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End Of Edo ~幕末~  作者: 吉藻
第一章 江戸時代
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    幕末人物ファイル01

 *** 徳川秀忠とくがわひでただ ***


 天正7年(1579年)生まれ 。江戸幕府2代将軍。

 徳川家康の三男として生まれるが長男の信康のぶやすが謀反の疑いで切腹、次男の結城秀康ゆうきひでやすが養子に出ていたために跡継ぎとなる。

 関ヶ原の戦いで遅参するという失態を演じたために一時は廃嫡されそうになるったが許された。

 慶長10年(1605年)に家康は将軍職を秀忠に譲り、秀忠は2代将軍となった。

 家康は大御所となりその後も政治を司ったために秀忠には実権はなかった。しかし秀忠は「頭が二つあれば混乱する」といい自らの意見は述べずに全て家康の言うとおりにする。

 元和2年(1616年)に家康が死去した後は将軍親政を開始して幕府の実権を握る。信頼できる側近を抱えて徳川幕府を磐石名物ととした。

 元和9年(1623年)に将軍職を家光に譲り大御所となる。大御所となった後も家康と同様に実権を握り政務を続けた。

 寛永9年(1632年)に死去。

 関ヶ原の遅参などにより武将として優秀であったとは言い難い。当時の評価としても他の兄弟より武勇に劣るとされていたようだ。家康は秀忠の武将としての力でなく律儀で家康の政治路線を守るところを評価して跡継ぎにしたと思われる。

 これらにより全体的な評価も低くなり勝ちだが、政治家としての秀忠は幕府の礎を固めた人物として徳川将軍の中でもトップクラスだと言えるだろう。





 *** 徳川家光とくがわいえみつ ***


 慶長9年(1604年)生まれ 。江戸幕府3代将軍。

 幼少時には聡明な弟の忠長を秀忠と江の両親が溺愛していて世継ぎにしようとしていたと言われるが、乳母の春日の局が家康に謁見して、家康は長子である家光を世子とすることを宣言した。

 こうして元和9年(1622年)に将軍職を継いだ。

 将軍職を退いた秀忠は大御所として幕府の基礎を固めた。寛永9年(1632年)に秀忠が死去したことで家光が実権を握ることになる。

 家光は島原の乱を鎮圧すると鎖国政策を完成させる。参勤交代の制度を作ったり老中制度などの政治の仕組みを完成させた。

 これにより幕藩体制の完成者としての評価が高い。

 慶安4年(1651年)に死去。

 死の直前に異母弟の保科正行ほしなまさゆきに息子の家綱いえつなの後見を頼んだという。





 *** 保科正行ほしなまさゆき ***


 慶長16年(1611年)生まれ 。

 2代将軍徳川秀忠の庶子として生まれる。出生は一部の重心にしか知らされなかったが、家光は正行の存在を知るととても可愛がったという。

 寛永20年(1643年)に会津23万石の大名となった。

 慶安4年(1651年)に家光が亡くなる前に将軍を補佐して後を頼むと言い残す。この願いを聞き入れた正行は家綱の後見として幕府を支えた。また、会津松平家に「将軍家を決して裏切るな。藩主が裏切った場合は家臣は従わなくて良い」という家訓を残した。この家訓により幕末の会津藩主松平容保(まつだいらかたもり)は幕府と心中することになる。

 正行は藩政にも幕政にも優れた手腕を発揮しており幕府の基礎を作った人物として高く評価されている。

 寛文12年(1673)年に死去。





 *** 田沼意次たぬまおきつぐ ***


 享保4年(1719年)生まれ 。

 父は徳川吉宗に仕えておりその縁で意次は9代将軍となる家重の小姓となる。

 そのまま将軍となった家重に仕えて出世を重ねると10代将軍の家治にも重用される。

 安永元年(1772年)に老中へと取り立てられると幕政に深く関わることになる。

 幕府の財政赤字を解消するべく重商主義政策をする。

 株仲間の結成や海外貿易の拡大などで財政の改善をみたが、天明の大飢饉により逆に財政は悪化した。

 天明6年(1786年)に将軍家治が亡くなると田沼意次は失脚した。

 天明8年(1788年)に死去。

 昔は賄賂政治家であるとの評価であったが、近年は蝦夷地の開拓や貿易の拡大を計画しており蘭学者の保護をし平賀源内のパトロンとなるなど先見性に優れた人物であるとの評価が高い。

 江戸中期の幕政改革者の中では吉宗以上であるともいえ、天明の大飢饉や政敵による失脚がなければ幕末の歴史は大幅に変化していただろうと思われる。





 *** 杉田玄白すぎたげんぱく ***


 享保18年(1733年)生まれ。

 宝暦5年(1757年)に町医者となり平賀源内や中川淳庵と交流を持つ。

 明和8年(1771年)にオランダの医学書ターヘルアナトミアを購入する。長崎より同じ本を購入してきた前野良沢らと共に翻訳を行った。辞書も無い中での困難な翻訳作業を続け、安永3年(1774年)に解体新書を刊行し将軍家に献上する。

 解体新書の訳には誤訳が多かったので随時改訂版を出していくことになった。

 時代は蘭学者が不遇の時を迎えるが、杉田玄白は世渡り上手で上手く時代の荒波を乗り越えて医者としての名声と財を築いていく。そして多くの弟子を迎えて蘭学を後世に繋げていった。

 晩年には解体新書を翻訳した苦労を綴った蘭学事始を執筆した。

 知人にのみ配る少数のものであったが、明治になり福沢諭吉が古本屋で発見したことにより広く発行されることになる。これにより蘭学黎明期の事情が世に知られることになった。

 文化14年(1817年)に死去。





 *** 高田屋嘉兵衛たかだやかへえ ***


 明和6年(1769年)生まれ 。

 江戸時代後期の廻船問屋であり蝦夷地に進出。国後島と択捉島間の航路を開拓した。

 文化8年(1811年)にロシア軍人のゴローニンが文化露寇の報復として拉致された。

 ロシア政府はゴローニンを解放するように言うが幕府は死んだと嘘をついて拒否する。

 ゴローニンの部下のリコルドはゴローニンが死んだという話を信じず、情報を入手しようと日本船を拿捕した。それに乗っていたのが高田屋嘉兵衛である。

 文化9年(1812年)に捕らえられた高田屋嘉兵衛はリコルドにゴローニンが生きていることを伝えて2人で事件解決を図る。そして文化露寇がフヴォストフの独断でロシア政府は関係していないとの書簡を得て幕府と交渉してゴローニンの解放を図った。

 こうして文化10年(1813年)にゴローニンは解放されて事件は解決する。ロシアとの緊張関係はとけて紛争は終了した。

 高田屋嘉兵衛は幕府から褒美をもらったり武士待遇を得たりと評価され文政10年(1827年)に亡くなった。

 その後の高田屋は弟が後を継いだが密貿易を疑われて没落した。





 *** 最上徳内もがみとくない ***


 宝暦4年(1754年)生まれ 。

 貧農の子であったが学問を志して奉公先で学問を学んだ。

 田沼意次が蝦夷地探索を命じた時に下男として同行する。千島・樺太まで探索している。

 田沼意次の失脚と共に蝦夷地探索は中断される。その後にアイヌで反乱が起きて上司の青島と共に調査して幕府に報告するものの勝手な行動をしたということで松平定信に処分された。

 寛政4年(1792年)にラクスマンが来航したことで蝦夷地の重要性を認識した松平定信により再び蝦夷地探索が命じられる。

 最上徳内は幾度と無く蝦夷地・樺太・千島列島を探索して蝦夷地のスペシャリストとなった。

 択捉島に碑を立てて日本領として駐屯所を置くように進言したのは徳内である。

 その功績により士分へと取り立てられる。

 シーボルトとも交流があり間宮林蔵が調査した樺太の地図を与えた。この時にあったシーボルト事件の調査からは逃れている。

 天保7年(1836年)に死去。


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