正志斎は翌年に『新論』を発表して尊皇攘夷論を説いている。「皇室を敬い外敵を討ち払え」というものであるが、この尊皇攘夷が水戸学のスローガンとなっていく。
そしてこの思想に徳川斉昭も影響を受けていく。
文政12年(1829年)に水戸藩で跡継ぎ問題が発生した。
藩主が死去した際に藩の重臣から将軍家から養子を取り後を継がせようという案が出たのだ。これは12代将軍徳川家斉による一橋家の諸大名支配の一環である。
多くの子を作った家斉は自分の子を諸大名に養子に出して幕府を未来永劫自分の血で支配しようとしていたのだ。
これに対して前藩主の弟である徳川斉昭を推す一派が現れた。
斉昭を藩主として擁立しようとしていたのは藤田東湖、会沢正志斎、戸田忠太夫、安島帯刀、武田耕雲斎といった面々であった。
彼らの尽力により徳川斉昭が藩主に就任する。
これにより将軍家・御三家・御三卿で唯一家斉の血が入っていないのが水戸藩だけとなった。
藩主となった斉昭は彼らを抜擢して藩政改革を行うことにする。
斉昭でなく将軍家から養子を取り藩主として招きいれようとしていた一派は門閥派であり改革により肩身の狭い思いをすることとなった。
斉昭は藩政改革を進めていく中で藩校・弘道館を発展させている。
そこで藩士に尊皇攘夷の教えを広めていた。斉昭を擁立した中に水戸学の大物である藤田東湖と会沢正志斎がいたのも大きいが斉昭自身が尊皇攘夷に傾倒していたということもある。
ある程度の知識人であれば当時の列強がいかにして侵略を繰り返して世界に植民地を作っていたかという情報を得ることが出来た。列強に対して警戒と嫌悪を覚えるのは当然ともいえるだろう。
斉昭は海外からの脅威に敏感であった。
四方を海に囲まれている日本は異国にどこからでも進入されてしまう。これはもはや水戸藩だけの問題ではない。斉昭は幕府に対しても堂々と意見を述べていた。
砲台の設置、海軍の創設、蝦夷地の開拓。これらの政策は幕府には受け入れられなかった。
しかし斉昭の改革は天保の改革のお手本になったともされて、彼の進言のいくつかは幕末から明治にかけて推進されて行くことになる。
また千葉周作を招いて剣術師範としたり、間宮林蔵を招いて蝦夷地の状況を語ってもらい蝦夷地開拓計画を立てたりと優秀な人材を招いて活用しようとしている。
君主にとって人材の活用というのがもっとも必要な素質でありやはり徳川斉昭は名君だといわざるを得ないだろう。
水戸藩の先進性と斉昭の名声は高くなり尊皇攘夷の思想は日本中へと広まって行くことになる。




