蘭学事始
鎖国政策はキリスト教の流入、すなわち西洋文化の流入を防ぐという意味合いで始まった。それゆえに西洋の学問も禁止されていた。
それを解禁したのが徳川吉宗だ。吉宗はキリスト教に関する書籍以外の輸入を解禁したのである。
長崎の出島から洋書が入り珍しいものを集める大名らの手に渡った。
しかし、それを読めるものがいなかった。
長崎の通訳はオランダ語の会話だけしかできない。それも代々親から直接習うものだ。
基本的なABCは理解しているし出島でオランダ人と会う機会が多いので単語くらいは分かる。それでも洋書を読むことなど出来ない。
制度だけを解禁しても読める人間がいないので意味が無い。そういう状態が50年ほど続いていた。
医者の杉田玄白と前野良沢らが最新の西洋医学を学ぼうとターヘルアナトミアという医学書を翻訳しようというのが始まりだった。
オランダ語の通訳からアルファベットといくつかの単語を習っただけで洋書の翻訳という難題を始めてしまう。ほとんど暗号解読とか古代語解析の世界だ。そんな苦労の末に「解体新書」は完成した。
安永2年(1773年)に刊行する。当初は誤訳も多かったが、後に改定を繰り返した。
玄白の弟子である大槻玄沢は文政9年(1826年)に「重訂解体新書」を刊行している。
解体新書は江戸時代の医学と蘭学の発展に大きな影響を与えた。
これが下地となり江戸時代後期に蘭学が発展して行くことになる。
この蘭学の発展には田沼意次の影響がある。
重商主義を考えていた田沼意次は出島での貿易の拡大を考えていた。開国まで考えていたかは定かではないが、北方探索でロシアの動向を気にしていたところから田沼が失脚していなければロシアとの交易はあったかもしれない。
その田沼意次は天明6年(1786年)に失脚した。
後ろ盾であった10代将軍徳川家治が亡くなったからである。
徳川家治の嫡男は早くに亡くなっていた。それにより生前に御三卿の一橋徳川家から養子を取っていた。
こうして11代将軍となったのが徳川家斉だ。
そしてまだ若い家斉の補佐するとして白河藩主の松平定信を老中首座についた。
松平定信は田沼の政治をことごとく否定して質素倹約と農業中心お重農政策へと舵を切る。これが寛政の改革である。
松平定信の寛政の改革は商業を振興させようとしていた田沼の政策の逆をいったことで不景気を呼び幕府財政に負担をかけた。あまりに切り詰めた倹約政策に庶民からは不評の声があがり「白川の清きに魚のすみかねてもとの濁りの田沼こひしき」などと狂歌を歌われることになる。
松平定信は文武を奨励していた。
武士は質素倹約に励み文武を嗜み高潔でないといけない。そう考えていた。
これにより剣術が振興して江戸後期に剣術道場が栄えることになる。これが幕末に多くの剣術家が出てくる下地ともなった。
学問の方といえば当時は儒学である。松平定信は武士らしさというものを大事にした。
そして海外の学問―――蘭学は学問ではないとして軽視した。場合によっては制限を加え弾圧さえした。
田沼意次の下で発展の芽を出した蘭学は松平定信の下で静かに眠ることになる。
この気風は幕末直前まで続くことになり江戸後期は蘭学軽視と蘭学蔑視の時代となった。
それでも西洋の医学・科学が進んでいることを知る知識人は白眼視されながらも蘭学を求めていく。