白檀の香の女
僅かに性的表現を含みます。
主人公は老人です。
つんとした微香。微かな足音。体重の軽い女の優雅な足捌きだと、楓昇一は思う。
ずっと昔、ここが屋敷と呼ばれ多くの家人が住んでいた頃、少年だった楓は、同じものを布団の中で知っていた。足音が止まるのは、親父の部屋。扇子を鳴らす音を合図に、障子が開く。布団の中で甘痛を罪のように恥じながら、次の音を聞き漏らすまいとしていたものだ。
白い項に黒子、すっと伸びた鼻梁に紅の小口、濡れた睫の切れ長の瞳。月の光の下で、親父の部屋の雪見窓から覗見した女を、昇一は罪の苦味の中で夢想した。
女中部屋から楓の部屋の前を通り、女が親父の部屋へ行った翌朝は、母は奇妙に優しかった。
足音は女中部屋から聞こえていたはずだが、楓の知っている女中の中に、あの香と足音をもつ女はいなかった。
昇一に切ない甘痛を教えた女。つんとした白檀の香りの似合う女。
楓はまどろみの中で追憶していた。
とうに弱り果てた自らの肉体を切なく思い、楓は、少年の頃のように耳をすませた。少年の鋭い聴覚が衰えた今、楓には何の物音も聞こえない。楓は重々承知しながらもやはり寂しさを拭えない。
数十年の時を経て、楓はここに独りで住んでいた。
屋敷は母屋を残してとうに人手に渡り、広かった母屋ももうじき解体される。楓は病身の身体をおして家との別れを懐かしむために、久し振りにこの家に帰って来ていた.
屋根裏に仕舞い込んであるがらくたを処分する為でもある。蔵に入っていた年代物の遺品は兄たちの手によって金に換えられていた。
解体の日は1週間後と決めてある。
楓家の主だった親父の血を引く子は大勢いた。4人の兄の母はそれぞれ異なり、昇一の母は親父の5人目の妻だった。妾に産ませた子もいる。妾が女中だったのか、よく判らぬ頃に老いた親父は逝った。長兄が継いだ家から長兄の家族以外の者は叩き出され、昇一は母が再婚した養父に育てられた。
長兄の家は瞬く間に衰えた。他の兄姉も金に縁遠い人生を負ったと聞く。実業家であった親父の血を継いだのはどうやら昇一だけだったようだ。昇一は既に起こした会社も財産も自分より出来の良い息子に託している。
老いは兄弟に均等に訪れ、5人目とはいえ正妻の子である昇一が旧家の最後の処分をすることになったのだ。病床の兄が、弱弱しい声で、残った母屋を相続してくれと昇一に頼んだが、最早相続の値打ちは失せている。昇一は兄の治療費の足しにと母屋を兄から買い取ったのだ。
屋根裏のがらくたを女中部屋に引き摺り出し、検めていた楓は、古い桐箱の中に収められた掛軸を引っ張り出した。幾人かの鑑定人が値打ちなしと見做して放置されたものだ。楓は手拭で丁寧に埃を払って紐解いた。桐箱を開けるとつんとした微香が漂った。硬く撒いた掛軸を紐解く。微香が漂い埃臭い女中部屋に満ちる。栗の木に寄り掛かっている儚げな女の絵。楓はハタと膝を突いた。
この女。
楓は、座敷に戻り、床の間に不釣合な程小さな掛軸を掛けた。座って眺める。
この女だったのですね。お父さん。
楓は崩壊寸前の母屋の中で比較的まともな座敷に寝起きしていた。2階は崩れ、両端の部屋の天井から減り込んでいる。
軽い女の足音は、少年の頃と同じ。座敷の前を素通りして、親父の部屋へ行っていた。この屋敷に戻った夜から聞こえたあの音は、いつから再開されていたのだろうか。
今の楓はあの頃の親父と同じくらいの齢となっていた。フッと苦笑いをする。
楓はやっとほんの少し、親父に近づけたような気がした。
楓は、翌日、自らの思いつきに少年の頃のようにワクワクして、親父の部屋を手入れして、滞在部屋を座敷から移した。女の訪れを期待しているようで、忘れていた高まりを覚える。軽い興奮。楓は酒を舐めた後で床についた。
女は親父と私を間違えてやって来るのだろうか。
親父と間違えてやってきたとしても、女をどうするでもないのに。と、苦笑いをした後で、女は幾つだろう、と思った。思ってそして、ハッとした。
独りで帰って来た晩に、久しく無人だった埃と黴の饐えた臭いに顔を顰めた家なのに。十分換気をしたのに拭い切れぬ臭気がいつしか消え、漂った、新鮮な空気の満ちていたあの頃と同じ白檀の香り。無人の家に聞こえた足音。
何故、可笑しいと思わなかったのか。
親父の部屋の布団の中で、起き上がって引き攣る。
あれは、誰だったのですか。お父さん。
ゾクリとする恐怖が包む。
つんとした微香、遅れて、床を刷るような足音。
楓は、過ちを犯してしまったと目を閉じた。冷や汗が老いた肉から滲み、つつと背筋を落ちる。
女は障子の前で止まった。女は動かない。楓は息をつめた。
楓は扇子を持っていない。女は入れないのだ。
楓は障子の前で待ち続ける女の気配を感じながら、まんじりともせずに夜を明かした。
夜明けの朝日が古く朽ちかけた母屋の縁を暖めた。
楓は、腐った柱や落ちた雨樋、開かなくなった窓を見ながら、解体の準備を続けるために、女中部屋のがらくたを検めていた。
ぷんと、白檀の強い香りが鼻をつき、落とした視線の先に扇子を見つけた。扇子に描かれた鮮やかな牡丹から漂う白檀微香を嗅いだとき、昨夜の恐怖が消えた。分別も消えた。紅紫の牡丹と葉に塗られた緑が、扇ぐと、そよと風に揺れるように揺る。
夜になると座敷に戻すはずの布団がとても重く感じ、楓は親父の部屋の畳に再び床を敷いた。ジワリと畳の下から寒さがしのぶ。楓は酒を舐めながら扇子を扇ぐ。
絶対君主だった楓家当主の親父の記憶は、薄い。恐かった兄達。泣いていた母。活気溢れた楓家の家人たちを一人で支えて束ねていた近付き難く偉大だった親父の秘め事だけが強い記憶となっている。
秘め事を共有している。
楓は唇の端でふふと笑った。
恐怖と抗いきれない好奇心、扇子を持ってから再び覚えた女への欲。楓は青年のように昂る肉を扇子で扇いだ。
つんとした白檀の微香、あの足音が、昨夜と同じく部屋の前で止まった。楓は震える手でパチと扇子を鳴らした。
スッと、襖が開く。電灯を消した暗闇に、女が俯いて座っていた。座ったまま、すすっとにじって畳に膝をつき、襖を閉めた。楓を振り向き、俯いたまま、三つ指をついて頭を下げた。楓が再び扇子を鳴らす。女はつと顔を上げた。月明かりで見る女の姿に楓は微かに息を呑んだ。
やはり、物の怪であったか。
掛軸の中で栗の木に寄りかかっていた女。抜けるように白い瓜実顔に切れ長の濡れたような目が、じっと媚を含んで楓を見上げた。忘れていた欲が湧く。
溶けそうに儚い女に触れると、確かな手答えがある。白くなめらかな肌はしっとりと湿り、温い。項には脈が奮え、楓に応える吐息は甘い花の香りがする。
楓が眠るまでいたはずの女は、朝、すべての気配とともに消えていた。楓は老いさらばえた裸体を布団に横たえたまま、朝日を浴びてキラキラと光っている古床の縁をじっと見ていた。
楓は夜を待ち遠しく思うようになり、幾晩も飽きることなく女を抱いた。
いよいよ家屋解体の前日、打合せに訪れた業者が、顔色が優れないと心配そうに言ったが、それを機に、楓は解体日を延長した。
女は喋らないが、感極まると啜り泣くような嗚咽を漏らす。楓は鈴のような女のその声を聞くと、若者の頃のような高ぶりを覚えるのだった。
惚れる。
楓は、ずっと少年の頃からこの女が欲しかったのかも知れぬ。楓は日光を嫌がる女のために、雨戸を閉めっ放しにした。女の楓の床での滞在時間が増して行く。
楓は、食も摂らず酒も舐めず、女を抱き、疲れると眠り、目覚めてまた抱く。それに女は応え続けた。
こころなしか女の色が濃くはっきりと見え、頬には赤味が差す。楓はそれが堪らず嬉しい。
白檀の香は部屋に満ち、楓は飽くことない欲が湧くのだった。
再び訪れた解体業者が、楓を見て、あっと声を上げて出て行って暫く後、警官を伴って戻って来た。
救急車の中で楓は逝った。
医師は、もともと病身であったのに、何故、比較的ましだった座敷ではなく、最も朽ちた部屋で過ごしたのか訝み、ぶよぶよに朽ちた畳と布団の裏にびっしりと生えた黴が、楓の肺に菌糸を伸ばしていたと唸った。
屋敷の解体作業をしていた初老の男が、綺麗に桐箱に収められた掛軸を瓦礫の中から拾い上げた。もう一人の青年が、見事な牡丹の絵柄の扇子を拾った。
「ここは、随分昔に殿様と呼ばれた人間が住んでいたってよ。」
「へぇ、じゃ、コイツはちょっとしたお宝ですかね?」
「さぁ、でも、めぼしいモンはろくでなし長男が売っちまってるから、大したモンじゃなかろうよ。」
「じゃ、貰っちゃっても大丈夫っすよね。」
「ああ、多分な。」
青年は、扇子をしばらく眺めていたが、初老の男にスッと差し出した。
「いっつも世話になってますんで、相沢さん。」
相沢は、遠慮しながら扇子を受け取ると、急に扇子が欲しくてたまらなく思え、青年に礼を言いながら頬を紅潮させた。
相沢は、掛軸を取り出した。
栗木に寄り添う艶を帯びた女に魅せられて、掛軸を居間に飾った。
「値打ちはないかも知れないが、いい女だなぁ。まるで、俺に気があるみてーに、見えるぜ。」
相沢は、掛軸を肴に、酒を舐めた。
扇子を扇ぎながら掛軸の女を見ていると、忘れかけた肉欲がジワリと下腹部に蘇り、相沢は濁った眼で掛軸の女を見る。掛軸の中の女は、上気した頬をほんのりと紅潮させていた。
どよどよとした、日本古来の物の怪話しを書いてみたくて、初めて投稿しました。
読んでくださって、ありがとうございます。