1.この死は、愛する人のために
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「あぁ、神よ……私はどこで、何を間違えたというのでしょうか」
娼館の片隅にある、埃まみれの暗い部屋で一人。ターシャはこの世との別れを迎えようとしていた。
愛する人との逃避行中、異国の地で病に倒れた愛しい人に薬を用意するために、ターシャは娼館にやってきた。自ら。
「あの人は……助かったのかしら。少しでも薬が効いて、安らかに、眠ったのだといいのだけれど」
医者は、高い薬を飲めば治せると約束してくれた。
その薬を手配するための手段も用意をしてくれた。「必ず治してみせる。安心してお勤めを果たすといい」
頑張ってお勤めすれば、借金を返して愛しいあの人の元に帰れるかもしれない、と。
その日まで頑張るつもりだった。
「借金を返しきる前に、私まで病に倒れてしまったなんて。この娼館に紹介して下さった医師様にも申し訳……ゴホッゴホッ」
かび臭いシーツに噎せたのか、咳と共に口から赤黒い血が飛び散った。
またシーツや布団を汚してしまった。また、借金が嵩んでしまう。
薬代だって馬鹿にならない。食事も水も、用意してもらうにはお金が必要だ。
借金返済のために貯めてきたお金だけれど、病を得てから減る一方だ。
このままでは、部屋に置いて貰うことすら許されなくなる日も近いだろう。
「その前に、一目でいいから。ギャレット、あなたに会いたい」
快復したら会いに来てくれると約束してくれた愛しい人の顔を思い出そうとした。
ターシャを見つめる少し垂れた目元。いつも少し困ったように見える彼が、笑った顔が好きだった。
甘くターシャの名前を呼ぶ声を最後に聞いたのは、いつだったろう。
思い出す度に、遠く薄れていく彼の記憶。
今のターシャには、彼がどんな顔をしていたのかすら、おぼろげだ。
初めて繋いだ手の熱さも、交わしたくちづけの柔らかな熱も。
あの時に感じた幸せな想いだけが、胸に残るばかりで。
破れたカーテンの隙間から差し込む光に向かって、腕を伸ばした。枯れ木のような腕だ。
一条の光に埃が輝いていて、まるで神の奇跡がターシャに向かって差し伸べられた気がした。
ターシャの平凡な薄茶色の瞳を、愛らしいと褒めてくれたあの人は傍にいない。そうしてその瞳ですら、今は病を得て濁ってしまった。ターシャの世界はすべてがぼやけて曖昧だ。
永遠の愛を誓った愛しい人。
彼を愛し愛された記憶だけが、ターシャの生きる意味だ。
未だに会いに来てくれないということは、高価な薬も効果はなく、彼の命はすでに儚くなってしまっているということなのだろう。
「私を愛してくれた人は、いつも、先に逝ってしまう」
いつも面倒くさそうにしか相手をしてくれなかった両親や姉達に代わって、幼いターシャを唯一愛してくれた侍女を失ったのはまだ十歳の頃だ。
彼女を失ってから、ターシャを見てくれたのはギャレットだけだった。
「ギャレット……愛して、いま……」
彼が待っていてくれるというならば、一人寂しく死んだとて悲しむ理由にはならない。
ターシャは、口元へ笑みすら浮かべて、その生涯に幕を閉じた。
……筈だった。




