シーボルト事件
文政11年(1828年)にシーボルト事件が起こる。
ドイツ人医師シーボルトによるスパイ事件である。
シーボルトはオランダ商館長について医師として入国した。オランダ人がお雇い外国人として他国の人材を出島に連れてくることは珍しくは無い。幕府としては建前上は禁止していたが黙認していた。
西洋の最新の医学を学んでいたシーボルトは歓迎されて特別に出島の外で治療することを許されていた。
そしてシーボルトの医学知識を学ぼうと医者や学者が集まり鳴滝塾が開設された。高野長英、二宮敬作、伊東玄朴、小関三英、伊藤圭介などが鳴滝塾で学んでいる。
シーボルトは日本人からも尊敬されて多くの学者や知識人と交流を深めていた。
最上徳内、間宮林蔵、高橋景保などと接触して西洋の知識を話している。そんな中で西洋の本などの品々と日本地図などを交換していた。
日本地図は幕府にとって機密の品だった。それをシーボルトが手に入れたという話を聞きつけて、シーボルトと交流していた学者が次々と捕らえたのだった。これがシーボルト事件である。
シーボルト事件の発覚にはこの年に九州北部であった大型台風が影響していると言われている。
この台風でシーボルトが国外に送り出した荷物が流れ出して日本地図などの禁制品が見つかったというのだ。
この説からこの大型台風をシーボルト台風と呼ぶこともある。
実際には台風被害の前より幕府に目を付けられていて調査は始まっていた。
この事件により幾人かの蘭学者や幕臣が捕らえられた。シーボルトの弟子も疑われて調べられている。
捕らえられた高橋景保は獄中で死亡してしまった。
大掛かりな事件となり日本の医学の発展に貢献したシーボルトもただではすまない。
スパイ容疑でシーボルトは国外追放ということになってしまった。
文政12年。シーボルトは日本を去ることになった。
彼には長崎で滝という女性と恋におちて子供を作っていた。
娘の名前はイネ。この時はまだ3歳である。数え年齢なので実年齢は2歳だ。
シーボルトは日本に残す妻子を思い慟哭した。
そして必ず日本に戻り再会しようと誓うのだった。
日本を追放されたシーボルトはオランダ国王に仕えることになる。
そこで日本の情報を詳しく記した『日本』という本を発行した。
『日本』は各国の言語に翻訳されて世界中に広まっていく。
なお、詳細な日本地図が載っており間宮林蔵が発見した間宮海峡が記されていた。日本人の名前が残る世界唯一の海峡である。この地図は最上徳内が渡したものだとも言われている。
この一件から分かるようにシーボルトは本当にスパイだった。
何も007のようなスパイではなく医者として勤めながら日本に関する情報を集めて報告するというスパイである。オランダが日本に攻め込もうとしていたわけでもなく鎖国情勢下で情報の少ない日本の情報を集めていただけだ。シーボルトが好奇心旺盛で社交的だったためにスパイの仕事が順調過ぎて目立ちすぎたということなのだ。現代でも友好国同士で情報を盗み合うことは珍しくない。
シーボルトが発行した「日本」により欧州はちょっとした日本ブームとなった。そして、日本に関する詳しい知識を得た各国はそれぞれが幕府に大して開国するように圧力をかけていくことになていく。
日本に戻り妻子に会いたいシーボルトは日本を開国させようと考えていた。『日本』の執筆はその準備である。
日本を開国させた影の功労者はシーボルトといっても過言ではないかもしれない。
シーボルトが日本に残した娘についても語っておこう。
シーボルトには日本人女性のタキとの間にイネという娘がいた。シーボルトが国外退去になった時にはまだ3歳だった。
文政12年にシーボルトが国外追放されたことで彼の妻子の楠本滝とイネの親子は取り残された。
その2年後の天保2年、楠本滝は再婚した。5歳のイネは義父により育てられることになる。
しかし、物心がついて自分で考えられるようになるとイネにも分かる。ハーフであるイネの容姿は明らかに周囲から浮いていた。オランダ人が多い長崎とはいえハーフのイネは奇異の目で見られることになる。イネは幼くして自分のアイデンティティを確立させないとならなかった。
そしてイネは記憶にない父に憧れることになる。シーボルトの弟子達がさかんに彼を褒めていた影響があるのかもしれない。立派なファザコンに育ったイネは医者になりたいと考えるようになった。
女性が医者になるなど考えられない時代であったが、そんなイネを支援する人も現れた。シーボルトの弟子であった二宮敬作だ。彼はイネの意思を尊重して医学を教えることにした。イネは医学を学び日本初の女医ともいえる存在へと成長して行く。




