秋
「アオイ、今度の連休何か予定ある?」
テーブルを隔てた向こうから母さんが言った。といってもオレにじゃない。ねえちゃんのアオイに話しかけたのだ。
ポニーテールに明るい表情を持つ。年は確か十七歳。オレとは結構年が離れている。そのアオイは、茶碗と箸を持った手を空中で止めて、母さんを見た。
「多分ないけど、何?」
アオイはくりくりした丸い目をまっすぐに前へ向け言った。
母さんは日頃から笑っているような顔をさらにほころばせて、さっと紙のようなものをアオイに見せた。アオイは茶碗と箸をテーブルに置き、少し身を乗りだした。
「当選おめでとうございます………」
そこからは声に出さず、目で追うしぐさをした。そしてふいに目を見開き、歓声に似た声を発した。
「ええっ!うそぉ!あの懸賞当たったの?」
「そうなの〜!」
母さんとアオイの周りが急に明るくなった気がする。
「スゴイスゴイ!ハワイだハワイー!パスポートどこだったっけ?」
にこにこ笑って言うアオイを、前にいる母さんはちょっと困ったように見た。といっても地顔が笑顔なのでよく解らないが。
「あのな、アオイ。悪いんだがそれはペアなんだ」
母さんの隣でそれまで黙っていた父さんがそう言った。なんだかのんびりした雰囲気の顔で、母さんとよく似てる。母さんほど笑顔じゃないけど。
一方アオイは、一瞬の内に笑みを消して、半ば睨むように二人を見てた。
アオイはわりと美人だから、そういう顔をすると迫力があるんだよなあ。母さん達も少しびびってる。
「じゃ、何?お母さんとお父さん二人で行って、私に留守を頼もうってこと?」
父さんと母さんは困った40%、嬉しい60%ぐらいの表情で同時に笑った。何とも似た顔つきだ。そんでそれを見たアオイの顔は、反対にさらに険しくなっていた。
「ちょっとお!ずるいわよ!しかも何その話の振り方!期待させるような言い方しないでよー」
まあアオイの言うことも一理ある。俺はそう思ったが、当事者の二人は不思議そうに顔を見合わせていた。
両親はしばらく何も言わず、アオイが少し落ち着いた所で口を開いた。
「とにかくだ、五日ほどよろしく頼む」
「結局それなわけ!」
あーあ、せっかく下火になったってのに。それが父さん母さんらしいとこなんだけど。
そんな騒ぎの中でも、それほど気にせず黙って食事を続けている者が二人いる。一人はたいそうな年のばあちゃんだ。誕生日席に座っているので、両隣から声がばっちり聞こえているはずだが、時々両者をチラッと見る程度で、特に気にしていない。耳が遠いわけではないのだ。確かに年はいっているが、足腰も丈夫でよく庭掃除をしているのを見る。きっと性格なのだ。
そしてもう一人、アオイの隣に座っている子供。弟のミドリだ。年は五歳…だったはず。もちろんアオイとは姉弟だ。しかしあまり似ていない。顔は誰かといわれれば父さん似だろうか?
この子はどうにも、オレにもよく解らない。日頃からほとんどしゃべらず、反応も薄くて聞いてるんだか聞いてないんだかわからない。今も周りに何もないかのように、黙々と箸を動かしている。このテーブルの誰よりもご飯の減りが早い…あ、オレは別な。オレはもうとっくにカラだ。
「大丈夫よ!お母さんもいるじゃないの」
母さんの声がオレの思考をさえぎった。
「ええ?そりゃまー…、でもやっぱり九〇過ぎた人に色々やらせるわけには」
アオイが言った。さっきの剣幕からはだいぶ落ち着いたみたいだな、さすがに。
で、急に話を振られたばあちゃんは、顔を上げてアオイに言った。
「アオイも色々出来るだろ。私も手伝うから、そんなに怒らないで行かせてやりな」
アオイは毒気を抜かれてしばらく考えるように黙っていた。そして呟いた。
「………つまんないお土産なら、いらないからね」
両親は今度こそ100%の笑みを浮かべた。
「ありがとう!よろしくね〜。アオイちゃん」
そう母さんは言って、ひょっと目線を下げると、アオイの隣にいるミドリに話し掛けた。
「じゃミドリちゃん。私とお父さんは五日くらいいないけど、しっかりお留守番してね。アオイちゃんもおばあちゃんもヨータもいるから」
…オレが最後かよ。わかってねえなあ。
オレがそんな事を考えてる間、ミドリはアオイ、ばあちゃん、オレの順でかわるがわる見て、母さんに向かって頷いた。相変わらず表情が動かない。
「偉いわミドリちゃん!まだ五歳なのに!」
そう言うと身を乗りだして母さんはミドリに抱きついた。五歳の子供置いて旅行する両親てのもどーかと思うが、こーゆー母さんは憎めないんだよな。ま、オレもいるし大丈夫だ。
「ミドリ。次は家族全員行ける旅行を当てるからな。その時は一緒に行こう」
父さんはそう言ってミドリにVサインを出した。ミドリも表情を変えずにVサインを返した。
余談だが後に父さんは本当に家族全員旅行を当てる。たいしたものだ。
とりあえず旅行の話はそこでお開きになり、後はいつも通り学校がどうの、会社でどうのと世間話をしながら食事を再開した。オレはその会話を聞くだけにしながら、話す人々の方を観察していた。
「ごちそうさまでした」
オレ達はほぼ一緒に言った。うちではそろってご飯を食べることがほとんどだ。他はよく知らないが、珍しいのではないかと思う。
しかし今日は、ごちそうさまの後にすぐにはテーブルから去らなかった者がいた。
アオイと母さんだ。
オレはいつでも、皆が去るのを確認してから動くので、正確にはオレとアオイと母さんだな。
アオイはいつもは一気ぐらいの勢いで飲むお茶を、ちびちびと飲んでいる。母さんは普段通りゆっくりと味わって。ミドリはばあちゃんが連れて行き、父さんは隣室でテレビを見ているはずだ。
父さんもばあちゃんも別に急ぐ用事があるわけでなく、アオイと母さんに気を使ったのだろう。となればオレも去るべきだが、我が家の監督役としてほおっておく訳にはいくまい。
オレはなるべく気配が解らないよう、遠くに離れて寝たふりをした。
その耳に高めの声が聞こえた。
「ねえ、その旅行ミドリも連れていけば?」
アオイが話している。目をつぶっているので表情は見えないが、少し非難しているような口調だ。
「あら、言ったでしょ?ペアだもの」
こちらは笑いを含んだ母さんの声。二人の会話は続く。
「ペアだって、少しお金出せばミドリくらい行けるでしょ?五歳だったら飛行機代とかも安いじゃない」
「でもねえ、パスポートがないのよねえ」
「取ればいいじゃないそのくらい」
「間に合わないかもしれないわね。二週間はかかるって」
「…かもじゃなくて、間に合わないじゃないのよ」
次の連休は五日後だ。
アオイは手に持ってたカップを置くと、不機嫌そうに頬杖をついて言った。
「それでも五歳の子を置いてくってのはどうかと思う。ミドリも嫌なんじゃないの?」
「…何が?」
にっこりと笑って母さんは言った。その顔はいつもの笑みと微妙に違って、何やら逆らえない迫力のようなものがある。アオイもそれを感じ取ったらしく、一瞬絶句した。そして、言葉をつなげる。
「だって、お父さんとお母さん両方ともいないなんて初めてだよね。不安じゃないのかな」
母さんは先ほどより迫力の緩まった笑顔を浮かべた。手に持っていたカップを置いて言った。
「あのね、ミドリはアオイが思ってるほど何にもない子じゃないのよ」
「は?」
顔をしかめてアオイは呟いた。オレも聞き耳を立てながら、何のこっちゃと思った。ちっとも答えになっていない。母さんはたまにこういう言い方をする。自分の中で勝手に結論をつけて、それを元に会話を進める。当然相手はちんぷんかんぷんだ。
母さんは気にせず話を進めた。
「大丈夫。不安になる事ないわよ。ミドリはお姉ちゃんのこと好きよ」
とたんにアオイの頬がピンクになった。
「なにそれ!なんでそうなるの」
怒ったようにわめいた。それまではアオイにしては小声で話していたのに、ここで崩れた。
「関係ないじゃん、全然!」
心底不思議そうに母さんはアオイの様子を見ていた。
「あら、違うの?ミドリとうまくコミュニケーション取れるかな〜ってことじゃないの?」
ああ、なるほど。オレはアオイの態度に納得がいった。
アオイはミドリとあまり接する事がない。年がかなり離れている上に、ミドリがあんな感じだからアオイは進んで話をしたりしないのだ。
オレやばあちゃんがいるので必要もない。そうして隔ててきた弟を、二人の旅行中は面倒見なければならない。
それでミドリを父さん母さんと一緒に行かせられないかと思ったのだ。アオイのことだから、純粋に両親と五歳の子を離すのはいかんと思っている所もあるだろう(実際他の親だったら連れてくんじゃないだろうか)。けれど、少々自分勝手なアオイの気持ちが大部分に違いない。それをアオイ自身も恥ずかしいと思っているのかもしれない。
「―だってさあ、ミドリって笑いも泣きも怒りもしなくて、何か言ってもろくに答えないで人の事見てるし。発育不良ってことないの?」
「ああ、それは平気よ〜。ちゃんと病院行ったもの。脳に異常はありませ〜んって」
のーてんきに母さんは答える。自分の息子なのだから、そういう心配もしている(いた?)はずなのにだ。
「きっと性格よ。それか、まだ少し目が覚めていないのかも」
母さんは言いながら、名案が浮かんだと言う風に身を乗りだした。
「そうだ、これを機会に『ミドリちゃん観察日記』でもつけてみたら?」
そして、旅行当日になった。
二人はよそ行きの服に小さなトランク、帽子をかぶっている。今はにこにこ笑っているが今日までの準備はなかなかの騒動。二人ともパスポートは元々あったのだがだいぶ昔のものらしく、「あら?どこかしら?」なんて言って引出しをひっくり返していた。
その他にもかばんがどうの、服がどうのといちいち探していて、見かねたアオイが口と手を同じ位の勢いで動かして手伝っていた。
この家はアオイとオレでもっているようなもんだ。皆どこかとぼけた行動なので、ほっとくと後手後手に回ってしまうのだ。
ばあちゃんも性格はアオイと似ているが、さすがに九〇過ぎじゃアオイのように動くわけにいかない。
「じゃあ行ってくるわね。お母さん、アオイちゃん、よろしくね」
だからオレを先に言えって。そう思っていると母さんはこっちと、その隣にいるミドリの方を向いた。
「ミドリちゃん。皆と仲よくね」
腰を屈めて、母さんとミドリは目線を合わせる。ミドリは表情を変えないものの、はっきりと頷いた。今度は父さんがオレの前に来て言った。
「ヨータ、ミドリのこと頼むな。お前が頼りだ」
「ちょっとォ!私はー?」
オレより前にアオイがそう言った。アオイは最初散々文句言ってたくせに、やるとなれば自分が主でないと気が済まないらしい。まあ実際色々すんのはアオイでオレは監督だから間違っちゃいないか。
「こっちは何とかなるから、楽しんで来な。もし何かあったら電話する」
「母さん、出発直前にあまりエンギでもない事言わないでください」
以上がばあちゃんと父さんの会話。そのそばではアオイと母さんが話していたが、オレはミドリの方を注視していた。四人の様子をじっと見ていたミドリが口を開いた。
「時間大丈夫なの?飛行機に乗るんでしょう?」
しっかりした声。話をしていた四人は、驚いたように一斉に口を閉ざしてミドリを見た。一瞬後、慌てて皆動き出した。
「ああっ、そうだわ。大変」
「飛行機に乗り遅れちゃ意味ないからな」
「父さんこれ荷物」
「気をつけてな」
二人は父さんの車で走り出した。アオイは助手席から手を振る母さんにいってらっしゃいと声をかけ、ばあちゃんとミドリは無言で手を振った。
「さて、どうしようかなっと」
アオイは家に入って時計を見るなりそう言った。つられてオレも時計を見る。十時三〇分。
「私は庭いじりがまだだったからね。外へ行ってるよ」
ばあちゃんの日課だ。オレも特にやる事もないので、ばあちゃんに付き合うことにした。
「ちょっとちょっと。私本屋さん行くからミドリを見ててよ」
「なら、アオイがミドリを連れていけばいいじゃないか。ミドリも庭より本の方が面白いだろ?」
アオイの頼みに、ばあちゃんは反論した。別に厄介払いと言うわけではなく、率直な意見だ。アオイの方はそうでもないようだが。
アオイはいい訳のように言った。
「あ、でも結構遠いの。自転車二人乗りするわけにいかないし。昼前には帰るから」
結局アオイは一人で自転車に乗って行き、オレとミドリはばあちゃんに付き合うことにした。といってもオレとミドリはほとんど眺めているだけだ。ばあちゃんの趣味なので、それほど手伝う必要もないのである。
ばあちゃんは軍手をはめた手で土を掘りながら背中越しに言った。
「ミドリは本好きだろう?お姉ちゃんと一緒に行きたかったんじゃないのかい」
ミドリはすぐに答えた。
「本は好きだけど、おばあちゃんも好きだから」
ばあちゃんは振りかえってミドリを見、破顔した。
ミドリは無表情だし口数も少ないが、決して感情がないわけではない。両親も好きだし、特にばあちゃんと話す時は口数が少し多くなる。
ばあちゃんはそれきり何も話さず作業に戻った。ミドリはしゃがんでそのばあちゃんの手元をじっと見たり、視線を上げて周りの景色を眺めた。今は結構寒い時期だから、花が咲いてなくてあまり面白くない。木に実がなってるやつもあるけど高くて取れないしな。
オレはミドリと一緒に周りを眺めながら思った。
ミドリは相変わらずの無表情で、面白いんだかそうでないのか解らない。でも少なくともオレよりは退屈してないだろう。オレは大きくあくびをした。
目を覚ますと、近くには誰もいなかった。知らない間に寝てたのか・・・この時期は眠いんだよな。
オレは少し移動して、ばあちゃんとミドリの姿を探した。まだ昼飯を食べてないからその辺にいるはず。
オレが庭から出て歩いていると、後ろから覚えのある気配がした。振り返ると自転車に乗ったアオイが向かってくる所だった。数秒後に大きなブレーキ音を響かせてオレの前で止まった。うるさい。オレが文句を言うより先に、アオイが怒鳴った。
「あんたミドリ知らない?あんた傍にいたんでしょっ!どこ行ったのよっ」
アオイの表情を見て俺は事態を悟った。しまった。ばあちゃん庭いじりに夢中になると周りが見えなくなるんだ。
オレは、まだ何やら言っているアオイをほおって走り出した。
とりあえずオレはいつも散歩する道をたどり始めた。ミドリはまだ一人で出歩いたことがないから、見覚えのある所をたどるだろうと踏んでだ。ミドリの散歩にはだいだいオレやばあちゃんがつくから、道は正確にわかる。
ああ、やっぱりだ。オレは見知った姿に近付いた。
「ヨータ、来てくれたのかい」
ばあちゃんは少し疲れたように言った。岩に腰を下ろしている。多分いつもの散歩と違って急ぎ足で来たんだろう。元気でもさすがに年だ。無理もない。
「少し疲れたよ。ミドリのこと頼めるかい?」
心配すんな。オレがいれば大丈夫。それにオレも監督不行き届きだったから責任がある。
ばあちゃんは笑ってオレの頭をなでた。オレは再び走り出した。
いつもの裏道を抜け、畑の間を通り、住宅街に出た。日頃なら結構人がいてあいさつしてくるのだが、今日は見当たらない。うちの父さん母さんと同じで旅行にでも行ってんのか?誰か人がいればミドリを見付けて知らせてくれるだろうに。
オレは走る速度をおとして辺りを見回した。そうしていると、後ろからまたもやアオイと自転車が追っかけて来た。
オレは止まった。アオイはオレが急に走るのをやめたので、慌ててブレーキをかけた。先ほどと同じうるさい音を立てて、オレの斜め前で止まった。
「ちょっとぉ!急に止まんないでよ」
文句の多い奴だなー。けど今日は許そう。自転車の上で息を整えているアオイを見てオレはそう思った。
アオイが落ち着くのを待ちながらオレは再度辺りを見回した。するとある一つの家のドアから、女の顔がのぞいた。母さんより年上、ばあちゃんよりだいぶ下というところだ。この人もたまに散歩中会うな。
その人は、興味半分、心配半分くらいの目でドアから全身を出した。長袖のシャツに長めのスカート。母さんも似たような格好をしているが、やはり印象はまるで違う。この人の場合、きつめの雰囲気なのでほんわりしたロングスカートだとちぐはぐだ。
そんなオレの考えとは無関係に(当たり前だ)、その人は言った。
「すごい音がしたから事故でもあったのかと思って。大丈夫?」
さっきのブレーキ音か。確かにすごい音だった。
アオイは少々疲れた顔を上げると、苦笑して言った。
「いえ、大丈夫です。この自転車ポンコツなので。ところで、この辺りに五歳くらいの男の子いませんでしたか?」
「え!ミドリちゃんどこか行っちゃったの?」
その人はひどく驚いたように言った。本気なのか大げさなのか解らないが、本当に心配しているのは見て取れた。
アオイはきょとんと相手を見た。
「どうして、ミドリのこと知ってるんですか?」
「え、だって、よくこの辺り散歩してるわよ。あなた、市川さんとこのお姉ちゃんでしょ?」
子供自身は知らなくても、ご近所さんは案外人の家の子供について知っているものだ。もっと都会の方だとそういうことはないかもしれないが、ここはまだ中間くらいだからな。
アオイはその“ちょっと田舎の事情”に驚いたらしい。いつもすぐに話し返すのに、今回はしばらく沈黙していた。そしてはっと気付いたように表情を変えて再び口を開いた。
「あ、はいそうです。私達、散歩の途中ではぐれちゃって。でもさっきのことなのでそう遠くには行ってないと思いますんで、見かけたら教えてください」
相手に入りこむ隙を与えず、一気にアオイは言うと、ポンコツ自転車にまたがって元の道を戻ってしまった。一瞬見えた表情は、何だかひどく困惑したようなものだった。
オレが家の庭につくと、ばあちゃんとアオイが家の中に入るところだった。話し声を聞くところによると、どうやらミドリがみつかったようだ。おい、それならそうとこっちにも言ってくれよ。そう思いつつもオレは黙って二人の後についた。
二人は二階に上がって行った。ゲッ、オレ階段は苦手なんだよなあ…。しかし監督としてはそうも言っていられない。オレはそろそろと上がった。
二人は父さんと母さんの部屋にいた。つい最近までひっくり返して騒いでいた部屋だ。二人の背中が見え、その向こうに本棚。そして…
「ああ、こんな所にいたんだあ…」
アオイがらしくもなく気の抜けたようなせりふを言った。オレが二人の間に入って確認すると、本棚の前にミドリが横たわっていた。
ミドリは手に余る大きな本を持って寝ていた。ばあちゃんは窓の外を見て言った。
「日が当たってるからね。寒くもなく暑くもなく、寝るにはちょうどいいね」
「もしかして最初ッからこの部屋にいたんじゃない?」
アオイの口調がいつものそれに戻った。目も少々物騒な色になっている。
ばあちゃんはそれを知ってか知らずか、朗らかに笑って答えた。
「そうかもしれないね」
「あのねえっ、私はっ」
大きな声でそこまで言ってはっと気付いて慌ててミドリの方を見るアオイ。その焦った顔が徐々に曇って、困ったような顔になった。同時に、何もない畳に座りこんだ。
ばあちゃんとオレも自然と同じ床に座った。アオイはミドリに背を向ける位置、オレとばあちゃんはアオイの正面だ。
アオイは珍しく戸惑ったような顔でぽつぽつと話だした。
「なんかさ、やだよね、お母さん達が出掛けてからまだ二時間位しか経ってないのにこんなでさあ」
そこでアオイは言葉をとぎらせたが、オレとばあちゃんは何も言わず続きを待った。
「私さ、ミドリとは年も離れてるし、何かよくわかんない子だしで、今まで話とかほとんどしなかったから、知らないんだよね…」
「例えばミドリが本好きだって事とか、散歩コースとか」
アオイは下向き加減で続けた。
「弟なのにさ。今までちっとも構わないで、今更歩み寄ろうってのもちょっとね」
そこでアオイは苦笑した。そして黙る。
ばあちゃんはそんなアオイを笑って見ると、言った。
「関係ないよ、そんなこと」
アオイはばあちゃんを見た。
「別にアオイはミドリをいじめてるわけじゃない。むしろ時々世話やいたりしてるだろ?」
アオイは、そうだっけ、と呆けた様に呟いた。オレは確かに、と思う。大抵父さん母さんといっしょくたに、ミドリの方へも世話を焼いている。本人は無意識なのでよく覚えてないのだろう。相変わらずアオイは思い出せない、という表情をしている。
ばあちゃんは構わず続けた。
「ミドリの方もあんまり構われると居心地が悪いみたいだし、いいんじゃないかい?ミドリはアオイが思ってるほど人の気持ちが解らない子じゃないんだよ」
そこでオレは気付いた。アオイの背中にいるミドリの目が、パッチリと開いてアオイの背に注がれている事を。すぐにオレと目が合って、ミドリは慌ててまた目を閉じた。オレは、いつにない感情のこもったその行動に可笑しくなる。
思えばオレもミドリのことはろくに知らなかったな。監督役としてはいかんな。
オレとミドリの目のやり取りに気付く様子もなく、アオイは話を続けた。その頃には目や表情にいつもの様子が戻りつつあった。
「なーんか、似たような事母さんにも言われたよ。やだなあ。私ばっか薄情な人みたいじゃない」
「まさか。アオイは薄情じゃないよ」
にっこりと笑ってばあちゃんが答えた。
「あんただってミドリのことは可愛いと思うだろ?」
「あー」アオイはまた少し俯き加減で、膝を立てて座りなおしながら言った。
「まあね、私の弟だし」アオイは照れた様に笑っていた。
ばあちゃんはその様子を満足げに見ると立ち上がった。
「さて、ご飯を作ろうか。アオイも手伝っとくれ」
「ああっ?もう一時になるじゃないの!」
アオイは心底驚いたように大声を出した。そりゃそうだ。アオイは日頃かなりの大食漢なのだ。それを今の今まで何も食べずにいられたのだから驚くだろう。もっともオレも似たようなものだ。
「んー…」
その時ミドリが少し身を動かした。あたかもアオイの大声に反応したかのようなしぐさだ。オレはまた可笑しくなると同時に思う。こいつは案外オレ以上に大した奴かもしれないぞ。いや、以上は言い過ぎか。オレと同等位に、だ。
アオイはミドリの演技を疑いもせず、ちょうどいいとばかりにミドリを起こしにかかった。するとすぐにぱちっと目を開く。アオイは目をまん丸にして言った。
「ミドリってずいぶん寝起きがよかったのね」
その後玄関のチャイムの音がしたので、アオイは一足先に階段を駆け下りて行った。
「さ、じゃあ私達も行こうか。ミドリ、その本なんだい?」
ばあちゃんに言われ、ミドリは抱えていた本を隠すように後ろに置いた。しぐさはそんなだが表情は変わらないままだ。もう少し子供らしい喜怒哀楽を表してもバチはあたらんと思うがなあ。
オレはそんなミドリの後ろに周り込んだ。ミドリがよく保育園に持って行ってるような小さな弁当の写真に、大きめの字で『らくらくお弁当おかず』とあった。ばあちゃんもそれを見付けて楽しそうに笑った。
「ミドリは、いい子だね」
いい子?確かにミドリはいい子だが、今は関係ないだろう…。
ばあちゃんは本を棚に戻すと、ミドリを促して階段を降りた。オレはいつも通り一番後ろについて行く。前にいるばあちゃんはミドリに、一緒にお姉ちゃんを手伝おうか、などど言っていた。
ああ、そういうことか。ミドリはアオイを手伝おうとしてあんな本を引っ張り出したのか。やっとわかったオレは心の中で誰をどう監督していればいいか考え始めた。が、下に降りたら結構な騒ぎになっていてそれどころではなかった。
「あっ!ミドリちゃん!」
さっきミドリを探してた時に会ったおばさんだ。ドアの外側からこちらを見ている。今にも上に上がってきそうな感じだ。しかも一人じゃない。同じような年のおばさん達が、他にも三人いた。その目の前でアオイが押し戻すように手をかざしていた。
「はい、ミドリいたんですよ。二階で寝てて。ミドリめったに上なんか行かないから、予想できなくて。もう大丈夫ですから」
アオイが慣れない丁寧語で弁解している。どうにかカドをたてずに帰そうとしているようだが、おばさん達はお構いなしだ。いや、わかってて居座っているのかもしれない。
「でも、お父さんお母さんは旅行なんでしょう?」
「私達、よく見てやってくれって言われたのよ」
そりゃ嘘だな、とオレは思った。あの二人は結構オレ達を信頼してる。大方浮かれて旅行に行く事を行って回った位だろう。それでこのおばさん達に上がって来られて、じゃあ食事の支度でも、なんてなったら邪魔だ。どうしたもんか。
その時小さなお腹の鳴る音がした。皆びっくりしたようにその主を見た。ミドリ本人も驚いて自分のお腹を見た。そして顔を上げ、照れた様に笑った。
「―うちに、おいしい煮物があるのよっ。持ってくるわ」
「私も漬物でも」
「若い人なら洋風よね?ポテトサラダ余りものだけど」
ミドリの笑顔は大した効果を生んだ。おばさん達はそれは嬉しそうに、口々にそう言って玄関から外へ出た。
すぐに元のしんとした空間が戻った。
そんな中、皆に見つめられたミドリは、笑った顔のまま右手にVサインを作って見せた。