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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

短編:バニラ神と外なる神と、たいへん迷惑な夕方の騒音

作者: いこい
掲載日:2026/04/04

秩序を司る“正規の神”と、世界の外から来た“理解不能な神”が共存する異世界。

そこへ召喚された日本人たちは、クトゥルフ的存在を前にしても恐慌せず、「まあ、そういう神様もいるよね」と妙に自然体で受け入れてしまう。

その結果、戸惑う邪神と激怒する創造神の戦いが始まるが、当の日本人たちは「迷惑なので他でやってほしい」としか思っていなかった。

異世界アルカ=エデンは、長らく平和だった。


空は青く、川は澄み、麦は風に揺れ、死者は粛々と土に還る。村人たちは朝に祈り、昼に働き、夜には戸締まりをして寝る。それが世界の正しい順番であり、山も海も星も、すべては正規の手続きで作られたものだった。


その世界を統べるのは、創世以来ただ一柱、秩序と光と仕様書の神、バニエルである。


彼は厳格な神だった。

山は山らしく、羊は羊らしく、祈りは正規の窓口から受理されるべきだと考えていた。奇跡にも申請手順があり、祝福にも監査がある。信徒のあいだでは、「七日で世界を作ったあと、八日目に運用マニュアルを書き始めた神」として知られていた。


そんな世界の外縁、地図の端に「霧の海」とだけ記された領域があった。


誰も近づかず、誰も詳しく語らないその海の底には、古いものが眠っていた。


名を、クトゥルフ。


それは正規の創造物ではなかった。少なくとも、バニエルの台帳には載っていない。星と星のあいだ、理のすき間、神が「そこは未実装です」と目を逸らした部分から、なんとなく存在してしまったものだった。


それでもクトゥルフは、別に悪いことばかりしていたわけではない。


霧の海の底で眠り、たまに起きては触手を整え、深きものどもに指示を出し、また眠る。趣味は石板に理解不能な幾何学模様を彫ること。好きなものは月のない夜。苦手なものは乾燥と、規格化された讃美歌だった。


つまり、棲み分けはできていたのである。


バニエルは世界の表を治め、クトゥルフは世界の裏で静かにしていた。互いに「関わると面倒だな」と思っていたので、何千年も特に衝突は起きなかった。


ところが、ある年の春、その均衡が崩れた。


異世界召喚である。


王都の魔術師たちが、勇者を呼ぼうとして術式を少し間違えたのだ。

本来なら「秩序を守りし清き魂」を指定すべきところを、「外敵に動じぬ強靭な精神」と書いてしまったのである。だいぶ雑だった。


その結果、やって来たのは勇者ではなく、日本人の団体だった。


内訳は、四十八歳の市役所職員が一名、三十二歳のSEが一名、大学で民俗学をかじった院生が一名、旅行中に巻き込まれた大阪のおばちゃんが二名、神社仏閣巡りが趣味の高校教師が一名、それから「なんか知らんけど来てもうた」と言う自営業の男性が一名である。


王は困惑した。


「……勇者は?」


召喚担当の筆頭魔術師は額に汗を浮かべながら答えた。


「精神的には、たいへん強そうです」


たしかに強かった。


彼らは異世界の言葉を半日でなんとなく聞き取り、王宮の豪奢な広間に通されても靴を脱ぐかどうかで少し揉める程度で済ませ、巨大な竜の骸骨を見ても「博物館みたいやな」としか言わなかった。


王は藁にもすがる思いで説明した。


「この世界の北東、霧の海の底には、見てはならぬもの、考えてはならぬもの、名を口にすらすべきでない外なる神が眠っておる。もし目覚めれば、人は正気を失い、理性は崩れ、魂は――」


「へえ」


大阪のおばちゃんの一人が、飴を口に入れながらうなずいた。


「それはまた、昔からおる感じのやつやね」


「……は?」


「いや、うちの地元でも、夜中に呼んだらあかん名前とか、山におるやつとか、海の向こうのやつとか、わりとあるから」


院生も真面目な顔で続けた。


「分類としては、祟り神、海神、土地神、外来神の複合っぽいですね。信仰圏が局地的なら、たぶん共存可能だと思います」


バニエルの大聖堂で仕える司祭たちは、その場で青ざめた。


「共存可能!? あれは冒涜ですぞ!」


「え、でも土地に根付いてるなら、ちゃんとお供えとか手順を踏めば、案外いけません?」


高校教師が首をかしげる。


「いけるとは何だ、いけるとは!」


司祭長は叫んだが、日本人たちはもう少し具体的な話がしたかった。


「塩って効きますか」


「米は?」


「酒はどの系統ですか。清酒か、それとも濁りのほうが雰囲気あります?」


「あと、触手にタコを供えるのは共食い判定になります?」


王宮は一時間ほど混乱した。


そして、まずいことに、クトゥルフはその会話を聞いていた。


海の底で。


夢のなかで。


深きものどもがざわついた。


「主よ、人の子らが……恐れておりませぬ」


「正気も失っておりませぬ」


「酒を持参するそうです」


巨大な眠れる神は、ゆっくりと片目を開けた。


その目は海溝よりも深く、星のない宇宙よりも暗かったが、どこか戸惑っていた。


『……酒?』


「はい、主よ」


『……供物として?』


「そのようです」


クトゥルフは沈黙した。


人類は本来、もっとこう、見た瞬間に膝から崩れ落ち、言語にならない叫びを上げ、宇宙的真理の重みで精神を破砕されるはずである。少なくとも、今までのシミュレーションではそうなっていた。


ところが翌日、霧の海の浜辺に来た日本人たちは、非常に落ち着いていた。


市役所職員がメモ帳を片手に前へ出る。


「はじめまして。突然すみません。こちら、海の神様系統でお間違いないでしょうか」


海が割れた。


空が濁った。


波のあいだから、巨大な触手が立ちのぼり、つづいて常人なら見ただけで一生悪夢にうなされるような頭部が現れた。翼はたたまれ、皮膚はぬめり、目は太古の深淵そのもののように冷たく光っている。


普通なら、ここで終わりである。


しかし大阪のおばちゃんの片方が、隣の院生を小突いた。


「ほら見てみ、写真で見るより愛嬌ある顔してるやん」


「立体だと質感がいいですね」


「質感って言うな」


高校教師が注意したが、本人もそこまで強くは言えなかった。たしかに、想像していたより、なんというか、神格に対して失礼ながら、目がつぶらだった。


クトゥルフは低い声で言った。


『我を見て、恐れぬのか』


SEが少し考えて答えた。


「いや、怖いは怖いですけど、怖いものって世の中わりといろいろあるので。その、カテゴリーとしては『めちゃくちゃデカい海の神様』ですよね?」


『……海の神様』


「はい。土地柄との相性もあると思います」


『我は星辰の彼方より来たりし、理を踏みにじる外なる威――』


「外来の神様なんですね」


『…………』


「たまにいますよね、後から来て地元に定着した神様」


クトゥルフは初めて、自分の存在が民俗学のゼミ資料みたいに扱われる屈辱を知った。


『我を、理解したつもりか』


「理解はしてないです」


院生は即答した。


「ただ、理解できないものがいること自体には、そんなに抵抗がないです」


その言葉に、クトゥルフは少し黙った。


なるほど、と思ったのだ。


この者たちは無知なのではない。最初から、「世界にはよく分からないものがそのまま居る」という前提で生きているのである。だから、禁忌の存在に直面しても、世界観が壊れない。壊れるべき壁が、もともときれいな直線ではないのだ。


これは、かなり困る。


一方で、妙に嫌いにはなれなかった。


その日の夕方には、浜辺に小さな祭壇ができていた。


塩、米、酒、それからなぜかスルメが置かれた。


「これでいいんですかね」


「まずは無難なところで」


「無難とは」


高校教師がまた注意したが、クトゥルフはなぜか怒らなかった。怒るどころか、少し嬉しかった。何万年ぶりかに、供物が自分の見た目に合わせて微調整されていたからである。


だが、それを空から見ていた者がいた。


バニエルである。


秩序と光と正規手続きの神は、雲の上で目を見開いた。


「何をしている」


雷鳴が走った。


空が裂け、黄金の光が浜辺に降り注ぐ。白い翼を持つ天使たちが列をなし、その中央に、厳かな光輪を戴いたバニエルが姿を現した。


村人たちは平伏した。司祭たちは泣いた。王都の魔術師たちは「やっぱりこうなった」と顔を覆った。


バニエルの声は、法そのもののように厳しかった。


「異邦より来たる人の子らよ、お前たちは何ゆえ、かかる外法の神に供物を捧げる」


市役所職員が控えめに手を挙げた。


「あの、近隣トラブルを避けるためです」


「何?」


「いや、存在を否定して刺激するより、まず挨拶して距離感を探ったほうが安全かなと」


「安全」


大阪のおばちゃんも続いた。


「ご近所づきあいや。神様でも何でも、顔見たら一回は挨拶しといたほうがええやろ」


バニエルは絶句した。


その隙を突いて、クトゥルフがぬるりと前へ出る。


『彼らは、良い』


「良くない!」


『供物の選定も的確であった』


「基準が分からぬ!」


『我に恐れをなさず、それでいて礼を失さぬ。稀有な者らだ』


「だからといって守護対象にするな!」


そこから先は、完全に神々の喧嘩だった。


空には雷、海には触手、地には幾何学的にねじれた影が走り、天使の軍勢と深きものどもが激突した。片方は正規の奇跡、片方は宇宙的な非ユークリッド暴力である。常人なら一目で意識を失う戦いだった。


しかし日本人たちは浜辺から少し離れた高台に移動し、レジャーシートを敷いていた。


「危ないので下がってください!」


王宮の近衛兵が叫ぶ。


「いや、下がってます下がってます」


SEが言う。


「これ以上近いと破片が飛ぶので」


「破片という認識なのか!?」


高校教師は双眼鏡で空を見上げながら、少し困ったように眉を寄せた。


「しかし、あれ、どっちが勝っても後片付け大変そうですね」


「そこなんよ」


大阪のおばちゃんの片方が深くうなずく。


「神様同士の喧嘩って、誰が掃除すんの」


その一言が、戦場に妙に響いた。


バニエルもクトゥルフも、一瞬だけ止まった。


たしかにそうである。


神罰の焦げ跡も、触手由来の粘液も、放置すれば景観を損ねる。


市役所職員はこの機を逃さなかった。


「すみません、両者とも、戦闘を続行される場合は事前に使用許可の申請をお願いします。あと騒音がかなり出ていますので、時間帯にも配慮していただけると」


「誰に向かって言っておる」


「管理の問題です」


院生も真面目に口を挟む。


「宗教的対立というより、在来信仰と外来秩序の摩擦なので、話し合いの余地はあると思います。共存ルールを決めませんか」


クトゥルフがゆっくり首を傾げた。


『共存ルール』


バニエルは眉をひそめた。


「そのようなものが成り立つと?」


「成り立つかどうかは知りませんが、今のままだと迷惑です」


SEのその一言は、不思議と両神に効いた。


一時間後、浜辺には即席の長机が置かれ、神々の停戦会議が開かれていた。


議長は、なぜか高校教師が務めた。


決まった内容は、だいたい以下の通りである。


クトゥルフは人類に対し、初見で即座に発狂級の威圧を行わないこと。

バニエルは未登録神格だからといって即時殲滅を試みないこと。

祭祀は地域の慣習に配慮し、騒音は日没まで。

供物の海産物については、共食い認定を慎重に協議すること。

幾何学がねじれる場合は、事前に周辺住民へ周知すること。


最後の項目で少し揉めたが、なんとか署名までこぎつけた。


会議が終わるころには、空の裂け目も閉じ、海も静かになっていた。


バニエルはまだ納得していない顔だったが、クトゥルフのほうは妙に穏やかだった。たぶん気に入ったのだろう。自分を見ても叫ばず、しかし雑には扱わず、しかも会議体に引きずり込んでくる人類など初めてだったからだ。


別れ際、クトゥルフは日本人たちに言った。


『……また来るがよい』


大阪のおばちゃんは気さくに手を振った。


「うん、でも次は急に海から出んといてな。こっちも心の準備あるし」


『善処しよう』


バニエルはそのやり取りを見て、深い深いため息をついた。


「なぜだ……なぜお前たちは、これを受け入れられる……」


市役所職員は少し考えてから、控えめに答えた。


「受け入れているというより、否定しても居るものは居るので、だったら距離感を探るしかないというか」


高校教師も続ける。


「世界って、最初から一つの理屈で全部きれいに説明できるとは限らないでしょう」


院生は最後に、いちばん学問っぽい言い方をした。


「神話的想像力の前提が違うんだと思います。排他的な唯一の真理に世界をきれいに閉じる文化だと、外から来たものは秩序破壊として見えやすい。でも、最初から山にも川にも石にも道にも何かいるかもしれない、で育つと、理解不能な超越者も『まあ居るかもしれないものの延長』に入りやすいんですよ」


バニエルは、たいへん複雑な顔をした。


それは神として、敗北に近い気分だった。

しかし同時に、少しだけ勉強にもなった。


彼は去り際に、きわめて不本意そうに言った。


「……次回より、会議招集は三日前までに書面で行え」


「分かりました」


市役所職員が即答する。


かくして、異世界アルカ=エデンには、世界で初めての「正規神格・外来異神格・住民代表による三者協議会」が発足した。


その後、浜辺には小さな祠が建ち、表札にはこう記された。


海のよくわからんけど偉い神様


バニエルはその名称に最後まで反対したが、クトゥルフが妙に満足そうだったので、そのままになった。


なお、現地住民のあいだでは今でも、


「神様同士の争いを止めた異邦人たち」


ではなく、


「神々の戦いに割って入り、それを近隣迷惑として扱った、畏れ多いのか非常識なのか、できればせめてもう少し現地の空気を読んでほしかった異邦人たち」


として語り継がれている。

最近のSNSでの宗教観をみてふっと思いついた内容です

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