その街角
日本の屋台のラーメンが美味い以上に、ロスアンジェルスでは屋台のメキシコ料理が美味い。大型トラックに作り付けのキッチンは清潔だし、値段も安い。夜間、路上や駐車場で営業しているそれに、長い列が出来るのも珍しくない。
今まさに剛はその屋台を見つけて、駐車場に車を入れたところだった。車の修理工場の駐車場に停まっている屋台から、明るい光が洩れている。出来立てのタコスや、ケサディヤのとろりとしたチーズを想像すると胃が捩れそうだ。
車をロックして屋台に近づいた剛は、奇妙なことに気が付いた。
トラックの横っ腹にあるカウンターには何種類ものサルサソースやタコスに入れる玉ねぎやトマトが置かれ、サービスのビーンズまでが微かに湯気を立てている。脇に立ててある大きな値段表の天辺には、「営業中」のサインまで付けてある。しかし、店員が一人も見当たらないのだ。
大概、三人や四人はいるのが普通だから、トイレに行ったとも考えらえない。全くの無人で不用心もいい所だ。
ぽかんとして他に客はいないかと、辺りを見回すと、ちょうど駐車場に滑り込んだムスタングからヒスパニックの青年が、勢いよく降りて来るところだった。バスケのユニフォームから突き出た腕中に刺青が入っているのが、屋台からの光で見える。
だぼっとした膝下まであるショートパンツを履き、短く刈り込んだ頭に派手な色のバンドをしている。刺青に大きく39の数字が浮いている所からして、ストリート・ギャングらしいが、彼の目的も遅めの夕食だと思いたい。
軽いステップで屋台に近づきかけた彼は、急に凍りついた。「おぇ、マジかよ?」と言って首を回し、五メートルほど離れた剛に目を向ける。
「おめぇ、いつ来た?」
「ほんの一分前」
「そん時から誰もいねぇの?」
「うん、そう。どうしちゃった……」
どうしちゃったんだろうね? と剛が言い終わる前に、彼は張り裂けんばかりに目を見開き「畜生!」と怒鳴った。体の前で両方の拳を握り、震えながら「畜生、畜生」と繰り返す。
マフィアそこのけのストリート・ギャングのメンバーがこんな反応をするのは、一体どういう事態だろう。ひょっとしてこの屋台は何かの取引現場だったのだろうか。
「あの、大丈夫? 何でそんなに驚いてるんだい?」
「ハァ? 馬鹿か、おめぇ! こんな人のいねぇ屋台はな、呪われた屋台なんだよ。ここに来ちまったからには、俺もおめぇもどんな目に遭うか分かりゃしねぇんだ」
叫ぶように言った彼は、「くそ、冗談じゃねぇ!」と半分泣いた顔で身を翻した。剛が何か言う間もなく、車に飛び乗って急発進させる。
灯が点いて人のいない屋台の話なら、日本にいた頃、聞いたことがある。確か本所七不思議の一つではなかったか。二百年近くも経って太平洋の反対側で、同じ怪異譚が生まれるとは。
感心しかけた剛だったが、横目で見れば人のいない屋台はまだ同じようにそこにある。
さて、自分はどうしようかと考えたとき、西の方から嫌なブレーキ音に続いて、大きな衝突音が響き渡った。爆発でもしたかのような鋭い音だ。
さっきの彼とは限らない。しかし、首の後ろが冷たくなった。
思わずシャツの前を合わせるようにして、剛は車に向かった。キイを差し込んで回したが、エンジンが掛からない。バッテリーのランプが点かず、音もしないからスターターの故障かもしれない。毎日乗っているのに、それらしい兆候は一切なかった。
酸素が薄くなった気がした。
ともかく助けを求めなくてはと、携帯電話を探る。待ち受け画面にはいつもと同じ、明るい光が点ったけれども、圏内を示すバーが一本も立っていない。剛は弾かれたように車から飛び出した。
駐車場は暗く静まり返っている。さっきまであったトラックの屋台は、影も形もなかった。
あれだけ大きなトラックが移動するのに、気が付かない訳がない。さっきの彼が言った事は本当だったのだろうか。そんな、呪いだか不幸だかの屋台があるものだろうか。
泣きたい気分で剛は携帯の画面を睨みつつ道路へ出た。バーは相変わらず一本も立たないが、三ブロックほど離れた場所に、小さくリカーショップのサインが見えた。
リウズ・リカーショップは昔ながらの、小さな酒屋のようだった。商店街の外れで、小さな工場などが並ぶエリアの一角で細々と営業しているらしい。重いガラス戸を開けると、奥まった古いカウンターで中国系らしい老人が顔を上げた。
ともかく人がいたという安心感に、カウンターへ歩み寄る剛の背後から、けたたましいサイレンが聞こえた。警察の車だけではなく、消防車もいるようだ。クラクションで道をあけながら現場へ向かっているらしい。
次は自分かもしれないと思うと、足が縺れそうになる。
「すみません。電話を貸してもらえませんか? 車が動かなくなって、携帯も使えないんです」
眠たげな顔の老人は目を細めて剛の顔を見やり、唇を僅かに曲げた。
「あんた、病院へ行った方が良かないかい? 保険がなくとも診てくれる所はあるよ」
よほど酷い顔をしているのだろう。剛は苦笑交じりに「今、変なことがあったせいで」と簡単に説明した。「妙な薬をやっているわけじゃありませんよ」と付け加えるのも忘れなかった。
「あんた、そりゃあ……」
話の途中から、老人の細い目が大きくなった。無人の屋台の話は実は有名らしい。
ロスアンジェルスには五年も住んでいるが、このドライな街でそんな怪談を聞いたことはなかった。自分がどこにいるのか分からなくなりそうだ。
「どうしたら良いんでしょう?」
縋るような声が出る。自分が何かして呪いが降りかかった訳ではない。偶々、屋台を見てしまっただけだ。
「ふーむ、あれは何なんだろうなあ? それが分かれば何か出来るかもしれんがな」
おっとりとした声を出す老人に、剛は必死で記憶の糸を手繰った。言語は違っても、似たようなしわがれ声で本所の話を聞かされたせいもある。本所七不思議を語ってくれた祖父は、あの時何と言っていたか。
「そうだ。私の国では、無人の屋台は狐とか狸の仕業と言われていました。人間を騙そうとするんです」
精一杯思い出した剛の言葉に、老人はふんと鼻を鳴らした。
背後を振り返って何やらごそごそと探り、向き直ったときには手に黄色い長方形の紙を持っていた。赤い色でびっしりと漢字が書きこんである。
「これをな、あんたの身代わりと一緒に川へ流しておいで。動物ならそれで引っ掛かるかもしらん」
「身代わりって?」
「その携帯が良いだろうよ。どうせいつもは、のべつ幕なしに使ってるんだろ? 分身みたいなもんだ」
大事なデータがと言いかけて、剛は口を噤んだ。さっき聞こえた衝突音とサイレンの音が蘇る。無人の屋台から降りかかる不幸が、本当にあるのかないのかは測りようがない。
しかし今この身を危うくするのは、自分のためだけでなく、したくなかった。
分かりました。川はどっちですかと素直に頷いた剛に、老人は黄色い札と携帯を結ぶための紐を渡して、道順を教えてくれた。ここは街の東側で、近くをロスアンジェルス・リバーが流れている。
「慌てちゃいかん。しかし急げよ。生きて戻れたら、高い酒を買ってもらうよ」
言われてガラス戸を潜ると、剛は走り出した。まだ零時には間があるのに、通りかかる車は少ない。妙に街が暗いように感じた。
近道と言われた住宅街へ入る。静まり返った家々の間を走り、何度か曲がったときに、剛は自分が土の上を走っていることに気が付いた。道を間違えたかと血の気が引きそうになり、同時に背後から視線を感じた。
追われている。
左手に握った携帯と一緒に縛った護符に冷や汗が染み込む。辛うじて足を止めずに、教えられた道順を頭の中で反芻した。戻るのはきっと危険だ。
荒い息を吐きながら、胸を突き出すようにして走った。川はもう近いはずだ。
ふいに以前にも、こうして命懸けで走った事がある気がしてきた。嫌な既視感だ。風が鳴っている。
やっと川の土手が目の前に見えて来た。もう自分のすぐ後ろに何かの気配を感じる。
剛は死に物狂いで土手を這い登った。土手の上にはアスファルトの遊歩道があったはずだが、その硬い感触は感じられない。草と土の傾斜を一気に駆け下りて、川へ飛び込んだ。
ロスアンジェルス・リバーは決して深くない筈だったのに、足が着かない。頭まで潜った。真っ暗な水は刺すように冷たくて、剛はたちまちパニック状態になった。
そして思い出した。
ずっとずっと昔、誰かに追われて水路を逃げた。その時は膝ほどの深さだったが、足場の悪い水の中を必死で走った。
もういけないと思ったとき、背中に丸太で叩かれたような衝撃を受けて、水の中に倒れた。背中が熱いと感じながら、冷たい水がどんどん口の中に入って気が遠くなった。
ああ、あの時俺は殺されたんだなと思い出す事で、はっきりと今は死にたくない気持ちが湧き上がった。
護符はどこだ。流さなければ。
強張りきった左手は、自分の身体ではないかのように言うことをきかない。剛は必死で指を一本一本引き剥がし、ついに手から護符と携帯が離れた。
ほっとした次の瞬間、剛は自分がしゃがんだ姿勢でいる事に気が付いた。足の下に地面を感じて立ち上がる。
水は腰の高さまでしかなかった。
リカーショップへの帰り道は無様もよい所だったけれど、舗装されていない道路は一か所もなかった。ずぶ濡れでため息を吐きながら、剛は足を引き摺るようにして歩いた。
とんだ夜だ。
携帯は流してしまったし、財布も含めて下着までずぶ濡れだ。さっき車のエンジンがかからなかったのが呪いならいいが、実はただの故障だったらどうやって家まで戻るのだ。
誰かに殺された記憶は、前世のものかもしれないし、実は映画かテレビで見ただけかもしれない。いずれにしろ、この先役には立たない。
それでも、と剛は思った。呪いに関してはもう大丈夫な気がする。
リカーショップの老人は、誰かと電話中だった。剛の顔を見て頷くと、軽快な中国語で受話器に向かって何事か告げていたから、剛の話をしていたのだろう。「ツァイチェン」と言って電話を切ると、剛に向き直って「ようこそ、お帰り」と目尻に皺を作った。
「今、お寺の坊様と話しておったよ。逃げ切れて何よりだ」
「ありがとうございました。助けてもらったお礼に、高い酒とやらを買いますよ」
この期に及んで余計な出費があるのは嬉しくないけれど、老人が剛を助けてくれたのは確かなのだし、家に帰りついたら飲んだくれてやろう。
顔を綻ばせた老人が、カウンターに上等なブランデーを載せる。
「一人で飲むかね?」
「いや、まあ飲む相手くらいはいます」
クレジットカードは濡れていても使えるのかと思いつつ、水を吸った財布からカードを引っ張り出す。
「そうかい。坊様が言っておったが、誰かがあんたにこの辺に屋台がある事を教えたろう?」
「え? そうですね」
老人は何を言いたいのだろう。
「その相手はあんたに死んで欲しくて、ここらに美味い屋台があると言ったんだそうだよ」
気の毒そうに言いながら、老人は中国酒もカウンターに置いた。二本も買えと言うのか。
「これはサービス。もうその相手には会っちゃいかんそうだ」
「何を言ってるんです? そんな馬鹿なわけはないし、彼女に会わない事なんて出来ませんよ」
思わず声を高くした剛に、老人は深いため息を吐いた。
「呑気な事だよ。前にも殺されて、今世でもまた殺されてやるつもりかい?」
夕方会ったフィアンセの顔が浮かぶ。「あの通りの角に来る屋台が、すごく美味しいのよ。あなたも行ってみたら、きっと気に入るわ」と言った声も瑞々しく思い出せる。
もう一度「そんな筈は」と口を開きかけて、川に入った時に蘇った、背中への衝撃を思い出した。
それを繰り出した人物と、彼女のイメージが何故か重なってしまう。
足元に自分のシャツやズボンから滴り落ちた水が、水溜りを作っている。それが次第に大きくなるのを、剛はいつまでも動けずに見ていた。