フェートン号事件
18世紀後半にロシアがユーラシア大陸を横断して極東まで勢力を伸ばした。
それにより18世紀末から19世紀初頭に日本と接触した。文化露寇を経てゴローニン事件で和解した日露はしばらくの間は直接の接触はしていない。
一方でその他の欧州列強はどうだったのか。18世紀後半からイギリスで起きた産業革命により生産力が爆発的に向上した。その製品を売るための市場を求めてこれまで以上の海外進出が活発になっていたのだ。
アメリカでは独立戦争が起きてイギリスの新大陸での権益は大きく削られた。こうしてイギリスはアジアへと目を向けて行く事になる。
産業革命とともに発生したのが市民革命である。
18世紀後半に起きたフランス革命の影響で欧州では市民革命の余波が響いていた。
その当のフランスは革命後の混乱から1人の英雄を生み出す。ナポレオン・ポナパルトだ。
ナポレオンはフランス軍を率いて連戦連勝しヨーロッパを席巻した。これが日本に影響して来ることとなる。
なお、ナポレオンはロシアとも戦争しており時期がゴローニン事件とも被っている。ロシアが交渉で事件を解決したかった理由としてナポレオンとの欧州戦線が大事で日本と紛争していられなかったということもあるだろう。
オランダはナポレオン率いるフランス軍に敗れてフランスの属国となっていた。一方でオランダ王族はイギリスへと亡命して亡命政権を作っていた。イギリスとフランスの間でオランダという国が火種として存在していたのだ。
オランダ本国がフランスに降伏したために各地のオランダ領も弱体化していた。それにかこつけて海外にあるオランダの植民地や拠点をイギリスが奪おうとしていた。アジア各地でオランダ船を見つけると拿捕してしまうという海賊的行為が行われていた。大航海時代に海賊に免許を渡して公営海賊にしたことは有名だが19世紀となると海賊は違法でありそういう制度はない。とはいえ海洋国家イギリスには海賊の気風が残っていたといえるだろう。
オランダといえば鎖国政策下の日本と貿易を続ける唯一の欧州国家である。
長崎の出島に住んでいて本国との間で貿易を続けている。
この出島にイギリスが目をつけた。
文化5年(1808年)にフェートン号事件と呼ばれる事件が発生する。
長崎にやってきたイギリス軍艦のフェートン号はオランダ船に偽装して港へ侵入した。
フェートン号はオランダ船が入港していたら拿捕しようと考えていた。
しかし、オランダ船は停泊しておらずに計画を中止することになる。
そこへオランダ船に偽装していたフェートン号にオランダ商館の商人2人が接触してきた。フェートン号は彼らを捕虜として捕らえた。
フェートン号はオランダ人の人質を使い薪水や食料の補給を要求した。
長崎奉行は断ることが出来ずに言われたままに補給の品を提供することになった。
フェートン号は補給を受け取るとオランダ人を解放して悠々と去っていった。
被害はほとんどなかったがイギリスの海賊行為に幕府が屈したも当然の出来事である。
文化露寇と合わせて幕府は異国の脅威を強く認識することとなった。
フェートン号に長崎奉行が屈した理由として長崎防備を担当していた佐賀藩の人員装備が揃っていなかったという事情もある。他藩への応援も要請したが間に合わなかった。
佐賀藩は財政が悪化しており藩主の鍋島斉直は藩政改革を行っていた。佐賀藩は経費節減のために勝手に人員装備を減らしていたのだ。
この事件の責任を取って長崎奉行と佐賀藩の家老が切腹することとなった。
佐賀藩の藩主の鍋島斉直も謹慎となり、佐賀藩ではフェートン号のトラウマが刻み込まれた。
佐賀藩に海防意識高まった。長崎の防衛に手を抜くことは許されなくなった。
ただでさえ悪化していた財政はより悪くなる。
そして文政11年(1828年)に巨大台風が北部九州を襲い佐賀藩だけで1万人の死者を出すという被害を受けた。これにより佐賀藩の財政は破綻した。
天保元年(1830年)、鍋島直正は16歳で藩主の座につくことになる。
彼の登場により佐賀藩は幕末にて日本一の技術立国となることになる。




