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声を失くした義理の娘が、三年ぶりに口にした言葉は「ちがう」でした

作者: 霧原 澪
掲載日:2026/06/12

「五年も連れ添って、子どもをひとりも産めなかったのだ。仕方がないだろう」


 夫だった人は署名を終えたばかりの離縁状から顔も上げずに、そう言った。


 仕方がない。その言葉を、わたしは結婚してから何度聞いただろう。

 夜会で他の令嬢と踊る夫を見ても、仕方がない。子ができないことを義母になじられても、仕方がない。だからわたしも口の中でその言葉を転がして飲み込んだ。


 仕方がない。


 エルシア・モルダーヴ、二十七歳。子爵家の長女に生まれて、二十二で伯爵家に嫁いだ。五年目の冬、離縁されて実家に戻された。

 持ち帰ったのは嫁入りのときの半分になった荷物と、刺繍道具がひと箱。それだけだった。


 実家は、はっきり居心地が悪いと言えるほど冷たくはなかった。ただ、弟夫婦が切り盛りする家のなかにわたしの椅子だけがなかった。

 食卓に着けば給仕が慌ててもうひとり分の皿を運んでくる。その数秒の慌てぶりが毎食、小さな棘のように刺さった。


 だから縁談の話が来たとき、わたしは断る理由を持っていなかった。


「北のヴィンター伯爵が後妻を探しているそうだ」


 父は手紙を差し出しながら、わたしと目を合わせなかった。


「三年前に奥様を流行病で亡くされた。六歳の娘がひとり。——その、なんだ。先方は条件をはっきりさせておきたいそうだ」


 手紙の文面は求婚状というより契約書に近かった。


『あなたに妻としての愛情を求めることはない。求めるのは娘の養育、それのみである。代わりにあなたが生涯困窮しないことを誓約する。アルノルト・ヴィンター』


 ずいぶん正直な人だというのが最初の感想だった。


 愛は求めない。つまり、子も求めない。

 子を授からなかったことで放り出されたわたしに、これほど都合のいい再婚先もなかった。


 仕方がない、ではなく。


「お受けします」


 わたしは自分で選んでそう返事をした。たぶん、人生で初めての自分の選択だった。



 ヴィンター伯爵領は王都から馬車で六日。国境の山脈に抱かれた雪の深い土地だった。


 到着した日も雪だった。出迎えたヴィンター伯爵、アルノルト様は噂に聞いていたよりずっと若く、そして疲れた顔をした人だった。

 三十二歳。鳶色の髪に、冬の湖みたいな灰色の目。


「遠路、感謝する。手紙に書いた通りだ。あなたを欺くつもりはないから最初に言っておく」


 伯爵は玄関広間の階段の上をちらりと見た。


「娘は——ミレイユは、三年前から口をきかない」


「お転婆で手がつけられない、ではなくてですか」


「声が出ないんだ。医者は喉に異常はないと言う。妻が死んだ冬から、ただの一言も話していない」


 階段の上、手すりの陰に小さな影があった。


 亜麻色の巻き毛に、父親と同じ灰色の目。人形のように整った顔の女の子がじっとわたしを見下ろしていた。

 値踏みするでもなく、怯えるでもなく。ただ、雪原を眺めるような目だった。


「ミレイユ、ご挨拶を」


 伯爵が声をかけると、少女は完璧なカーテシーをしてみせた。六歳とは思えないほど美しい礼だった。

 そして一言も発さないまま廊下の奥へ消えていった。


「というわけだ。期待はしないでやってくれ」


 期待はしないでやってくれ。それは娘に向けた言葉のようで、たぶん彼自身がこの三年間自分に言い聞かせてきた言葉なのだと思った。



 その晩の夕食は静かだった。


 静か、という言葉では足りないかもしれない。

 長い長い食卓のいちばん奥に伯爵が座り、その右にミレイユ。わたしの席はずっと離れていた。

 銀器の触れる音だけが高い天井に吸い込まれていく。


 誰も話さないのではなく、誰もが「話さないこと」に慣れきっている。

 給仕の足音さえ絨毯に消えるよう仕込まれていて、この完璧な静けさを三年かけて作り上げたのだとひと目で分かった。


 わたしは特に困らなかった。前の婚家での食事も種類は違えど静かなものだったから。

 ただ、スープを掬いながらふと気づいた。


 ミレイユがパンをちぎる前に、ほんの一瞬だけ手を止める。誰かの言葉を待つように。

 たぶん昔は誰かが「召し上がれ」と言っていたのだ。

 その誰かがいなくなって、それでもあの子の手は三年経ったいまも、いない人の声を待ってから動く。


「召し上がれ」


 気づいたときには口に出していた。


 食卓の空気がぴしりと固まった。給仕が凍りつき、伯爵のフォークが止まった。

 ミレイユは灰色の目を見開いてわたしを見た。


 長い長い数秒のあと。


 あの子はぱくりとパンを口に入れた。それだけだった。返事もなければ笑顔もない。


 けれど翌朝も、その翌朝も、ミレイユはパンをちぎる前に手を止めてわたしのほうをちらりと見るようになった。

 わたしが「召し上がれ」と言うまで待つようになった。


 言葉というのは、たぶんそういうものなのだ。意味よりさきに、誰かがそこにいるという合図なのだった。



 ヴィンターの館で暮らしはじめて、すぐに気づいたことがある。


 この家には、前の奥様がいなかった。


 亡くなった、という意味ではない。痕跡そのものがなかったのだ。

 肖像画は外され、私室には鍵がかけられていた。庭の温室も閉ざされたままだ。

 使用人たちは「先の奥様」という言葉が会話に出そうになると、まるで熱いものに触れたみたいに話題を変えた。


 家政婦長のゲルダにそれとなく尋ねてみた。初老の有能で堅い人だ。


「リーゼロッテ様のことはどうかお尋ねになりませんよう」


「旦那様のご命令?」


「いいえ。いいえ、奥様。ご命令ではございません。ただ、旦那様があまりにお辛そうでしたので、わたくしどもが自然と口をつぐむようになったのです」


 ゲルダは深く頭を下げた。


「お嬢様の前では、特に。あの方のお名前を聞くたび、お嬢様のお顔から色が消えてしまわれますから」


 なるほど、とわたしは思った。


 この家は悲しみに蓋をしたのだ。

 傷に触れないように、痛みを呼び起こさないように、みんなで少しずつ口をつぐんで三年かけてひとりの人を丁寧に消した。


 そして、たぶんそのときに。


 お母様の思い出と一緒に、あの子の声も蓋の下に閉じ込められてしまったのだ。



 わたしは義理の娘と仲良くなろうとするのを、早々にやめた。


 正確に言えば、「心を開かせよう」とするのをやめた。

 歩み寄られることがときに何よりも重たいことを、わたしは婚家での五年間でよく知っていたから。


 代わりに、ただ同じ部屋にいることにした。


 ミレイユが本を読む居間の隅で、わたしは刺繍をする。

 話しかけない。見せようともしない。ただ、針を動かす。


 三日目に視線を感じた。


 七日目に視線が長くなった。


 十日目、ミレイユはわたしの隣の椅子に座った。本を読むふりをしてわたしの手元ばかり見ていた。


「やってみる?」


 枠と針を差し出すと、少女は固まって、それからほんの少しだけ顎を引いた。頷いた、と言い張れる程度に。


 その日から、わたしたちは並んで刺繍をする間柄になった。会話はない。

 けれど糸がもつれたとき、針を取り替えるとき、ミレイユはわたしの袖をちょんと引くようになった。それがあの子の「ねえ」で、「みて」だった。


 ひと月が経つころ、ミレイユは自分の図案を刺すようになった。


 白い小さな花だった。俯きがちに咲く、釣鐘形の。

 六歳の手にしては驚くほど根気よく、何度も解いては刺し直していた。

 けれど花びらの白だけはどうしても気に入らないらしい。

 わたしの糸箱から白い糸を三種類引き抜いては見比べて、首を振る。

 違う。これでもない。これでもない。


「スノードロップ?」


 尋ねると、こくりと頷いた。


「お庭に咲くの?」


 ミレイユの針が止まった。あの子はしばらく黙って、それから窓の外を指さした。

 雪に埋もれた庭の、その奥。固く閉ざされたガラスの温室を。


 ゲルダに聞くと、家政婦長は少し迷ってから教えてくれた。


「先の奥様の温室でございます。南のお生まれの方でしたから、北の冬は花がなくて寂しいと仰って。雪のいちばん深い時期に温室の隅でスノードロップを咲かせるのがお上手でした。お嬢様と毎朝、見にいらして」


「鍵は」


「旦那様が。ですが奥様、温室の花は、もう」


 三年も人の手が入らなければ、当然何も残ってはいないだろう。

 分かっていたけれど、わたしはその週のうちにアルノルト様へ鍵を願い出た。彼は書類から顔を上げず「構わない」と言った。

 灰色の目が一瞬だけ揺れたのを、わたしは見なかったことにした。


 温室の中は、思っていたよりもひどかった。


 割れた鉢。干からびた蔓。倒れた棚。

 三年分の枯れた時間がガラスの棺のなかに、そのまま閉じ込められていた。

 隣に立つミレイユの小さな手がわたしのスカートをぎゅっと掴んだ。


 けれど——土はまだ、生きていた。


 手袋をはめて、わたしたちは片づけをはじめた。割れた鉢を運び出し、枯れたものを抜いて土をふるいにかける。来る日も来る日も。

 使用人に任せなさいとゲルダは渋い顔をしたが、これはわたしたちの仕事だからと断った。

 ミレイユが初めて自分から、毎朝わたしの部屋の扉を叩きにくるようになった仕事だったから。


 枯れ蔓の下から球根の眠る一角を見つけたのは、片づけも終わりに近いある朝のことだ。


 小さくて固い、玉ねぎのようなそれを、ミレイユは両手で包んで長いこと見つめていた。

 死んでいるのか眠っているのか、わたしには分からなかった。だからそのまま土に埋め直した。


「春まで、待ちましょう」


 ミレイユは頷いて、土の上を小さな手のひらでぽん、ぽんと優しく叩いた。布団をかけるみたいに。


 言葉のない毎日は不思議と穏やかだった。


 穏やかさにひとつだけ、ひびが入ったことがある。


 洗濯室の前を通りかかったとき、若い洗濯婦たちの話し声が扉の隙間から聞こえてしまったのだ。


「でもさ、新しい奥様にお世継ぎがお生まれになったら、お嬢様はどうなっちゃうのかね」


「決まってるだろ、継子だもの。いまは物珍しくて構ってらっしゃるけど、ご自分の赤ちゃんが生まれてごらんよ」


 悪意のある声ではなかった。使用人が主人の家を案じる、ごくありふれたおしゃべりだった。


 わたしは足音を立てずにその場を離れた。自分の部屋に戻って、窓の外の雪を長いこと眺めた。


 胸の奥がきしんだのは、彼女たちの言葉のせいではない。

 その心配が決して現実にならないと知っているのは、この館でわたしひとりだけだ。その事実のせいだった。


 子を授からなかった身体。前の婚家で五年かけて突きつけられた烙印。

 それはこの結婚においては誰も傷つけない、むしろ好都合な条件のはずだった。そのはずだったのに。


 ミレイユの隣で針を動かす朝が、温室の土に触れる昼が積み重なるほどに、わたしは時々夢を見るようになっていた。

 もし、わたしにも子を抱く日が来たなら。この手で抱く子とあの子が、本当のきょうだいになる未来も。


 馬鹿な夢だ。わたしは首を振って、その想像に蓋をした。


 蓋をするということにかけて、わたしはこの館の誰にも負けないくらい年季が入っているのだった。


 けれど、ある晩。


 廊下でミレイユの部屋の扉の前を通りかかったとき、中からかすかな音がした。


 歌だった。——いや、歌になりそこねたもの。


 ふ、ふ、と息だけで拍子を取る音。旋律を辿ろうとして、辿りきれずに途切れる音。

 それが何度も、何度も繰り返されていた。まるで暗闇の中で失くしものを手探りしているような。


 わたしは扉に手を伸ばしかけて、やめた。


 そのまま自分の部屋に戻り、寝台に腰掛けて長いこと考えた。


 あの子は、思い出そうとしている。


 誰も口にしなくなったお母様の何かを。たったひとりで、息だけで。



 翌朝、わたしは厨房に行った。


 料理長のバルトは熊のような大男で、わたしが「先の奥様の好きだった料理を教えてほしい」と言うと包丁を取り落としそうになった。


「奥様、それは……」


「あなたが作らなくなった料理があるでしょう。レシピごと封印したものが」


 バルトは長いこと黙っていた。やがて厨房の奥の棚から、油染みのついた古いノートを出してきた。

 表紙に几帳面な字で『リーゼロッテ』とあった。


「奥様……先の奥様は厨房によくいらっしゃる方でした。貴族の奥方らしくないと言われながら、お嬢様の食べるものは自分で味を見ないと気が済まないと仰って」


 大男はノートの上に置いた手をどけなかった。


「これを開くことが旦那様への裏切りになる気がして、ずっと」


「バルト」


 わたしは彼の手の上に自分の手を重ねた。


「思い出すことは、裏切りではないわ。——忘れたふりをすることのほうが、よほどあの方を二度死なせてしまう」


 その日の夕食に、バルトは三年ぶりに「奥様の林檎の甘煮」を作った。


 食卓でそれを一口食べたミレイユの目がみるみる見開かれて、それからぽろりと涙がこぼれた。

 声はない。嗚咽もない。ただ静かにぼろぼろと泣きながら、あの子は最後のひと匙まで食べきった。


 向かいの席で、アルノルト様が幽霊でも見るような顔をしていた。


「……この味は」


「料理長の腕が落ちていなくて、何よりです」


 わたしはそれだけ言って、自分の皿の甘煮を口に運んだ。優しい、優しい味だった。

 会ったこともない人の優しさが、砂糖と一緒に煮詰めてある。


 その夜、書斎に呼ばれた。


「妻のレシピを開かせたそうだな」


 アルノルト様の声は硬かった。灰色の目に、怒りとも怯えともつかない光が揺れていた。


「ミレイユが泣いた。三年間、あの子はずっと凪いでいたのに。……そっとしておくことがあの子を守ることだと、私は」


「守られていたのは、あの子ではないでしょう」


 自分でも驚くほど静かな声が出た。


「旦那様。あの子は毎晩、ひとりで歌を探しています」


「歌?」


「息だけで旋律を辿って、辿りきれずに途切れる音をわたしは聞きました。あれはきっと子守唄です。お母様の声を、あの子は忘れかけている。必死に思い出そうとして、思い出すための欠片がこの家のどこにも残されていないんです」


 アルノルト様の顔から、ゆっくりと血の気が引いていった。


「あなたがたが悲しみに蓋をしたとき、あの子の声も一緒に閉じ込められたんです。あの子が黙っているのは、心を閉ざしたからだけではないと思います。——この家で、お母様の話をしていいのか分からない。六歳の子が大人たちの顔色を読んで、三年間息を潜めているように、わたしには見えます」


「私は」


 彼は何かを言いかけて、言えずに両手で顔を覆った。


 長い沈黙のあと、指の隙間から絞り出すような声がした。


「……妻が死んだ夜、ミレイユが熱を出した妻の枕元で子守唄を歌っていたんだ。母親に教わった歌を、あんなに小さな声で、朝まで。それでも妻は、朝には」


 ああ、とわたしは思った。


 あの子の声は、そこに置いてきてしまったのだ。歌っても届かなかった朝に。


「リーゼロッテの子守唄を、私は覚えていない」


 顔を覆ったまま彼は言った。


「楽譜があったはずだ。妻の私室の、どこかに。……エルシア。鍵を預ける」


 彼がわたしの名を呼んだのは、それが初めてだった。



 リーゼロッテ様の私室は三年分の埃をかぶって、それでも春の野原みたいな部屋だった。


 書き物机の引き出しに楽譜はあった。手書きの、ところどころ音符の横に小さな字で歌詞の書き込まれた古い古い子守唄。

 『眠れ、眠れ、雪の下でも種は眠る。春には春の、芽吹きがあるよ』。北の地方に伝わる歌らしかった。


 わたしはそれを練習した。


 誰もいない時間を見計らって、自分の部屋で小さな声で。

 三日目の夕方、ノックの音がしてゲルダが入ってきた。リネンを抱えた家政婦長は、わたしの手元の楽譜を見て棒立ちになった。


「その歌を……どちらで」


「奥様のお部屋で。ゲルダ、あなた、この歌を知っているのね」


 堅くて有能な家政婦長は、リネンを抱えたままぽろぽろと泣いた。

 知っているも何も、この館で三年前まで毎晩聞こえていた歌でございます、と。聞こえなくなってから、どれほど夜が長くなったか、と。


 それから彼女は鼻をすすって、いつもの顔に戻って言った。


「奥様。差し出がましいことを申し上げますが、いまの音程は、いささか」


「あら。そんなに?」


「はい。その、いささか、どころでは」


 白状すると、わたしは歌が絶望的に下手だった。



 数日後の夜。寝支度を終えたミレイユの部屋で、わたしは寝台の横に椅子を置き、咳払いをひとつして歌った。


「ねむれ、ねむれ、ゆきのしたでも、たねは——」


 音程が盛大に外れた。


 我ながらひどい。雪の下の種も凍りつく音痴だった。

 それでも構わず歌い続けた。二番に入って歌詞もうろ覚えになって、「はるにははるの」と歌うべきところを「はるにはおはなが」と間違えた、そのとき。


「……ちがう」


 小さく掠れた、三年ぶりの声がした。


「ちがう、の。……『はるには、はるの、めぶきがあるよ』……」


 ミレイユは布団から半分顔を出して、涙でぐしゃぐしゃになりながらわたしを睨んでいた。


「おかあさまの、うた。まちがえないで。……まちがえたら、ほんとうに、わすれちゃう」


「ええ」


 わたしは頷いた。喉の奥が灼けるように熱かったけれど、泣くのはあとだ。


「先生が必要だわ。わたしに、正しい歌を教えてくれる人が」


 ミレイユはしゃくりあげながら、何度も何度も頷いた。そして、その夜。


 六歳の先生は三年ぶりの声で、たどたどしく子守唄を最初から最後まで歌いきった。掠れて、何度も途切れて。

 それは間違いなく、わたしがこれまでの人生で聴いたいちばん美しい歌だった。


 歌い終えたあの子が泣き疲れて眠ってしまうまで、わたしはずっと小さな手を握っていた。


 扉の外に、アルノルト様が立っていた。


 壁にもたれ、口元を手で覆って声を殺して泣いていた。大の大人の領主様が、廊下の暗がりで子供みたいに。


「聞こえて、いましたか」


「ああ」


「いい歌ですね」


「ああ。——妻が生きていたころと、同じ歌だ」


 それきり言葉にならない様子の人の隣に、わたしは黙って立っていた。

 雪の夜の廊下は冷えたけれど、不思議と寒くはなかった。



 それからの館は少しずつ、雪解けの川みたいに音を取り戻していった。


 ミレイユの声は一晩で全部戻ってきたわけではない。話せる日と話せない日が、まだらにあった。

 けれど刺繍の最中に「ここ、むずかしい」と袖を引かれる日が増え、バルトの厨房から「おうさまのケーキはね、おかあさまはね」と舌足らずな解説が聞こえる日が増えた。


 あの静かだった食卓も変わった。


 いまでは「召し上がれ」を言うのはミレイユの役目だ。

 あの子は父親とわたしが席に着くのを待ちかまえて、誰よりも先に得意げにそれを言う。アルノルト様は毎回、生真面目に「いただきます」と返す。

 給仕たちは最初こそ戸惑っていたけれど、近ごろは料理を運びながら堂々と笑うようになった。


 完璧な静けさを三年かけて作り上げた館は、それが壊れていく音のほうをずっと好きになったらしかった。


 肖像画が階段の上に戻った。絵の中の人はミレイユとよく似た顔で、優しそうに笑っていた。


 わたしは毎日、その絵に挨拶をする。

 おはようございます。ミレイユは今日も元気です。あなたの林檎の甘煮を、わたしも作れるようになりました。

 バルトは及第点をくれません。


 雪のいちばん深い朝に、温室でスノードロップが咲いた。


 眠っているのか死んでいるのか分からないまま埋め直した、あの球根からだった。一輪だけ、俯きがちに白く。

 報せを聞いて寝間着のまま駆けつけたミレイユは、花の前にしゃがみこんで長いこと動かなかった。それから振り返って言ったのだ。


「おかあさまのお花、ねてただけだったね」


 あとから来たアルノルト様は、その場では何も言わなかった。

 ただその晩、温室にもうひとつ新しい鉢が増えていた。札に、彼の几帳面な字でこうあった。

『リーゼロッテに。娘はよく歌う』


 春が来て、雪が解けた。


 庭の土から本当に一斉に芽が出るのだと、北の春を初めて見たわたしは少し感動した。

 眠れ、眠れ、雪の下でも種は眠る。あの子守唄は、この土地の春を知っている人の歌だった。


 その庭で、アルノルト様が言った。


「エルシア。手紙のことを謝りたい」


「手紙?」


「最初の手紙だ。あなたに妻としての愛情を求めることはない、と書いた」


 彼はひどく不器用に視線を泳がせて、それから覚悟を決めたようにわたしを見た。

 冬の湖だと思っていた灰色の目は、春の空の下で見るとただの、少し疲れた優しい人の目だった。


「あれを、撤回したい。——都合のいい話だと分かっている。だがあの約束を残したままあなたの隣にいるのは、誠実ではないから」


 わたしはすぐには答えられなかった。


 言わなければならないことがあったからだ。


「アルノルト様。その前に申し上げておくことがあります。……ご存知かもしれませんが、わたしは前の家を、子を授からないという理由で出されました。五年のあいだ、授かりませんでした。この先も、おそらく」


 言葉にすると、思っていたより声は震えなかった。

 温室の土を思い出していたからかもしれない。死んでいるのか眠っているのか分からないものを、それでも埋め直して布団をかけた、あの小さな手のひらのことを。


「ですから、お世継ぎをお望みなら、この話は」


「エルシア」


 遮った声は静かだった。


「思い出すことは裏切りではない。あなたがそう言ったと、バルトから聞いた。あの言葉に、私がどれだけ救われたか。なら今度は私に言わせてほしい。——子を授からないことは、欠けていることではない」


 彼は館の窓のほうを見た。刺繍枠を抱えて、わたしたちを探しているらしい小さな影のほうを。


「あの子の声を取り戻したのは、あなただ。この家に、それ以上の何を望めるというんだ」


 わたしは少し考えた。


 何か言おうとして、失敗した。結局、泣きながら笑ってしまった。

 五年間、口の中で転がして飲み込み続けた「仕方がない」が、春の土に落ちて溶けていく音がした。


「では……では、新しい契約書が、必要ですね」


「条件を伺っても?」


「ミレイユの母にはなれなくても、ミレイユの家族にはなること。あなたがリーゼロッテ様をこれからも忘れないでいること」


 わたしは、あの方のスノードロップが株を増やしていく庭ではっきりと言った。


「わたし、思い出ごと愛される家に嫁いだんです。いまさらあの方のいない家には嫁ぎ直せません」


 アルノルト様は少し驚いた顔をして、それからわたしが初めて見る顔で笑った。


「全部、受け入れよう」


 差し出された手を取った。


 そのとき、館の窓から「おとうさま! エルシアさま!」と呼ぶ声がした。

 よく晴れた空に響く、もうどこも掠れていない六歳の声が。


 あの子はわたしを、お母様とは呼ばない。


 それでいいのだと思う。この家には消えない人がひとり、ちゃんと住んでいる。

 その人の隣にわたしの椅子も、いつのまにか置いてもらえた。それだけのお話だ。


 眠れ、眠れ、雪の下でも種は眠る。


 春には春の、芽吹きがあるよ。

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