幕末概要(上)
江戸時代の後期になると西洋諸国の異国船が日本近海に現れるようになる。
幕府の鎖国政策は行き詰まりを見せてくるのだ。
幕府が財政難に陥った最中、追い討ちをかけるかのように天保の大飢饉が襲い掛かった。
更に大塩平八郎の乱が起きて幕府そのものの屋台骨が揺らいで来る。
幕府は天保の改革により難局を乗り越えようと考えるが、改革は失敗に終わり幕府の威信はますます低下した。
その後で幕府の頂点に立ったのは阿部正弘である。
阿部正弘は優秀な人材を登用しつつ広く意見を求め外様大名や御三家水戸を幕政参加させた。
経済政策や海防政策に力を入れて幕府を立て直そうとする。
そんな時にやって来たのが米国艦隊を率いたペリーだ。
ペリーは砲艦外交で幕府を脅して日米和親条約を結ぶ。
これにより徳川幕府の鎖国政策は終焉を迎えたのだった。
時を同じくして日本にやって来ていたロシア帝国のプチャーチンと日露和親条約を結ぶとイギリスとも日英和親条約を結ぶ。
幕府は開国したことにより西洋列強より国を守る必要性を感じて海防強化をはかる。
阿部正弘による一連の幕政改革を安政の改革という。
日米和親条約は港を開いて補給をするというだけで通商をするものではない。
アメリカは日本と通商を行うために領事としてハリスを来日させた。
下田に到着したハリスは幕府の役人と交渉をする。
それにより日米追加条約(下田協約)が結ばれることとなった。
下田の役人だけでは本格的な通商条約が結べないので江戸で本格的な交渉をすることになる。
ハリスは江戸に行き将軍の徳川家定と謁見した。
その後に幕府の老中らと通商条約について協議する。
幕府は通商条約を締結するにあたり反対派の意見を抑えるために朝廷からの勅許を得ようと考える。
江戸時代を通じて朝廷は幕府の支配下にあり権威は上であるが幕府には逆らうことが出来ない。
なので簡単に勅許が得られると考えていたのだが、ここで計算違いが起こった。
江戸時代後期より尊皇運動が活発化していたことがあり朝廷の権威が上がり、通商条約の反対派が朝廷を利用して条約締結を阻止しようと工作していたのだ。
そして孝明天皇が大の外国嫌いであったことが幕府の計算を狂わせる。
権勢の低下していた幕府は朝廷に対して強引に言うことに聞かせることが出来ずに勅許を得られなかったのだ。
この通商条約の勅許問題と平行して将軍の後継者問題が持ち上がっていた。
13代将軍の徳川家定は病弱で子供がいない。その後継者を巡り2派が争っていたのだ。
この時に紀州派と呼ばれる一派が井伊直弼を大老に押し上げて徳川家茂を次期将軍に内定させる。
大老となった井伊直弼は幕府の威信回復のために勅許無しでアメリカと通商条約を結んだ。日米修好通商条約である。
井伊直弼の強引なやり方に反発した徳川斉昭らの勢力は逆に謹慎させられてしまう。
井伊直弼は更に他国と通商条約を結んだ。アメリカ・ロシア・イギリス・フランス・オランダの5カ国と短期間で通商条約を結ぶ。これを安政五カ国条約という。
そして朝廷に対して勅許を出すように圧力をかけていく。
井伊直弼のやり方に反発した孝明天皇は水戸藩の徳川斉昭に秘密の勅書を出す。戊午の密勅である。
密勅の内容自体は穏便な内容だったが天皇が幕府でなく水戸藩に勅書を出したことが問題となった。
幕府は朝廷から政治を委任されているという建前がある。その朝廷が徳川幕府でなく水戸藩に政治をするように言うということは水戸幕府というものを認めるに等しい。実際のところ孝明天皇は倒幕など考えてなく幕府に対して考えを改めるための警告でしかなかった。しかし密勅の政治的意味を突き詰めると倒幕運動に結びついてしまうのだ。
井伊直弼はこの密勅を重く考えた。
政敵であった徳川斉昭が幕府転覆まで計画していると邪推したのだ。それにより密勅の関係者を徹底的に弾圧することになる。その弾圧は朝廷にも及んだ。
あまりに過酷な弾圧で政敵を排除していったことが反動を生む。
尊皇攘夷運動が盛り上がっていたこともあり、朝廷を弾圧して外国と条約を結ぶ幕府に対する討幕運動へと繋がることになった。
そして大老・井伊直弼は江戸城へ登城する最中に襲われて殺されてしまう。桜田門外の変である。
幕府の最高責任者が白昼同等と暗殺されたことにより幕府の権威は地に落ちた。
そして討幕運動が盛り上がりテロが横行する幕末の時代へと進んでいく。