一話
1
梅雨の6月、厚ぼったい雲の下を私はぼんやり一人で下校していた。周りの生徒たちもどんよりとした天気の所為か、どことなく覇気がないようにも、生気がないようにも見える。気の滅入るような午後5時15分。私たちは、言いようのない何かしら“ぼんやりとしたもの”に取り憑かれた。ほとんど必然的なまでに。
私は今日の授業の要点とか、夕飯に何が食べたいかとか、そんなくだらないことをばかりを考えていたが、それらは本当に取り留めのない霞のように頭の中を通り過ぎていった。特に大切なことは何も考えていなかったのだが、一秒前に考えていたことさえも思い出そうとしても思い出せない。そのことに、僅かに引っかかりを感じたが、疑問に思うほどではなかった。学校からの緩やかな坂道をゆったりと歩いていく。
数メートル先の角には私の幼馴染の野上将太が立っていた。普段はサッカー部のキャプテンを務める朗らかな少年だ。
その彼もまた、ぼんやりと焦点を失ったように突っ立っていて、私は唐突に何か異様なざわめきを感じて彼の向かいに目をやった。そこにはあきらかにおかしな方向へとスピードを上げる車があって、私は考えるまもなく次の瞬間、地面を力いっぱい蹴った。そして体が飛び跳ねたように野上将太に体当たりしたのだった。
ふわっとした感覚とブラックアウト。
目が覚めると、なかなかいい気分だった。良く眠った後のさわやかな寝起きで体を起したが、テンポが遅れているように体が思うように持ち上がらなくて驚いた。
見回すと、そこは病室で私は一人部屋のベッドの上で眠っていたのだ。しばらく自分がなぜここにいるのかわからずに考えた。何をしていたのだろう?
だが1分も考える暇もなく、正面のドアが開いた。
「起きたのね。良かった。お父さんもおばあちゃんも心配したんだから。」
ようやく安堵したという顔で母親が部屋に入って来た。
「どこも痛くない?」
そして私は唐突に思い出した。
「野上君は?」
「僕はここだよ。」
母親の背後で声がした。病室のドアの前には車いすに座った野上将太が、彼の母親に付き添われて部屋に入って来た。両足にギプスをはめている。
「もう少しで死ぬところだった。神野さん、本当にありがとう。」
そう言う彼の顔は青白くて、私は思わず不安になった。
「野上君、その脚は?」
聞くまでもないことだが、サッカー部の彼はよりにもよって足を怪我したのだ。
「ただの骨折だよ。この程度で済んで本当にラッキーだったんだ。神野さんが体当たりしてくれていなかったら、足どころか命がなかったよ。」
顔色は悪くとも、彼はきっぱりとした言葉で真摯に感謝を伝えた。勿論、命とは比べ物にならないにせよ、彼にとってこの怪我は些細な怪我ではない。全国大会に向けた地区予選だって間近だと聞いている。それでも、私にはそんな心配をさせまい、というそういう毅然とした態度だった。私があまり過度に反応するのも失礼かもしれない。
「何より、お互い生きていてよかったね。」
「うん。神野さんのおかげだよ。」
“ありがとうございます”、と母親と一緒に頭を下げられて、少し恐縮した。
「また改めてお礼にまいりますので。」
野上親子は帰っていった。そして、ようやく私は自分の体は無事だったのか?ということに思い至った。
「お母さん、私は体大丈夫?」
目が覚めてしばらく経つのに、体が一向に重いままで、もしかすると自分も怪我をしたのかもしれないと思い尋ねた。母は私の髪の毛をなぜながら、ちょっと呆れたように言った。
「あんたは奇跡的にも無傷だったのよ。軽い脳しんとうですって。また詳しく検査してみないとわからないけど、その様子なら大丈夫ね。まったく走ってくる車の前に飛び出すなんて。いくら人を助けるためでも、もうしないでちょうだい。」
母が無事を確認するように、私を抱きしめた。しばらくして父も病室にやってきて、頭を撫でた。看護師やお医者さんもやってきて、少し会話をしたけれど、詳しい検査は明日行うらしい。1時間も起きていた気がしないけれども、異常な疲れを溜めこんでいた私はその後すぐに眠りに就いた。翌日の朝早くに(と言っても6時過ぎ)目を覚ました時、何か気になる夢を見たような気がしてしばらく考え込んだ。けれども、看護師さんが朝食を持ってきてくれるまで考えてみても思い出さなかったので、諦めてコッペパンに蜂蜜を垂らして食べた。
だいたいのストーリーは考えていますが、長い話になりそうです。エンディングは決めているけど。のんびり更新します。