9.信頼
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「私の、銀行口座ですか?」
目の前に差し出されたのは分厚い小切手帳だった。
私の名前がすでに印字されている。
「未来に続く領地の事業だ。この地に産業を起こしたことは素晴らしい。今回の報酬を預けておくのに開設しておいた。自由に使いなさい」
蝋燭に使うより大きな富を得ることができたと満足そうに微笑み掛けられて、びくつく。
目の前にいるのは、ヴァロー侯爵。ターシャの、父親だ。
会話をした最後の記憶は、前回のターシャが、ギャレット様と結婚がしたいと願い出た時。
食事ですらターシャとは同席することのなかった父親になんとか話を聞いてもらおうと、夜更けまで廊下で待っていたターシャの訴えは、けんもほろろに切り捨てられた。
『お前にはすでに縁談が用意されている。学園を卒業するまで大人しくしていなさい』
すぐに援助金目当ての婚姻だということは分かった。だから、今の段階で顔合わせすら無いのだと。もう、駆け落ちするしかないと思った。
──けれど! あんなド屑のために、名前も知らない狒々爺に処女を売っぱらうんだったら、領地のために老貴族に売り渡した方が良かった!! ずーーーーっと良かった。有効利用できた。
その場の結納金だけだって助かっただろうけど、嫁入り先で上手く立ち回ることができれば、ヴァロー侯爵領にとって有利な関係を築くことだってできたはずだ。
結局、私が私を売って得た金は、町医者とド屑、それ以外にも、私の知らない誰かの酒代とかギャンブル代として露と消えてしまったんだろう。
ターシャが逃げた後、ヴァロー侯爵家がどうなったのかを私は知らない。
知る勇気を持てなかった。私も、ド屑だ。
「ありがとう、ございます」
震えだしそうになる手を必至で押さえつけて、小切手帳を受け取る。
その確かな厚みを指で感じて、信頼されたのだと実感する。
小切手帳が発行できるということは金貨100枚以上が口座に入っているということだ。子供の小遣いというには、あまりにも大きな金額である。
それだけの大金に惑わされず、正しく使えるだろうという、信頼。
私が、自分の口座にある金額以上の支払いをすることがないという、信頼。
幾つもの信頼を突然与えられて、震えが止められない。
どうして自分が死に戻ったのかは分からない。
けれどそのお陰でこうしてやり直せる機会を得た。
それだけではなく、これからどうなってしまうのかという、これからヴァロー侯爵領を襲う危機を乗り越えるためのヒントまで貰ったのだ。
後悔ばかりだった前回のターシャの人生での恥と失敗を払拭して、胸を張って生きていきたい。
「頂いた信頼を裏切ることなく、正しく領地を繁栄させるために。全力を尽くすことを誓います」
私の誓いに、目の前に座っている二人が揃って目を見張る。
「ターシャ、お前。その瞳は……」
? そういえば、この間クレアにも瞳がどうとか言われたけれど、ただの薄茶の瞳が何だというのだろう。
「い、いや。随分と、一気に大人になってしまったと思ってな」
「えぇ。この前話をした時も思ったけれど、クレアとしか話せないほど引っ込み思案だったあなたを何が変えたのかしら、と思って」
夫妻は、視線を合わせて微笑み合った。娘の成長を喜ぶ二人の姿は、仲の良い夫婦そのものだ。
眩しくて、尊くて。ターシャは目を瞬いた。
再びターシャを振り向いたその表情は、勿論、死に戻る前の時に見ていたような険のあるものではない。愛しいものを見つめる視線だ。その二人の瞳の中には、ターシャが映っている。
たぶんきっと。前回の時だって、ターシャが気づかなかっただけで、夫婦には絆があったのだ。
けれど、忙しさも貧しさも余裕を奪う。
子供たち──ターシャに対する、愛をつたえる余裕はなかったのだろう。
そうして見えにくくなってしまった両親の愛が、クレアを失ったターシャには見えなかった。見つけようともしなかった。
自分は優しくしないくせに、優しくしてくれる人はいないのだと。いじけて。
侍従長だって、自分の姪にべったりだった癖に死に至る怪我を負ったことすら気が付かない人見知り令嬢に寄り添おうなんて気持ちがまるで湧かなかったとしても当たり前なのだ。
当たり前だ。私だってそうなると思う。
全部全部。今のこれは、死に戻りという奇跡がくれた、特別な時間だ。
あの苦しかった前世の記憶は忘れてしまいたい気持ちになることもあるけれど、それでも前の記憶が残っていたからこそ、今、分かることがある。
すべてが、奇跡だと。
ぽうっと、のぼせたような気持ちで答えた。
「……夢、でしょうか」
「夢? どんな夢だ」
少し前のめりで訊ねてくる父親に、はにかんだ笑顔を向ける。
「ヒミツです。お父様、お母様、ありがとうございました! 私、ちょっと領地を見て回ってきますね!」
──きゃーっ! お父様、お母様って言ってしまいましたわ!
頬が熱くて、その場から一刻も早く立ち去りたかった。
心のどこかで前回のターシャを引き摺っていた。一線引くつもりで、「ヴァロー侯爵」「侯爵夫人」と呼びかけていた。けれど。
本当は、愛されていなかったことへの拗ねた気持ちが言葉選びに表れていたのかもしれない。突然気が付いた自分の心の幼さに赤面する。
「領地を? 突然どうしたんだ。ターシャ」
「一人で街へ出ては駄目よ。必ず誰かを連れて行きなさいね」
「はーい!」
入り口で振り返り、淑女の礼をちょこんと取る。
いつもの綺麗な礼ではない。腰を下ろさない、年齢相応の子供の礼だ。
そうして息がつまるほどの全力で、廊下を駆け出した。
「クレア! 街へ出るわ。準備をお願い」
「お嬢様? 廊下を走ってはいけませんよ!」
「今は、無理!!」
それまでの、作り物めいた笑顔ではなく、所作だって歳に似合わないような完璧なものではない。本物の、笑顔を向ける。
胸がどきどきして、落ち着いたふりなどしていられなかった。
足がどんどん高く上がる。子供らしいといえば子供らしい、どこか弾むような足取り。
足を前へと踏み出す度にスカートが翻る。
前のターシャが足をこんなに高く上げたのなんか、オツトメの時のあれやこれやそれの時ばっかりだった。馬鹿らしい。
自分で足を動かせば、それだけでこんなに晴れやかな気持ちになれたのに。そんなことすら知らなかった。今、初めて知った。
ギャレットへ復讐するために、ヴァロー侯爵家の没落を阻止しようと思っただけだった。
けれど、そんな理由じゃなくて。
当たり前に家族が笑いかけてくれる未来のために、自分の知識を活かすこともできるのだと、今更気が付く。
「もっと褒めて貰えるようになるには、どうしたらいいのかしら」
娼館で手に入れた知識を上手に使うことができれば。他にもなにかあるはずだ。
むずむずと胸をくすぐる気持ちに突き動かされて、足だけでなく手が動く。
人生で初めて、両手を高く突き上げてガッツポーズをとった。
「よっしゃ。やってやるわ!」
まずは領地の現状を見て、できることを探すことにしよう。




